第556話 第二章「夢市場の怪盗」後編
競売鐘が鳴る前、夜市では来歴札を公開する。
公開と言っても、読めるのは登録者、編集回数、転売範囲の外枠だけだ。
具体的な夢の内容、本人名、治療歴は伏せられる。
市場の客が集まり始めた。
仮面。
眠り帽。
顔を持たない幻。
人の姿を借りた企業印。
夢を買う人間は、現実の顔を隠す。
夢を売った人間だけが、本人確認のため顔を出させられる。
「嫌な左右差」とハル。
「買う側は秘密、売る側は証明」とエリア。「市場の設計自体が、所有者を決めている」
「今は事件現場です」とセレナ。「評価は後」
「評価しないと、何を証拠として見るか決まらない」
「評価を先にすると、見たい証拠だけ拾う」
幼なじみの王子を挟まずとも、二人は衝突できる。
それは関係が育った証拠であり、会議が長くなる原因でもあった。
ハルは三枚の来歴札を見る。
金の糸。
透明な箱。
警備は四人。
箱へ近づけば、床の波紋が名前を記録する。
「盗むなら、どうする」
「今、盗む相談をするな」とセレナ。
「犯人側で考える」
「考えるだけ」
「盗られた後じゃ遅い」
「その言葉を、事件現場へ入るたび使っています」
「便利だから」
「便利な言葉は、濫用すると証拠能力を失います」
ノクスが、ハルの肩から降りた。
二本の尾が別方向を向く。
鍋。
食卓。
歯車。
三つの匂いを追うのではない。
金の糸へ鼻を寄せる。
「何かいる?」ハル。
ノクスは喉の奥で、低い二音を鳴らした。
警告。
市場の上空――現実なら天井、夢なら海の空――から、白い紙片が降り始める。
「演出?」カイル。
「予定にない!」札守が叫ぶ。
白い紙片は雪ではない。
値札だった。
何も書かれていない。
名も、値段も、由来もない。
空白の札が、客の仮面、灯籠、桟橋へ貼りつく。
貼りついた場所から、文字が消える。
店名。
値段。
出口表示。
所有者名。
「空白化!」札守が杖を打つ。「来歴札を覆ってる!」
警備が三箱へ走る。
ハルも走る。
「一、二、三!」
桟橋を蹴る。
市場の海へ落ちる直前、吊り看板の縁を右手で掴む。
左肩へ体重を預けない。
補助帯が腰で張る。
「勝手に飛ぶな!」
エリアの路図が足元へ伸びる。
淡緑の線が、夢の海面へ一秒だけ足場を描いた。
ハルは線を蹴り、透明箱の上へ着地する。
その瞬間。
箱の裏側から、誰かが出た。
白い仮面。
黒い長外套。
外套の内側へ、無数の来歴札が縫い付けられている。
手に持っているのは刃ではない。
細い鉗子。
鉗子が、歯車灯籠の金糸を挟む。
「それ盗むと、夢が消える?」ハル。
「消えない」
仮面の声は、若くも老いても聞こえた。
何人もの商品説明を重ねた声。
「だから優しい盗難だ」
「優しいって決めたの誰」
「残された人間だ」
「盗る側じゃん」
鉗子が閉じる。
金糸が切れた。
歯車灯籠は箱に残る。
来歴札だけが、仮面の手へ滑る。
警報が鳴った。
怪盗は鍋の箱へ跳ぶ。
ハルが追う。
黒外套の裾を掴む。
左肩が抜けかける。
瞬間、補助帯を自分で緩めた。
掴み続ければ相手と一緒に落ちる。
離せば盗まれる。
身体を最も安い代償にする癖が、左肩から痛みとして返事をした。
「離して!」
エリアの声。
命令ではなく、具体的な役割が続く。
「私が次を塞ぐ!」
ハルは離した。
路図が怪盗の前へ壁ではなく、三本の選択路を描く。
左は警備。
右はセレナ。
中央はカイル。
「見事な逃げ道だ」と怪盗。
「全部、出口ではないわ」
「道は、歩いた者が出口にする」
怪盗は中央を選んだ。
カイルへ真っすぐ。
王太子の右手首が燃える。
盾を出せば、夢の市場で王家の誓力が広がる。眠りと覚醒の境が不安定な今、誰まで守る対象へ含まれるか分からない。
カイルは盾を出さなかった。
左足を引く。
右籠手ではなく、空の右前腕で怪盗の手を受ける。
左拳が腹へ入る。
「王子が素手?」
「私用だ」
怪盗が折れた。
ように見えた。
身体が白い札へほどける。
「夢の代役!」ソムナ。
本体は、食卓灯籠の背後。
鉗子が二本目の金糸を切る。
セレナの長剣が走る。
札ではなく、逃走経路の吊索を切る。
「事実だけを。あなたは二枚の来歴札を窃取した」
