第651話 第二章「上下から落ちる水」前編
雨は、空から落ちる。
これは自然法則というより、暮らしの側が自然へ押しつけた約束である。
屋根は上に張る。樋は下へ伸ばす。井戸は足下へ掘る。人間は水の行き先を知っているつもりで町を作り、その確信を「上下」と呼んできた。
冠都環ルーメンの下面区では、その約束が二つあった。
王都上層から見れば、下面区は足下にある。
頭上の海から見れば、下面区は水底にある。
ゆえに危機の日、水は上下から落ちた。
どちらが上かを争う暇もなく。
【現実/王都下面・第九根管街/覚醒/切断予定まで二時間四十七分】
「薬箱、離すな!」
「離してない!」
「浮いてる!」
「俺も浮いてる!」
「なら二つとも離れてる!」
「地面の方が離れたんだよ!」
ハルは配達鞄を胸へ抱き、根管街の天井へ落ちた。
天井、と呼ばれているのは巨大な浮力管の側面である。そこへ肩からぶつかる寸前、腰索が張った。
左肩ではない。
右腰。
人は、同じ傷をいつも同じ方法では守れない。危機の形が変わるたび、身体へ掛かる荷重も変わるからだ。
「ハル!」
バズが三本の安全索のうち二本を柱へ巻き、一方をハルの腰へつないでいた。
「助かった!」
「助けた! ただし、停止条件は、俺の左索が鳴ったら二人とも離れる!」
「離れたら俺が落ちる!」
「今も落ちてる!」
「どっちへ!」
「水の逆!」
「水が二つある!」
返事の代わりに、上層側の亀裂から白い水が噴いた。
同時に、下面の古配管から青黒い水が吹き返す。
二本の水柱が街路中央でぶつかり、雨になった。
雨だけが迷っている。
粒は一瞬空中へ止まり、それぞれ近い重力へ別れた。
半分は王都上層へ。
半分は頭上の海へ。
人々は壁を歩いていた。
正しくは、昨日まで壁だった面を今日の床として使っている。
鍋を胸へ括った老人。
籠の中で四匹を一匹のように結んだ根管鼠。
吊り寝台ごと運ばれる子供。
パン種を腹へ抱えた女。
下面区の避難は、人だけ数えれば速い。
生活を数え始めると遅い。
「救難口は!」ハル。
「第四が閉鎖、第五は上向き水流、第六は荷重超過!」バズ。
「使えるのは」
「今から見る!」
「分からないを先に言えた!」
「褒めるな、足が震える!」
ノクスが青白い二本尾を水へ浸し、すぐ引いた。
右尾は上層方向。
左尾は下面方向。
本人はその間の配管へ鼻を押しつける。
「ノゥ」
「油?」ハル。
「ノクスの返事を質問で翻訳するな!」バズ。
「じゃあ嗅ぐ!」
「人間用に言え!」
ハルは配管へ顔を近づけた。
熱い鉄。
古い水垢。
蒸した豆。
「豆?」
「湯沸かし場だ!」
配管壁の一部が内側から三度叩かれた。
ごん。
ごん。
ごん。
「開けるぞ!」
「待て、圧差確認!」
バズが小弁へ針を刺す。
針は上へ跳ね、下へ落ち、横へ震えた。
「何て?」
「計器が悪口を言ってる!」
「人間語!」
「内側が二方向とも高い!」
「そんなことある?」
「あるから目の前がこうなってる!」
ハルは拳で戸を返す。
「内側、何人!」
『二十七。うち歩けない者が六、歩くと困る者が九、歩けると言い張る者が十二!』
「最後は歩ける?」
『本人申告と医者申告が違う!』
「名前!」
『サラ・リム! 湯沸かし場!』
危機へ巻き込まれる者は、最初から町の中心に立っていたわけではない。
鍋を守り、鍵を数え、昨日と同じ湯を沸かしていたところへ、壁の方が破れてくる。
「サラ! 戸を一気に開けるな!」バズ。
『知ってる! そっちの圧は!』
「上下両方!」
『答えになってない!』
「今日の町もな!」
戸の下端から、細い湯気が噴く。
サラは内側で圧を抜いていた。
「三回で半開き!」彼女。
「受領!」バズ。
「一!」
弁が鳴る。
「二!」
ノクスが戸の脇へ噛みつく。
「ノクス、そこ違う!」
「三!」
戸が五センチ開いた。
湯と水と豆が混じった匂いが噴き出す。
そこから真鍮の顎留めが見えた。
次に灰緑の短髪。
サラ・リムは左脚の古い支持具を根管へ固定し、両手で戸を押さえていた。
「遅い」
「三分しか経ってない!」
「湯の三分は豆を煮崩す」
「人の三分は?」
「怒るのに十分」
彼女の背後には、湯沸かし場という名の小さな公共施設があった。
釜が三つ。
寝台が七つ。
薬棚。
共同掲示板。
反対意見札が十九枚。
「住民代表?」ハル。
