第557話 第三章「王子でない人生」前編
王子でない人生には、たいてい職業が付く。
庭師。
兵士。
旅芸人。
パン屋。
名もない船乗り。
歴史書に残る王族の逃亡願望は、なぜか勤労意欲に満ちている。
何もせず昼まで眠り、税も会議も責任もなく、昨日と同じ椅子へ座る人生を夢見た王子は少ない。
正確には、少ないのではない。
そのような夢は、後世の編纂者に「怠惰」と削られた。
王族の夢まで、国民へ役に立つ形へ編集される。
カイルの夢では、彼は料理人だった。
「火、落とせ!」
目を開けた瞬間、誰かが叫んだ。
カイルは反射で右腕を上げる。
盾型籠手がない。
代わりに、長い鉄鍋の柄を握っていた。
「火だって!」
「見えている!」
「見てるだけじゃ焦げる!」
「王盾――」
「何だそれ、香辛料か!」
若い給仕が、鍋の下へ水をぶちまけた。
炎が消える。
白い蒸気。
焦げた肉。
港の潮。
甘い果実。
朝だった。
夢灯環には存在しない、橙色の朝日が窓から差し込んでいる。
低い石造りの店。
壁へ、船員の名札と欠けた皿。
天井から、乾燥魚、香草、銅鍋。
窓の外は浮遊港。帆船が空へ出入りし、桟橋の下を雲が流れる。
カイルは、自分の手を見る。
左手の指に包丁だこ。
右前腕に盾の筋肉はない。
手首の輪状星痕もない。
白い礼装ではなく、焦げ跡だらけの赤い前掛け。
深紅の半マントは、窓の日除けへ使われている。
「景気が」
言いかけて、止まった。
景気は悪くない。
鍋は焦げた。
客は待っている。
給仕は怒っている。
仕入れ帳は赤字。
皿は二枚足りない。
それだけだ。
国境が落ちない。
軍令が遅れない。
誰を見捨てるか決めなくてよい。
「カイル」
声がする。
エリアが、店の隅の卓へ座っていた。
濃紺の髪を短く束ね、旅装ではなく港の測量衣を着ている。グリムリリーは壁へ立てかけられ、日傘の形。淡緑の瞳が、料理人のカイルを正確に見ている。
「何を作っているの」
「炭火肉」
「鍋で?」
「新しい技法だ」
「焦がしただけに見える」
「王家秘伝」
「王家ではないでしょう」
その一言が、胸へ温かく落ちた。
王家ではない。
否定ではない。
解放に聞こえる。
「では店主秘伝だ」
「店主は奥で寝てる」と給仕。
「私は?」
「雇われ。三日前に皿を七枚割った」
「王子より向いてないな」
「王子?」
「いや」
カイルは笑った。
犬歯が見える。
声に力がある。
背中の火傷がない。
店の扉が開く。
「配達!」
赤いマフラーの少年が、大きな箱を抱えて入る。
「遅いぞ、ハル」
「道が動いた」
「言い訳として弱い」
「この世界では道、動くでしょ」
「この世界?」
ハルが一瞬、言葉を失った。
夢の中のハルではない。
共有夢へ入った現実のハルが、役を与えられている。
配達員。
赤いマフラー。
斜め掛け鞄。
箱の中身は、苺だった。
「頼んでない」とカイル。
「店の注文札」
ハルが札を見せる。
そこには、カイルの左手の筆跡で書かれていた。
『苺二籠。王城ではなく港厨房へ』
「王城じゃない」とハル。
「ああ」
「嬉しい?」
「不愉快なほど」
「じゃ、変」
「夢だぞ」
「夢だから変でいい?」
「現実よりは」
「その言い方、ソムナに怒られる」
カイルは苺を一つ取る。
赤い。
小さい。
甘い匂い。
あの匂いではない。
雨上がりの石も、焦げた布も、機械油もない。
ただ食べ物として正しい苺。
口へ入れる。
酸味。
種。
少し温い。
「うまい」
「本物?」ハル。
「夢の中で味がする」
「そうじゃなくて」
「質問が早い。今は食べる」
カイルは二つ目を取った。
王族は、食事の一口ごとに毒見を受ける。
皿の順番、給仕の家系、食材の産地、客の視線が記録される。
料理人の彼は、洗っていない苺を前掛けで拭いて食べる。
それだけの無作法が、国を捨てるより甘かった。
夢は、持ち主の願いを映すとは限らない。
恐れを映す。
昨日聞いた歌を映す。
寝る前に見た広告を映す。
自分ではない誰かの望みを、借り物の顔で映す。
それでも、人は夢へ「本音」という札を付けたがる。
覚醒中の言葉より、眠っている映像の方が、本人も隠せない真実に見えるからだ。
眠っている人間は反論できない。
ゆえに夢は、尋問者にとって都合がよい。
カイルの港厨房は、都合がよすぎた。
朝の客が来る。
