第652話 第二章「上下から落ちる水」後編

【現実/王都下面・第九根管街から第六救難口/覚醒/切断予定まで二時間十二分】

 避難列は、歩かなかった。

 這った。

 滑った。

 吊られた。

 根管の周囲を螺旋に回った。

 ハルは先頭へ行かない。

 配達員は、先頭にいると最後尾を落とす。

「次、誰!」

「名簿上、キリ・ナナ!」バズ。

「本人は!」

「名前を使わない!」サラ。

「じゃ、何て!」

「赤紐、透析管二、猫籠!」

「受領!」

 赤紐の女を、腰索へつなぐ。

 猫籠が鳴く。

 猫は一匹ではなく、六匹いた。

「一匹って」

「一籠」

「単位が違う!」

「人間も一世帯で数えるだろ!」

「危機局の悪い癖を猫で再現するな!」

 水が来る。

 上からの白水。

 下からの黒水。

 バズが叫ぶ。

「二十秒、配管の脈が合う! ぶつかった後、左壁へ落ちる!」

「左って今どっち!」

「俺の左!」

「バズが回ったら!」

「回らないよう三本ある!」

 一本目の安全索。

 二本目の患者索。

 三本目は自分の停止索。

 昔のバズなら、最後に聞いた命令へ従って走った。

 今の彼は、自分がどこまで動けるかを先に結ぶ。

「十九、十八――」

 全員が根管へ伏せる。

「三、二、一!」

 二本の水が衝突した。

 水壁が街路を横切る。

 ハルは赤紐の女の籠を抱える。

 左肩が引かれる。

 痛い。

「ハル、離せ!」バズ。

「猫が!」

「籠だけ離せ!」

「猫ごと落ちる!」

「補助索!」

 サラが鍋用の鎖を投げる。

 ハルは右手でつかむ。

 左肩の固定帯が軋む。

 ノクスが猫籠の取っ手へ噛みつく。

 二本尾が別々の重力へなびく。

「ノクス、猫は食うな!」

「ニャア!」

「どっちの返事!」

 水壁が過ぎる。

 猫籠は残る。

 ハルも残る。

 左肩の奥で、古い痛みが新しく笑った。

「動く?」サラ。

「動く」

「動かしていい?」

「……前より聞き方が正しい」

「答え」

「胸より上は上げない。引くのは右」

「受領」

 サラは赤いマフラーを結び直さない。

 腰索を右側へ付け替える。

 助けるとは、相手の身体を自分の善意へ従わせることではない。

 面倒でも、どこへ触れてよいかを聞くことである。

 長い。

 生きるため。

 湯沸かし場を出ると、第九根管街の学校が見えた。

 学校といっても、教室は一列に並んでいない。

 太い管の周囲へ、年齢ごとの足場が螺旋に巻きついている。

 幼い子は重力の近い内側。

 大きい子は外側。

 昨日まで床だった板が壁へ変わったため、黒板の文字は横倒しになっていた。

『王都は上層と下面区に分かれています』

 古い授業文が、そのまま残っている。

「分かれてないかもしれないのに」とハル。

「授業では分ける」とサラ。

「何で」

「地図へ描きやすい」

「生活は」

「描きにくい」

 避難を拒む子供が三人、黒板を外そうとしていた。

「何してる!」バズ。

「持ってく!」

「黒板を!?」

「先生が、戻れなかったら次の学校で使うって!」

「重い!」

「字は軽い!」

「板が重い!」

 ハルは黒板を見る。

 左肩では持てない。

 右手一本でも無理。

「文字だけ写す」

「全部?」

「大事なところ」

「全部大事!」

「じゃ、三人で選べ」

 子供たちは喧嘩を始めた。

『王都は』

『下面区は』

『配管は』

『王家は』

 一人が最後に、黒板の隅の落書きを指した。

 上下二方向へ泳ぐ魚。

 根管鼠。

 三本脚の先生。

「これ」

「授業じゃない」ハル。

「だからいる」

 ハルは配達票の裏へ写す。

 上手ではない。

 魚は靴に見え、先生は椅子に見えた。

「下手!」

「記憶で補って!」

