第558話 第三章「王子でない人生」後編
昼の鐘が鳴る。
港の朝日が、高い位置へ移る。
「退出時刻」とソムナの声。
厨房の扉へ、橙の線が現れた。
夢から戻る出口〈ウェイク・シーム〉。
アサの退出札が、カイルの前掛けへ付いている。
「まだだ」とカイル。
「時間」とメイの声。
「客が残っている」
『夢の客』
「皿が残っている」
『夢の皿』
「仕込みが」
『あなたの体温、三十七度一分。覚醒側で王盾星痕が上昇』
身体は、現実にある。
夢の厨房がどれほど暖かくても、現実のカイルは市場の椅子へ座り、三日で三時間しか眠っていない。
「あと十分」
「今、答えなくていい」とソムナ。「でも、延長は同意じゃなく身体条件で決める」
「私の身体だ」
「今のあなたは、眠気で判断が落ちてる」
「だから他人が決める?」
「退出だけ。夢を捨てるかは決めない」
カイルは鍋へ向き直る。
煮込みが、ちょうどよい色になっている。
現実では、料理をほとんどしない。
厨房へ忍び込んで苺や肉を盗み、皿だけ洗って返す。
この夢では、皿を作り、渡す。
役職ではなく、手で人を満たす。
「俺がここに残ったら」とカイル。「王国はどうなる」
「夢の中で聞く?」ハル。
「夢だから聞ける」
「困る」
「誰が」
「俺」
「国ではなく?」
「国もたぶん。俺は国の顔、よく分かんない」
「無責任だな」
「王子じゃないお前が必要って、前に言った」
「覚えている」
「でも、王子のお前がやることも必要。どっちかじゃない」
「両方は贅沢だ」
「苺二籠頼む人が言う?」
「夢の経費だ」
「現実へ請求する」とロロ。
カイルが笑う。
扉の橙線が薄くなる。
「カイル」とエリア。
声が、柔らかくなる。
「出ましょう」
「命令?」
「頼んでいる」
「理由」
「次の夢を、あなたと一緒に見たい」
王子ではなく。
証拠でもなく。
幼なじみとして。
カイルは前掛けを外す。
指が止まる。
店の壁に、一枚の写真があった。
料理人のカイル。
配達員のハル。
測量士のエリア。
修理人のロロ。
黒い小獣。
笑っている客たち。
写真の隅に、日付。
王都暦九八七年。
「今、何年」とカイル。
「九八七年」とエリア。
「幼少期の記録は、九七六年以前」
「十一年後の暦」
決定的ではない。
夢は未来の日付を作れる。
ただし、圧力弁、旅の顔、今の癖、今の年号が、同じ方向を指す。
幼少期の原本ではない。
カイルは写真を外す。
「持ち帰れる?」
「内容の複製は、所有権審査後」とセレナ。
「今は」
「記憶して」
「正確に?」
「不正確でいい」
カイルは写真を見る。
全員の顔。
店名。
窓の形。
皿の欠け。
覚える。
正確に覚えようとしない。
「出る」
橙の線へ歩く。
あと一歩。
厨房の奥から、母の声がした。
『カイル、ご飯よ』
足が止まる。
夢が、彼の最も欲しい声を知っている。
「母?」
奥の扉。
白い光。
苺の匂い。
『今日は、王子を休んでいいの』
カイルの手が、出口ではなく奥の扉へ伸びる。
「待って」とソムナ。
「母がいる」
「この夢は、今のあなたを材料に編集されてる」
「声は」
「似せられる」
「聞くだけだ」
「聞いたあと、出る?」
「分からん」
正直だった。
だから危険だった。
奥の扉が開く。
白い衣服。
女性の影。
顔は逆光で見えない。
『ずっと、ここにいていい』
カイルの右手首が燃える。
現実側で、王盾が開いた。
厨房の窓が赤い炎で塞がれる。
出口の橙線が細くなる。
「カイル!」
ハルが腕を掴む。
「離せ」
「嫌」
「夢だ」
「だから?」
「母に会う」
「本物か分からない!」
「本物でなくても、声はある!」
カイルが振り払う。
王盾の炎が、ハルと奥の扉の間へ立つ。
守るための盾。
何から守るか、本人が選んでいない盾。
エリアの路図が炎へ触れる。
「カイル。正確に言って」
「今は無理だ」
「では一つだけ。あなたは、この声に何を言ってほしいの」
「戻らなくていい」
厨房が静まる。
母の影も。
夢の客も。
鍋の沸騰も。
カイルの声だけが残る。