翼鯨の背市で会った商人。
自由港の空賊。
翠獣環の牧童。
鏡砂環の旅芸人。
雷鎖環の車掌。
全員が、今までの旅で見た顔を少しずつ持っている。
名は違う。
服も違う。
役割だけが、カイルへ負担をかけない形へ変わっている。
ミラに似た客は、代金をきっちり払う。
ガンガに似た大男は、全員の注文を一人でまとめない。
ユノに似た楽師は、演奏前に見てよい幻の範囲を客へ聞く。
イヴァに似た車掌は、終点を決めず途中下車する。
旅で学んだ答えが、全部、最初から生活へ入っている。
「便利だ」とカイル。
エリアが卓へ地図を広げる。
「何が」
「皆、失敗した後の形で現れる」
「夢だからでしょう」
「幼少期の夢なら、私は彼らを知らない」
言葉が落ちる。
炭火が爆ぜる。
エリアは地図針を一本抜いた。
「今、自分で気づいたわね」
「気づきたくなかった」
「未来の知識が混じっている」
「未来ではない。現在だ」
「どちらでも、幼いあなたの原本ではない」
「原本でないから、価値がない?」
「言っていない」
「顔に書いてある」
「私の顔を地図にしないで」
「長年読んでいる」
「読み違いも多い」
カイルは鍋をかき回す。
焦げた肉。
刻んだ根菜。
塩。
辛い赤粉。
ロロが厨房の裏から顔を出した。
夢の役は、機関修理人らしい。
四本の補助腕で、圧力鍋の蓋を押さえている。
「これ、いつの道具だ」
「知らん」
「二年前に自由港で作られた圧力弁だぞ」
「夢が先に発明した」
「機械史を寝言で改竄すんな!」
ロロは蓋を外す。
内部の弁へ、自由港の工房印。
千艘港の事件以後にゼロスター号へ付いた同型部品。
「幼い頃にはない」とハル。
「分かっている」
「じゃ、出る?」
カイルは答えない。
給仕が注文票を持ってくる。
「昼の団体、二十人。王城の会議が中止で流れてきた」
「王城?」
「今日は王子が公務を休む記念日だって」
店の客が笑う。
誰も責めない。
王子が休むことを、国民が祝う。
都合がよすぎる。
カイルは肉を皿へ盛る。
「一皿足りない」
「最後の一口を残せば」とハル。
「客へ食べかけを出すな」
「いつも最後、一口残すでしょ」
カイルの手が止まる。
現実の癖。
最後の一口を、護衛や給仕へ渡す。
夢の厨房でも、皿の端に小さな肉が一つ残っている。
「この夢、今の俺を知りすぎている」
「編集した人が知ってる」とセレナの声。
姿は見えない。
市場の外側から、夢綴りを通して聞こえる。
『公開記録、同行記録、報道映像から十分構成できます』
「セレナまで店へ来い」
『私は覚醒側で接触時刻を記録しています』
「不公平だ」
『必要な役割分担です』
「甘い物は」
『持っています』
「さらに不公平だ」
客が増える。
皿が並ぶ。
注文が飛ぶ。
カイルは動く。
左手で包丁。
右手で鍋。
背中は痛まない。
誰も盾を求めない。
楽しい。
楽しいことが、証拠を邪魔する。
人は苦痛の夢を偽物だと思いたがる。
同じように、幸福な夢を願望だから偽物だと切り捨てたがる。
どちらも乱暴だ。
この夢は、カイルの願いを正確に含んでいる。
ただし幼少期の原本ではない。
「後から作られた慰め版」とエリア。
「慰めなら偽物か」
「そうは言っていない」
「原本でなくても、俺の夢だ」
「あなたが見たとは限らない」
「俺が欲しいと思っている」
「今、そう思ったことは本物」
「なら残す」
「残していい」
エリアは即答した。
カイルが振り向く。
「捨てろと言わないのか」
「原本ではないことと、持っていてはいけないことは別」
「王子でない人生への逃避だぞ」
「逃げたいと思うことまで、公務で禁止するの?」
「昔の君なら禁止した」
「昔の私を、今の私へ編集しないで」
言葉が返る。
夢の中で、現実の二人が話している。
「では」とカイル。「この店を持っていてもいい?」
「夢として」
「いつか現実にしたいと言ったら」
「王位、店、国、同行者、費用、代替権限を並べて相談する」
「夢が重い」
「現実へ持ち帰れば、重くなる」
夢から戻った後の現実負担〈モーニング・コスト〉。
夢の中で店を持つだけなら、誰も困らない。
現実で店を持つなら、王子の公務、国民の生活、従業員の賃金、仕入れ、疲労、自由が付く。
夢は軽い。
現実が夢を重くするのではない。
現実には、他人がいる。