「記録の意味!」

「全部を写せない時、何を残したか分かる意味!」

 子供の一人が、黒板の授業文を一行だけ写した。

『下面区は王都を支える』

 その横へ、自分で足す。

『王都も下面区を支えるはず』

 歴史教科書の改訂は、たいてい会議室から始まる。

 だが本当に古い一行が変わる瞬間は、避難中の子供が濡れた紙へ文字を足した時かもしれない。

「救難口へ」とサラ。

「黒板は」

「置く」

「戻れる?」

「分からない」

「じゃあ」

「戻れる約束のために、おまえを置かない」

 子供たちは納得しない。

 納得しないまま、黒板を置く。

 避難とは、正しい選択へ笑顔で同意することではない。

 不満も、喪失も、持って出ることである。

 第十一根管で、葬送棚が傾いていた。

 下面区では墓を地面へ掘れない。

 死者の名札と小さな生活道具を、根管の暖かい棚へ置く。

 王都を支える蒸気が通るたび、名札が鳴る。

 避難列の老人が、そこから動かない。

「名札、四十六枚」とバズ。

「持てない」サラ。

「置けない」と老人。

「写す?」ハル。

「字だけじゃない。鳴り方がある」

 名札は材質が違う。

 陶。

 銅。

 骨。

 貝。

 蒸気のたび、家族ごとに音が違う。

「録音」とハル。

「機械は水で死ぬ」とバズ。

「ノクス」

 夜獣が耳を立てる。

「覚えられる?」

「ノゥ」

「道具に記憶を――」とセレナの遠隔声。

「分かってる。決定打にしない。今だけ聞いてもらう」

 ノクスは棚の前へ座る。

 蒸気が通る。

 四十六の音。

 青白い尾が、音ごとに違う角度で揺れる。

 老人は名札を全部持たない。

 一番新しい一枚だけ外す。

「他は」ハル。

「町が戻った時、ここにあるか確かめる」

「戻らなかったら」

「なくしたと怒る」

「誰に」

「生きてる奴に」

「それ、俺も入る?」

「今持ってる顔だ」

 老人は歩く。

 ノクスは棚を一度だけ振り返る。

 覚えたとは言わない。

 忘れないとも約束しない。

 上層救難班が降りてきたのは、その直後だった。

 白い外套。

 整った担架。

 人数札。

「携行品を一人五キロへ制限します!」班長。

「持続炉だけで三十」とサラ。

「医療設備は別枠」

「パン種」

「生活物資は後送」

「後送路は」

「切離し後に再評価」

「切った後、道がある?」

「現時点では未定」

「未定の後送へ、今の生活を預けろ?」

 班長は困る。

「命を優先してください」

「命しか運ばなければ、運ばれた先で生活が死ぬ」

「生活より命です」

「違う」とハル。

「君は救難資格者か」

「配達員」

「では」

「命と生活は順番じゃない。命を今日、生活を明日って分ける時、明日を作る物が要る」

「すべては運べない」

「だから本人へ選ばせる」

「時間が」

「時間がないから、上が勝手に選ぶ?」

 班長はハルの赤いマフラーを見る。

 異世界から落ちた少年を、新聞で知っている。

「君は、何を置いてきた」

 地球。

 母。

 七歳までの父との約束。

 帰る方法。

「選べなかった」

「なら、選ぶ時間の価値が分かるはずだ」

「分かる。だから三十秒渡す。三十秒で選べない人には保留札。救命設備は別。五キロじゃなく、運べる総量を先に見せる」

 サラが口を挟む。

「代表されない反対、今のところ七。三十秒で生活を決めさせるな」

「でも水が来る!」班長。

「なら、本人の選択を代行したことを記録しろ。善意で消すな」

 班長は人数札の裏へ書く。

『時間切迫により携行品を救難班が選別。

 異議申立て、後日可。

 選別責任、上層第四救難班。』

「後日が来る保証は」とサラ。

「ない」

「その答えは採用」

 列が動く。

 パン種は小瓶へ分ける。

 猫籠は六匹を三籠へ。

