第649話 第一章「王都を切る計算」前編
都市の基礎は、人より先に名を与えられる。
礎石。
支持梁。
根管。
浮力嚢。
荷重受け。
そこへ後から住みついた人々は、長いあいだ「基礎の周辺にいる者」と書かれた。
家が建ち、学校ができ、葬式が出て、パンを焼く匂いが毎朝同じ時刻に上がるようになっても、行政の文章は頑固である。文章は一度「周辺」と決めたものを、生活が百年続いたくらいでは中心へ直さない。
冠都環ルーメンの下面区もそうだった。
上層の王城と学院と白い街路を支える、浮島を支える根と配管の街〈アンダー・ハル〉。
その住民は、王都の足下に暮らしていると説明された。
足下、という言葉は便利である。
地理を示しながら、序列まで示せる。
そして危機の時、足下は切られる。
人間は倒れそうになると、まず靴を脱ぐのではなく、荷物を捨てるからだ。
【現実/冠都環ルーメン・王都下面外縁/覚醒/構造分離準備命令から十九分】
王都は、二方向へ落ちていた。
白い上層は雲海へ。
黒い下面区は頭上の海へ。
正確には、まだ落ちていない。
だが、落下とは位置ではなく、次にどこへ動くかという未来の名前である。
ゼロスター号は、その未来の真ん中へ入った。
「船首、王都外縁へ!」
「上層側?」ハル。
「下面側!」エリア。
「下面が上に見える!」
「見えることと落ちる方向を混ぜないで!」
「父親に似た!」ロロ。
「今それ言う!?」
「道は一個じゃないって顔が!」
「顔に道数あるのかよ!」
片帆のゼロスター号が、王都の下面へ沿って滑る。
船腹下には第二の天鍵たる王獣鈴〈ビースト・ベル〉が四点懸架され、七本の索を低く震わせていた。
船内の保管箱には、各地から預かった観測板と共同保管札。
胸元には、ハルの零星針。
天鍵を集めている、と新聞は書く。
実際には、持ち歩いている物、現地へ残した物、触れる権利だけを持つ物、観測席だけを許された物が混ざっている。
所有は一語だが、責任は一語で済まない。
「接岸点、三!」エリア。
「三つも?」ハル。
「第一、王家外郭桟橋。第二、下面区救難口。第三、旧機関根の保守環」
「どれが近い」
「誰にとって?」
「出た」
「上層司令へは第一。住民へは第二。切断盤へは第三」
「全部」
「船は一隻」
「俺らは複数」
「分かれます」とセレナ。「ただし、今はまだ接岸前です。飛ばないでください」
「まだ何も」
「左足が縁へ出ています」
ハルは左足を戻した。
戻した瞬間、王都の下面から水柱が噴いた。
下から上へ。
いや、船から見れば横から。
直径三十メートル。
青黒い水が、王都を支える逆さ配管街〈ルート・ワークス〉から空へ落ちる。
「落ちてるのか上がってるのか!」バズ。
「現在重力へ従ってる!」ロロ。
「説明になってない!」
「水は納得してる!」
「人間へ翻訳!」
「当たる!」
カイルが右腕を上げる。
王盾炎を出しかけ、止めた。
「物理板!」
「珍しく正しい!」ロロ。
「珍しくは余計だ!」
ゼロスター号の船腹から、白環杯の観客島を切り出した曲板が起きる。
ロロの補助腕は二本。
一本が固定。
一本が角度。
本人の左手が弁。
右手が吸入器。
「吸ってから回せ」とエメの声。
「分かってる!」
「吸ってない」
「怒鳴ってるから空気ある!」
「減っている証拠」
ロロは吸う。
カイルが物理板へ肩を入れる。
王子の盾は火だけではない。王家の倉庫へ請求書を回せる、厚い鋼板も盾である。
水柱が曲板へ当たる。
船が回る。
「右十二!」エリア。
「何が!」
「全員!」
