第650話 第一章「王都を切る計算」後編

【現実/王都下面・第三保守環/覚醒/切断予定まで三時間十一分】

 現地司令室は、司令室に見えなかった。

 円形の工房。

 壁一面の圧力計。

 六つの古い炉脈図。

 床の中央に、王都の立体模型。

 模型では、上層が白。

 下面が黒。

 人は一人も置かれていない。

「命令書」とセレナ。

 黒紙が吐き出される。

 沈没都で届いた紙帯と同じ王家封印。

 署名欄は焼けている。

 理由欄は空白。

 ただし、今回は数値がある。

『逆潮圧差、基準の三・八倍』

『上層浮力炉、応答遅延一・二拍』

『下面根管、連鎖破断予測 三時間二十六分』

『構造分離実行後、上層安定見込み 九七・二パーセント』

「高い」とバズ。

「何が」とエメ。

「成功率」

「何を成功とする」

「上層安定」

「下面生存は」

「含まない」

「なら上層安定率」

「成功率じゃない?」

「言葉を短くするな」

 バズは口を閉じる。

 復唱し直す。

「下面生存を含まない上層安定見込み、九七・二」

「受領」

 エメは自分の痛みを正義へしない。

 だからこそ、数字の名前を正す。

 カイルが王家封印へ左手を置く。

「王太子権限で停止」

『王家権限は非常分離手順の発動後、執行干渉から除外されます』

「私の国だぞ」

『所有権は構造安全値へ影響しません』

「正論で腹が立つ!」

「珍しい経験ね」とエリア。

「普段から正論へ腹は立っている!」

「それは知ってる」

 カイルは右籠手を左拳で叩きかける。

 止める。

「王家が作った手順か」

 セレナが紙を検査する。

「封印は正規。紙は十五年以上前の保存庫形式。現在の王が発令した証拠はありません」

「父王でもない?」

「否定もできません。署名欄は、焼けたのでなく、送信前に熱消去された可能性があります」

「命令者は」ハル。

「不明」

「不明の命令で町を切る?」

「命令者が分かっても、正しくなるわけではありません」とセレナ。「分からないことは、責任追及を難しくします」

 ソウジは模型の前へ立つ。

 土色の星航コート。

 左の星晶義手。

 空の時計鎖。

 ハルと同じ顔の未来に見え、ハルと違う失敗の過去を持つ男。

「この圧差なら」とソウジ。

 ハルが見る。

「切る?」

「結論を先に置かない。模型が現状と合っているなら、分離は一案」

「一案って、便利な言い方」

「便利ではない」

「人を切るって言わなくて済む」

 ソウジの義手の歯車が、一度止まる。

「下面区を切る案だ」

「人がいる」

「いる」

「じゃ、人を切る案」

「構造を切り、人を避難させる案」

「間に合う?」

「今は分からない」

「分からないって、先に言えたな」

「覚えると言った」

「一回で褒めない」

「褒められると思っていない」

「思ってる顔」

「顔に何が書いてある」

「道が一個じゃない」

「それはおまえも」

「似てるって話に逃げるな」

 エリアが二人の間へ地図槍の石突きを置く。

「親子関係は後。現在地を」

「王都下面、第三保守環」とハル。

「残り時間」

「三時間七分」セレナ。

「調査班を分けます。ハル、住民避難と現地観測。カイル、上層の柱と王家指揮。セレナ、命令記録と過去事例。ロロ、模型。エメとバズ、圧力実測。私、全域路図」

「ニアは」とロロ。

「切断盤」

「一人にする?」

「しない」とエリア。「ただし、彼女の作業を誰か一人の監視へ変えない。交代で二名以上」

「俺」

「ロロは模型」

「姉の監視より模型?」

「姉を止めるためにも模型」

 ロロが歯を鳴らす。

 金属でなく、自分の奥歯。

「認めさせる」

「誰に」ハル。

「構造に」

「姉じゃなく?」

「構造が先!」

 補助腕二本が、勢いよく工具箱を持ち上げる。

 空いた背中の二座へ、未整備の腕一本が布で括られていた。

 ニアの目がそこへ行く。

「三番腕は使用不可」