「王子でない人生へ、残っていいと言ってほしい」
それは、夢の真偽とは別の本音だった。
ハルは腕を掴み直す。
「俺は言わない」
「分かっている」
「戻れとも命令しない」
「困るな」
「一緒に出て、起きてから決めよう」
「夢の外で?」
「夢の外じゃないと、俺たちもいる」
夢の中にもいる。
けれど、今いるハルたちは、夢の役へ引かれている。
配達員。
測量士。
修理人。
現実では、もっと面倒だ。
自分の都合がある。
傷がある。
反対もする。
他人は、夢の中より不便である。
だから選択を共有できる。
カイルは母の影を見る。
「顔を見ないで出るのか」
「今は」とソムナ。
「後で見られる?」
「あなたが選べば。来歴を確認して、表示して、退出を残して」
「約束する?」
「約束しない」
「なぜ」
「市場がどう動くか分からない。取り戻せる保証もない」
ソムナは、安心する嘘を言わない。
「でも、探す」
カイルの肩から力が抜ける。
「景気が悪い案内人だ」
「うん」
彼は奥の扉へ背を向ける。
母の声が、もう一度呼ぶ。
『カイル』
返事をしない。
出口へ歩く。
一歩。
二歩。
三歩目で、厨房の床が伸びた。
出口が遠ざかる。
「夢が閉じる!」ソムナ。
現実側の王盾が、退出を「危険」と認識している。
夢の慰め版が、滞在を「同意」と誤認している。
カイル自身の迷いが、両方を強くする。
「走るぞ」とハル。
「王子へ命令か」
「料理人へ配達」
「何を」
「現実」
「重い荷物だな」
「受取拒否できる」
二人が走る。
エリアが床の延長率を測り、路図を最短ではなく「戻れる幅」で重ねる。
ロロが夢の圧力弁を外し、厨房の蒸気を逆へ流す。
ノクスが母の影へ行かず、カイルの足元へ並ぶ。
出口まで、十二歩。
夢が十四歩へ伸ばす。
「一、二、三!」
ハルが先に跳ぶ。
「先に飛ぶな!」
カイルも跳ぶ。
二人の手が、橙の線へ同時に触れた。
覚醒。
夜市の競売台。
鍋の紙灯籠。
仮面の客。
金の槌。
カイルは椅子から立ち上がり、すぐ座り直した。
メイが肩を押したのではない。
脚に力がなかった。
「水」とメイ。
「肉」
「先に水」
「王子権限で」
「停止中」
「誰が」
「身体」
彼は水を飲む。
手が震えている。
セレナが接触時刻を記録する。
「第一夢から退出。本人による原本認定なし。編集痕の疑い、未来知識の混入を確認」
「原本ではない」とカイル。
「断定理由」
「王都暦九八七年。自由港式圧力弁。現在の同行者。現在の癖」
「価値判断は」
「残したい」
「理由」
「欲しいから」
セレナは、その一文も記録した。
原本ではない。
無価値ではない。
夜市の買い手たちがざわめく。
「慰め版でも王太子本人が所有を希望」
「価格上昇要因」
「本人の欲望を含む」
「再入札を――」
「売らない」とカイル。
「所有証明は」と競売人。
「これからする」
彼は鍋の灯籠を見る。
夢の店は消えていない。
母の影も、奥に残る。
戻りたい。
今すぐ。
現実の王子を置いて。
カイルは、再び目を閉じかける。
右手首が赤く光る。
メイが指を二本立てた。
「寝るなら、医療管理下」
「夢へ戻る」
「次は食卓」
「鍋へ」
「順番を変える理由」
「未練」
「その理由では許可しない」
「本人の選択だ」とソムナ。
「低血糖と睡眠不足で判断が落ちている。選択能力を永久に否定しない。今は十分、食事、休息」
「十分も待てば競売が進む」
「生きた本人が倒れれば、夢の所有権だけ取り戻しても治療にならない」
ソムナが黙る。
夢の中では、人の痛みに早く手を出す。
現実の身体は、メイにしか見えていない部分がある。
カイルは水杯を置く。
「十分」
「十五」
「十二」
「十五」
「王族割引」
「二十にする」
「十五で」
交渉成立。
カイルは豆スープを口へ運ぶ。
味が薄い。
夢の炭火肉より、ずっと薄い。
それでも身体へ入る。
夢の外で食べた一匙は、夢の中の宴より重かった。
競売台では、二つ目の紙灯籠が開き始めている。
食卓。
亡母を含む、理想の王家。
その夢からは、皿の触れ合う音が一つも聞こえなかった。