ハルは腰索をつかむ。
左肩へ荷重が来る前に、カイルの左手が赤いマフラーの結び目を押さえた。
「左肩を使うな」
「お前、王子の口調じゃない」
「友人の口調だ」
「短い」
「命令は短い」
「理由は後から?」
「今回は先に言った!」
王都下面の暗い街が、船窓の外を回る。
逆さの家々。
垂直に並ぶ工房。
根管へ抱きつくように建てられた湯屋。
配管橋の上を走る人。
そのさらに奥。
白い線が光っていた。
都市の根を一周する、切断線。
第三接岸点へ、ニアの旧式識別脈が反応した。
『主任機関士ピクス』
機械音声。
ニアの六本の補助腕が、二本だけ起きる。
逆さ海で失った両手の触覚は戻っていた。右三、左四。本人の十段階であり、正常ではない。
「現職ではない」とニア。
『生体接続痕一致』
「終端議会を代表しない」
『切断技能者一致』
「死亡登録」
『死亡は権限失効条件に含まれません』
「最悪の制度設計」とロロ。
『評価語は受理しません』
「評価じゃなく診断だ!」
保守環から、黒い腕が伸びる。
船の接岸爪へ噛む。
『構造分離・非常手順。執行技能者へ権限移管』
「拒否」とニア。
『拒否時、遠隔盤へ自動移管。現地修正権を失います』
ニアは黙る。
数字を言わない。
ロロの補助腕が、本人より先に上を向いた。
「受ける気か」
「受けなければ、現地から止められない」
「受けたら、お前が切れる」
「受ければ、切らない選択も残る」
「残るじゃねえ。お前に残る」
「現在、他の停止者はいない」
「だから危険だっつってんだよ!」
「同意」とニア。
「同意して受けるな!」
「受けなければ、同意できない系統が実行する」
言葉が回る。
論理も回る。
循環する議論は、どちらかが馬鹿だから起きるとは限らない。
入口も出口も同じ一つの権限へつながっている時、賢い人間ほど同じ場所へ戻る。
セレナが黒い証羽を一枚置く。
「事実だけを。現時点で、受領しなければ遠隔盤が執行権を持つ。受領すればニア・ピクス一名が、実行、延期、現地修正へアクセスできる」
「停止は」とハル。
「停止権も一名」
「一人で止められるならいい?」
「一人で始められることと同じ危険を持ちます」
ニアの濃い青緑の瞳が、切断線を追う。
「受領する」
「ニア!」ロロ。
「受領し、権限を分ける手順を作る」
「先に言え!」
「言った」
「順番!」
「受領前に詳細を宣言すれば遠隔盤が拒否対策へ移る可能性」
「また秘密!」ハル。
「今説明した」
「今は後!」
「後でも説明」
「言葉遊びすんな!」
「時系列」
ニアが接岸爪へ右手を置く。
白い線が、指腹から背中の六つの接続痕へ走る。
彼女の身体は、切断盤へ鍵として読まれた。
『権限移管完了』
『対象――王都下面区構造群』
『分類――付属荷重』
『推定切断質量――王都全質量の二一・四パーセント』
『推定保全人口――一八万六千四百二十』
ハルが聞く。
「下面区の人は」
機械音声は続ける。
『付属荷重内の生体数は、保全人口へ含みません』
「何人」
『分類外』
「数字を聞いてる」
『付属荷重』
「人だ」
『分類不一致』
「お前の分類が間違ってる!」
『評価語は受理しません』
ノクスが接岸爪へ近づき、白い線を嗅いだ。
右耳の欠けが伏せる。
「ノゥ」
「何」とカイル。
ハルはノクスの声へ意味を足さない。
「嫌だって」ロロ。
「道具の翻訳でなく、同意の推測です」とセレナ。
「じゃ、俺が嫌だ」
「受領」
機械は受領しない。
王都は百年以上、下から支えられてきた。
下の拒否を聞く耳は、最初から設計されていない。