「俺の腕だ」

「接続座の熱変形が未補正」

「知ってる」

「使用すれば背部圧迫」

「知ってる!」

「なら外せ」

「姉の命令?」

「技師の診断」

「採用しない!」

 ロロは走る。

 ニアは追わない。

 追えば、弟を子供として止める。

 追わなければ、技師として危険を見逃す。

 家族は、正しい行動が二つある時に壊れやすい。

「ニア」とエメ。

「何」

「切断時刻」

 ニアは模型を見る。

 圧力計を見る。

 命令盤を見る。

 そして、残せる数を計算する。

「現状模型が正しく、避難が予定どおりなら、三時間後に構造分離を実行する」

 ハルが一歩出る。

「決めた?」

「宣言した。変更条件を作るため」

「違い」

「決定は閉じる。宣言は、止める人へ時刻を渡す」

「言葉遊び」

「停止条件」

 ニアは黒板へ書く。

『三時間後、下面区構造分離。

 ただし、次のいずれかを立証した場合は変更。

 一、切断が上層安定を損なう。

 二、切断せず圧差を逃がす実行可能案。

 三、避難時間が切断時刻を越え、かつ延期可能な構造余力。』

「全部、俺たちが証明?」ハル。

「私も証明する」

「切る側が?」

「切らない根拠を最も必要としている」

「なら最初から切らないって」

「根拠なしに言えば、下面区と上層を同時に失う」

 ニアの声は平坦だった。

 冷たいのではない。

 冷たくしなければ、声の中に十五年前が混ざる。

「三時間」とロロが工房入口から言う。

 戻っていた。

 工具箱を抱え、未整備の三番腕を背負ったまま。

「二時間五十九分」とニア。

「細けえ」

「生きるため」

「その言葉、便利に使うな」

「便利ではない」

「分かってる」

 姉弟は同じ模型を見た。

 白い上層。

 黒い下面。

 その間へ、切断線。

 命令盤が一度鳴る。

『執行時刻、登録』

 王都の根を一周する白線が、少し明るくなった。

 ニアは全域放送を開く。

「主任機関士ニア・ピクス。構造分離予定時刻を三時間後に設定する。理由、逆潮圧差と根管連鎖破断予測。対象、王都下面区」

 下面の街から、怒号が返る。

 上層の鐘が鳴る。

 ニアは続ける。

「この時刻は正当化ではない。停止のための期限である。私一人へ停止権が集中している。これを変更する」

 一拍。

「残せる数を、私だけに言わせない」

 放送を閉じる。

 ロロは姉を見ない。

「三時間で、王都ごと模型にしてやる」

「修理代」とハル。

「王家へ全額!」

「待て!」カイル。

「王都を直すんだぞ!」

「予算手続がある!」

「切る手続は一人で、直す手続は会議かよ!」

 カイルが黙る。

「……それは、直す」

「どっちを」

「手続を」

「町も直せ!」

「両方だ!」

 放送は、王都の場所ごとに違う意味へ変わった。

 上層市場では、「下面区の切離し予定」と聞こえた。

 王城では、「上層保全手順」と聞こえた。

 学院では、「実地災害演習ではない」と赤札が出た。

 下面区では、ただ「三時間後におまえたちの家を切る」と聞こえた。

 同じ文面である。

 同じ文面だから公平だ、という思想ほど、伝わった意味の差へ鈍いものはない。

『発表を一時停止してください』

 王家の通信官が割り込む。

『避難統制前の不確定情報は、上層市民の混乱を――』

「不確定なのはどこ」とセレナ。

『切断実施の可否です』

「予定時刻は確定」

『変更可能です』

「変更条件も公開済み」

『だからこそ、市民が誤解を』

「何を正しく理解すれば、混乱しないの」とハル。

『君は誰だ』

「切られる側へ薬を運ぶ人」

『王国広報の権限外だ』

「切断線は俺の権限内?」

『そういう意味では』

「言葉を短くするな」とエメ。

 カイルが通信官へ告げる。

「発表は続ける。上層保全という表題を外せ」

『殿下』

「下面切離し予定。理由。計算条件。含まれない人口。停止条件。全部並べろ」