 葬送札は一枚。

 黒板は置く。

 薬は全部。

 正解ではない。

 誰が何を諦めさせたかが、見える選択になった。

 水圧の経路を確かめるため、バズが赤い染料を下面管へ入れた。

「食用?」ハル。

「祭菓子用!」

「何で持ってる」

「配管漏れは色が要る!」

「味は」

「甘い!」

「水害が菓子になる?」

「なるか!」

 染料は下面管へ流れる。

 普通なら、頭上の海側へ抜ける。

 三十秒。

 上層通信が鳴る。

『王城東翼、柱脚から赤水!』

「早すぎる」とエリア。

『直結経路がある。図面にない』バズ。

「何秒」

「二十七」

「距離なら最低三分」

「圧力だけ先に伝わった?」ハル。

「染料が出たなら物質経路もある。ただし、近道」

 サラが古い生活台帳を開く。

「七十二年前、上層厨房の排熱を下面浴場へ送る連結管」

「王城と風呂がつながってる?」

「王族も人間だから湯を捨てる」

「歴史の言い方が悪い!」カイルの遠隔声。

「今、赤い水が寝室柱から出てるぞ」ハル。

『さらに悪い!』

 笑いの後、王城で重い音がした。

『柱脚、三ミリ移動!』

 下面の管が脈打つ。

 押した圧が上へ返る。

 上で行き場を失い、また下へ返る。

 循環している。

 王都は上下に分かれた二つの町ではない。

 一つの身体が、自分の血を逆方向へ送り合っていた。

 第六救難口の前で、列が止まった。

 扉の向こうは上層への昇降筒。

 だが、扉が四センチしか開かない。

「歪み」とバズ。

「切断線のせい?」ハル。

「まだ作動前」

「圧差?」

「たぶん」

「たぶんを計測」サラ。

 バズが上下の圧力針を読む。

「下面から上層へ、二・一。上層柱から下面へ、一・八」

「押し合ってる?」

「返ってる」

「何が」

「下面を押した圧が上層柱へ行って、上層柱が押し返してる」

 ハルは扉へ手を置く。

 ひびの音は聞かない。

 聞けば何か分かるかもしれないが、それだけを証拠にはしない。

 代わりに、扉の隙間へ水滴を置く。

 水滴が上層側へ吸われる。

 戻る。

 また吸われる。

 呼吸のように。

「一体?」

「まだ仮説」とバズ。

「でも、切ったら」

「どっちかの押し返しがなくなる」

「下面は落ちる」

「上層は?」

 通信板が激しく鳴る。

『全班へ!』カイル。

 背景で鐘。

 叫び。

 石が擦れる音。

『東翼の傾斜、八ミリから十九ミリ。下面切断線の試験通電と同期!』

「試験通電?」ハル。

『ニアは実行していない。遠隔盤が予備脈を一周させた』セレナ。

『通電終了後、十二ミリへ戻った。完全には戻らない』エリア。

「切断線へ触れただけで、上が傾いた」

『正確には、線周辺の荷重拘束が一時変化した』エリア。

「つまり?」

『下面を切れば上層が無関係ではない』

「もっと」

『まだ言えない』

「分からないを先に」

『上層も傾く可能性が高い』

 下面の避難者たちが、通信を聞いていた。

 誰も歓声を上げない。

 上層も危険なら、自分たちが助かるわけではない。

 ただ、切れば安全になるという命令の文章だけが、最初の一行から間違っていた可能性が出た。

 サラが掲示札を裏返す。

『下を切れば、上も傾く』

 その下へ、もう一行。

『だから下を救う、ではない』

 ハルが読む。

「書くんだ」

「次の制度へ」

「まだ生きてない」

「生きる前に書く」

「縁起悪い」

「遺言じゃない。議事録」

 王都が、ゆっくり鳴った。

 上の白い街と、下の黒い街。

 二つの町が別々に軋む音ではなかった。

 一つの巨大な身体が、左右の骨を違う方向へ引かれた音だった。

 切断予定まで、一時間五十八分。

 下面区を切れば、上層も傾く。

 兆候は出た。

 証明は、まだだった。