第585話 第五章「一人で預かる誓い」前編
自己犠牲は、計算が速い。
会議を開かなくてよい。
同意を集めなくてよい。
費用を分けなくてよい。
責任者を一人決めれば、他の全員は感謝する側へ回れる。
だから物語は、自己犠牲を好む。
限られた頁で決着する。
死んだ者は後始末へ異議を唱えない。
生き残った者は、その犠牲を無駄にしないという新しい義務を背負える。
美しい。
美しい計算には、たいてい一つだけ書かれていない数字がある。
犠牲になる本人が、助かる側に数えられていない。
【夢内/灯籠巨人・中央流路/入夢/夜明けまで一時間十四分】
札が、ソムナへ降った。
雪ではない。
灰でもない。
町じゅうの誰かが、いったん自分の外へ置いたもの。
夫の死。
薬の時刻。
パンの焼き方。
昨日言えなかった謝罪。
家賃。
子守歌。
起きた後に必要な杖の場所。
眠っている間だけ忘れたかった顔。
全部が同じ紙の大きさへ切られている。
人間は、紙へ書く時に平等になる。
内容ではなく、用紙規格だけが。
ソムナは一枚を袖へ縫う。
眠っていた住民が一人、現実で目を開ける。
公開表示。
『覚醒率、六十九パーセント』
二枚。
『七十』
三枚。
『七十一』
効いている。
間違っている方法が、効かないとは限らない。
むしろ、すぐ効くから長く残る。
「名前」とアサ。
「ソムナ・リル」
「二回目」
「ソムナ・リル」
「現在地」
「巨人の……」
どこ。
水はなくなっている。
札が集まりすぎて、紙の床になった。
「中央流路」とルメの複数声。
「中央流路」
「身体」
「夜市救護区、第三寝台」
「隣」
答えが出ない。
誰が寝台の隣にいた。
四角い眼鏡。
白い前髪。
帳簿。
「医師」
「名前」
紙札が鳴る。
「……メイ」
「遅れた」
「思い出した」
「今、形から探した」
「同じ」
「違う」とアサ。
声は平ら。
責めない。
差を消さない。
ソムナは次の札を縫う。
明確に拒む者の札は、縫えなかった。
閉じた醒め目を押さえる人影。
その人の札だけ、糸が弾く。
「術は拒否を越えない」とセレナ。
「なら、他の札も本人が拒否してない」
「本人が選んだのではなく、都市規定が代理で同意している」
「今、話せない」
「話せないことを賛成にしないと、あなたも言った」
「でも、一人は拒めた」
「拒否の方法を知っていた一人だけ」アサ。
知らない者。
身体が動かない者。
文字を読めない者。
自分の灯籠がどこにあるか知らない者。
拒否権がある。
使い方を知らなければ、制度上は自由である。
実際には、自由を使える者だけが自由になる。
「代理同意を止める」とユーディ。
「止めたら、今つながってる札が落ちる」とロロの声。「落ち先、決めろ!」
「だから僕が持つ」
「落ち先を一人にするな!」
「時間がない」
「時間がない時に作った一人受けが、百七年残った!」
ロロの声が咳へ変わる。
ソムナは聞かなかったふりをする。
次。
次。
覚醒率が上がる。
七十三。
七十四。
身体側の歓声が、遠く聞こえる。
人が目覚める。
正しい結果。
ソムナの右袖が、床へ届くほど重くなる。
【現実/夜市救護区・第三寝台/入夢中/夜明けまで五十九分】
ソムナの体温、三十四・九。
脈、一三八。
条件の一四〇へ近い。
「切断準備」とメイ。
「まだ」とアサ。
「身体条件」
「本人条件も、出口灯三つ」
「残り」
「二つ」
「三つ失った」
「最初は四つ。今二つ。二つ失った」
「本人が数を覚えている?」
アサは答えない。
ソムナの杖は夢内。
現実には右手が空を握るだけ。
患者が運営へ持つ拒否権〈ペイシェント・キー〉は、夢灯網の操作鍵ではない。
患者が「ここから先は使うな」と言える手順の総称だった。
言葉。
札。
指の動き。
目線。
事前に決めた沈黙。
ソムナは、自分の拒否手順を作っていなかった。