「夢は残した」
「所有者の証明を奪った」
「証明がない夢は、誰のものになる?」
「持ち主が分からないことと、あなたのものになることは同義ではない」
怪盗は笑った。
仮面の口は動かない。
外套の札が、紙の擦れる音で笑う。
「星律官。市場は、分からないものを一番高く売る」
最後の鍋灯籠。
ハルが箱へ飛ぶ。
今度は一、二まで数えて、三を言えなかった。
左肩が痛む。
距離が一歩足りない。
赤い炎が、足場として一瞬だけ開いた。
カイルの王盾。
壁ではない。
踏んでよい角度の、短い盾。
ハルは盾を蹴る。
「先に飛ぶな!」カイル。
「後から出すな!」
指先が怪盗の鉗子へ届く。
二人で一本を掴む。
「夢を返せ」
「夢はそこにある」
「札を返せ」
「札が夢なら?」
「違う」
「証明がなければ、お前たちは夢を選べない」
「選ぶのはカイルだ」
「何を基準に?」
鉗子が開く。
金糸が切れた。
三枚目の来歴札が、黒外套へ吸い込まれる。
同時に、怪盗は自分の足元へ空白札を貼った。
店名が消える。
桟橋の由来が消える。
誰が夢で見た場所か分からなくなり、道が崩れる。
ハルと怪盗が、黒い海へ落ちる。
水面が迫る。
夢なら溺れる。
現実なら床へ落ちる。
エリアの線が届かない。
ハルは右手で怪盗の外套を掴み、左手で自分の退出札を引きちぎった。
夢景が割れる。
床。
硬い現実の石板へ、右肩から転がる。
受け身。
配達鞄が衝撃を吸う。
怪盗の外套だけが指に残り、本体は白い紙の鳥へ変わって換気孔へ飛んだ。
ノクスが追う。
鼻を上げ、すぐ止まる。
市場じゅうの夢の匂いが、同じ鳥へ重ねられていた。
「追えない?」ハル。
ノクスの二本尾が逆を向く。
追えないのではない。
全部が追える。
それは、追跡として同じくらい役に立たない。
三つの夢は残った。
鍋。
食卓。
歯車。
来歴札だけがない。
札守の老女は、透明箱の周りへ白い封鎖帯を張った。
「競売は停止」とセレナ。
「停止できない」
「なぜ」
「来歴札がないから」
「説明になっていません」
「出品者を確認できない。停止権限者も確認できない」
「市場管理者が止める」
「管理契約では、来歴不明品は匿名遺失夢として自動競売へ移る」
「盗難直後でも?」
「盗難を立証する札が盗まれた」
ハルは頭を抱えた。
「この市場、言葉を丸くつないで逃げてない?」
「輪は便利です」と札守。「出口をなくせる」
競売台の鐘が鳴る。
市場の海上へ、金文字が浮かぶ。
出品番号、零。
由来、不明。
所有者、不明。
編集履歴、不明。
内容、王族級。
保証、なし。
匿名商品。
三つの夢は、一つの箱へまとめられた。
買い手の仮面が、一斉にこちらを向く。
「本人がいる!」ハル。
「本人だという来歴がない」と、どこかの買い手。
「顔見ろ!」
「夢の商品性に顔は含まれない」
「王太子印」とカイル。
「夢を見た時の印と同一とは限らない」
「母の記録」
「公開されていない」
「苺の匂い」
「嗜好情報は広く知られている」
正しい反論が、正しく人を奪う。
夜市の競売人が、細い槌を上げた。
「匿名王族夢、三版一括。開始価格――」
カイルが競売台へ上がった。
「異議」
「札は」
「ない」
「権限は」
「本人」
「証明は」
「これからする」
眠れていない。
判断力も落ちている。
夢へ入れば、王子でない人生から戻れないかもしれない。
それでも彼は、仮面の客を見渡した。
「三つとも見る」
ソムナが綴灯杖を握る。
「全部へ入ると、身体負担が大きい」
「一つずつ」
「途中でやめられる」
「やめた夢が本物だったら?」
「やめることと、捨てることは違う」
アサが言った。
長い沈黙の後の、一文。
カイルは彼らを見る。
「なら、最初は鍋だ」
「理由」とセレナ。
「一番、景気がいい」
炭火肉の匂い。
港の風。
王子でない人生。
競売槌が、まだ空中にある。
ソムナの杖先が、鍋の紙灯籠へ触れた。
夢が開く。
市場じゅうへ、知らない港の朝焼けが流れ出した。
常夜の町で、あり得ない朝が始まる。
匿名商品、王子の夢。
最初の入札額が、王国の小駅一つを一年動かせる金額へ跳ね上がった。