「今日は違う」
「じゃあ誰」
「反対十九、保留十一、賛成三十二のうち、賛成者から鍋番に押し出された者」
「代表じゃない?」
「代表されない三十人を先に数えない人間を、代表と呼ぶな」
「じゃ、サラ」
「それでいい」
サラはハルの鞄を見る。
「薬?」
「夢灯都市から。鎮圧薬、抗菌布、低糖補液。量は足りない」
「足りないを先に言う配達員は珍しい」
「足りるって言って足りなかったことが多いから」
「誰に」
「世界に」
「大きく逃げた」
「小さく言うと、俺に」
サラは一度だけ頷く。
「中へ。歩けない六人から」
「歩くと困る九人は?」
「透析管、持続炉、妊娠、骨接ぎ中。歩けるが、歩かせれば後で困る」
「歩けると言い張る十二」
「作業員」
「困るな」
「一番」
下面区の医療は、王都上層の病院より設備が少ない。
だから遅れている、と上層の報告書は書いた。
実際には、設備の少ない場所には設備が壊れた時の手順が多い。
電気が止まった時に人力へ替える者。
薬が切れた時に別の配合を知る者。
寝台を壁へ変える者。
患者本人が自分の管をどこまで曲げられるか知っている。
貧しさは美徳ではない。
不足へ慣れた技術を称賛しすぎれば、不足を直さない言い訳になる。
だが、危機の日、その技術が人を生かす。
「補液、半量ずつ」とハル。
「半量で足りる?」患者。
「足りない。救難口まで持たせる量」
「救難口の先は」
「上層病院へ照会中」
「空いてる?」
「分からない」
「分からないばっかりだな」
「分かったふりより軽い」
「軽いものは浮くぞ」
「じゃ、索でつなぐ」
患者が笑う。
笑ったせいで咳き込む。
ハルは左肩を使わず、右腕と膝で補液架台を固定する。
痛みは消えていない。
痛みがあるから動けないのではない。痛みがある状態で、どこまで動くかを毎回決める。
「おまえ、上の子か」と老人。
「地球の子」
「もっと上か」
「たぶん別」
「別は上より偉い?」
「別は別」
「政治家に向かんな」
「王子がいるから足りてる」
通信板が鳴る。
『足りているとは聞き捨てならない!』
「聞いてた?」ハル。
『全域救難線だ!』カイル。
「上層どう」
『白柱群へ圧力の返りが出た。軽微――と報告されたが、軽微の定義を聞いたら、王城東翼が八ミリ傾いた』
「八ミリ」
『宮廷建築官は誤差と言った』
「王子は」
『私の寝台から床へ置いた水杯が落ちた』
「それで軽微じゃない?」
『寝台の脚は水平だ!』
「王家の水平への信仰、強いな」サラ。
『誰だ』
「反対十九、保留十一、賛成三十二の湯沸かし場主」
『長い!』
「生きるため」
ハルとバズが同時に吹いた。
「流行ってる」とハル。
「何が」サラ。
「長い説明の免罪符」
「免罪してない。請求してる」
通信の向こうで、何かが割れた。
『今の音は』ハル。
『東翼の窓』カイル。
『王太子殿下、柱三十六に横亀裂!』別の声。
『深さ』
『表面二、内部不明!』
『不明を計測しろ。全面退避はまだ――』
「まだ?」ハル。
『王城だけ空にすれば、上層避難口が詰まる。宮廷職員を第二路、患者と子供を第一路へ』
「王子が命令する?」サラ。
『今はする。ただし、十五分で現場指揮へ移す。命令札へ失効時刻を書いた』
「十五分後は」
『柱班が決める』
「なら聞く。上の柱へ、下面の水圧が返ってる?」
『ロロの仮説では』
「ロロは模型班」ハル。
『なのに走って来て、柱へ穴を開けた』
『計測穴だ!』遠くでロロ。
『王城の柱だぞ!』
『倒れる前に開けたら計測、倒れた後なら遺跡!』
『予算――』
『王家へ!』
通信が雑音へ変わる。
サラは掲示板へ新しい札を掛けた。
『上層柱へ圧返り』
「全員へ知らせる?」ハル。
「知らないまま避難させれば、下面だけ捨てられると思う」
「実際、命令はそう」
「でも上も安全じゃない」
「だから安心?」
「逆。共倒れの危険を、連帯って美しい言葉にしないため」
サラは支持具のねじを締める。
「上が困るから下を救うのと、下が人だから救うのは違う」
「結果は同じ?」
「次の危機で違う」
歴史は、動機を保存しにくい。
残るのは救われた人数と、発令された命令と、壊れた柱である。
だが制度を作る時、動機は骨になる。
人だから救った制度は、次の人も救う。
上を守るために下を残した制度は、上へ不要になった日、再び下を切る。