『危機時に全情報を出せば、判断が遅れます』

「遅れる判断を、市民から奪うな」

『殿下の責任になります』

「書け」

『何を』

「私が公開継続を命じたこと。失効は危機終了時。後で王家が忘れられないように」

 カイルの声が一瞬だけ低くなる。

 王子は命令に慣れている。

 だからこそ、命令が自分から離れた後も働き続ける恐ろしさを、最近ようやく覚え始めていた。

 セレナは黒板の横へ、もう一枚の板を置く。

『数えていないもの』

 未登録住民。

 私設配管。

 生活設備。

 長期亀裂。

 避難後の医療。

 切断実行者の権限集中。

「最後も荷重?」ハル。

「構造荷重ではありません」とセレナ。

「でも町を壊す?」

「制度上の荷重です」

「見えない」

「だから書く」

 ニアが一項目を足す。

『執行者本人の感情』

 ロロが鼻で笑う。

「お前にあるの?」

「ある」

「どこ」

「計算へ入れない場所」

「入れろよ」

「量れない」

「量れないからないことにした結果が、昔の切断だろ」

 ニアは消さない。

「量れない。だが、ないとは扱わない」

 その言葉をロロは採点しない。

 採点すれば、合格か不合格で話が終わる。

 終わらせるには十五年が重すぎた。

 ソウジは旧模型の下面へ、細い針を三本立てる。

「現時点の仮説を分ける」

「三つ?」ハル。

「一、逆潮圧が下面根だけを破壊している。二、上層炉の遅延が下面へ圧を押し返している。三、両者が、図面にない経路で循環している」

「どれを信じる」

「どれもまだ」

「言い方じゃなくて、行動」

「一だけなら避難と切離し。二なら上層炉を止める。三なら、切る場所を決める前に循環路を見つける」

「待ち時間を誰が負担する」

「下面区」

「上も」エリア。

「上もだ」

「ソウジ自身は」とハル。

「星酔いが出れば作業を止める。義手の圧が二割落ちた時も」

「誰が止める」

「私では判断が遅れることがある」

 ソウジはバズへ安全索の端を渡す。

「現場の停止権を」

「俺?」

「嫌なら別の者へ」

「嫌じゃない。けど俺の停止条件を先に言う。二回鳴ったら、あんたが平気って言っても外す」

「受領」

 親が子へ約束することより、親を止める権限を他人へ渡すことの方が、時に誠実である。

 工房の外で、下面区の警報が鳴った。

 一長音。

 二短音。

 住民集合ではない。

 各自が自分の生活設備へ停止札を付ける合図。

 王都下面区は、王家に見捨てられる危機を何度も想定してきた。

 想定してきたこと自体が、国の恥である。

 そして、その恥によって今日救われる人がいる。

 サラから最初の現場報告が届く。

『避難対象数、公式三千四百二。

 生活組合集計四千百九十九。

 差七百九十七。

 差の内訳、未登録、短期滞在、名を出さない者、家畜を人員へ含めた世帯、確認不能。』

「家畜を人員?」カイル。

『置けば世帯が戻れない。戻れなければ生活が死ぬ』

「人命と同じには」

『同じとは言ってない。違うから別欄へ入れた』

 セレナが黒板へ書く。

『生活荷重』

「重い言葉」とハル。

「軽く扱わないためです」

 ニアは切断盤の時計を見る。

 二時間五十七分。

「各班、戻り時刻を十五分ごとに報告。未報告は順調とみなさない」

「それも昔は?」ロロ。

「未報告を問題なしとみなした」

「今は」

「不明」

「遅いけど、覚えたな」

「評価?」

「保留」

 ノクスが模型の白い上層から、王城だけをくわえて黒い下面へ置いた。

「何の意味」とカイル。

「王子も下へ行けって」ロロ。

「道具の翻訳をするな!」

「俺の同意!」

「私は上層柱班だ!」

「逃げた!」

「配置だ!」

 騒がしさは、恐怖が消えた証拠ではない。

 恐怖を一人で抱えず、言葉にして投げ返せる余地がまだある証拠だった。

 彼らは散った。

 王都を切る時刻だけが、全員へ同じ速度で近づいた。