治療者だから。
案内人だから。
自分は患者ではないから。
「それが間違い」とメイ。
「今、本人へ言える?」ユーディ。
「言う」
メイは通信灯を握る。
「ソムナ。あなたの身体を止める。脈一四〇、体温三十四・八で切断」
『住民が』
「あなたも住民」
『僕は案内人』
「職名を身体へ使わないで」
『あと少し』
「少しの数」
『分からない』
「なら終了」
メイが切断札へ手を伸ばす。
ソムナの左手が、現実で動いた。
契約輪が光る。
切断札の糸が、夢側から縫い止められる。
「拒否?」ユーディ。
「治療中止への拒否」とアサ。「本人の意思」
「身体危険なら代理判断」
「条件到達前」
「一拍で到達する」メイ。
「一拍待つ」
「待って死んだら」
「止めて本人を消したら」
二人は見る。
メイの頁をめくる速度が上がる。
アサの指が膝を二度叩く。
どちらも怖い。
同じ怖さではない。
【夢内/灯籠巨人・中央流路外縁/入夢/夜明けまで五十七分】
ソムナへ札が集まるたび、町の覚醒率は上がった。
六十九。
七十一。
七十三。
「効いてる」と夢内の救護員が言う。
本人も眠っている。
夢の中で救護腕章だけを付け、他人を起こして回る。
「効いてる、は結果」とソムナ。
「結果が必要」
「うん」
「続けて」
「あなたは患者?」
「救護員」
「身体は」
「分からない」
現実側へ照会。
『紙劇場北、救護所。煙吸入軽度。身体安全』
「あなた自身の出口」
「後」
「僕と同じ」
「君は案内人」
「職名を身体へ使わないで、って言われた」
「誰に」
ソムナは答えようとする。
名前が出ない。
黒い顎線の髪。
白い前髪。
小鍋。
「身体医」
「名前」
「……」
通信の向こうから、メイが言う。
『メイ・カフ』
「メイ」
『思い出した?』
「教わった」
『分ける』
救護員がソムナを見る。
「続けられる?」
「うん」
「なら」
「あなたの出口を、先に」
「他に人が」
「同じことを言ってる」
「でも、君が受けてる」
「だから、あなたは受けなくていい?」
「そう」
「僕も同じ」
救護員は答えられない。
善意は、相手の自己犠牲を止める言葉を持っていても、自分へ向けると聞こえなくなる。
「身体位置だけ確認」と救護員。
「出口は」
「保留」
「うん」
ソムナは白い位置灯を置く。
醒め目は置かない。
その選択を尊重した直後、別の札が彼の袖へ縫い付く。
『紙劇場北・救護交代表』
救護員が目覚めた後に続ける仕事。
「これは、あなたの」とソムナ。
「預かって」
「同意?」
「今、言った」
「期間」
「朝まで」
「朝に、返す?」
「起きたら聞いて」
「僕が忘れたら」
「札に」
ソムナは袖へ書く。
『本人同意/救護交代表/夜明けまで/再確認』
明確な同意。
この札は軽い。
自分へ来ても、糸が一重。
制度の代理同意で来た札は、何層も硬い。
「違う」とソムナ。
「何」
「本人が言った札は、痛くない」
「気持ち?」
「手首」
左手首の輪痕。
代理札が来るたび、古い契約輪が締まる。
幼い時、自分の夢を売った輪。
正確には、自分が売ったのではない。
家族が治療費のため、売却へ同意した。
家族愛。
必要。
無同意。
三つが、同じ輪にある。
「本人が言えば、輪を通らない」
「じゃ、全部本人へ聞けば」
「眠ってる」
「起こして」
「起こすために預かる」
輪。
「代理を使う」救護員。
「うん」
「嫌?」
「必要」
「嫌か」
ソムナは苦い種を噛んでいない。
「嫌」
札が鳴らない。
本音。
「でも、続ける」
「なぜ」
「起きた人へ聞ける」
「起きたら、返す」
「うん」
「忘れたら」
「外の人が記録してる」
「外を信用する?」
「止める人がいる」
「それ、さっき言った」
「覚えてない」
ソムナは、自分が同じ答えを繰り返したことを知らない。
救護員は、何も言えなくなる。