第653話 第三章「失われた下面区」前編

統計は、死者を減らすことができる。

 事故のあとで数え方を変えればよい。

 死亡を「当日」に限る。

 転居先で病死した者を除く。

 戸籍のない住民を最初から分母へ入れない。

 十年後に崩れた家を、事故と無関係な老朽化へ分類する。

 数字は嘘をつかない、と人はいう。

 正確には、数字は質問されたことへしか答えない。

 誰が質問を作ったかを忘れた時、数字はもっとも礼儀正しい嘘になる。

【現実/王城地下・旧構造記録庫/覚醒/切断予定まで一時間五十三分】

「扉が開きません」

「王家の記録庫だぞ」カイル。

「だからです」セレナ。

「王太子だぞ」

「記録庫は身分を保存しません。鍵を保存します」

「私が鍵だ」

「比喩では開きません」

 カイルは籠手を外し、左手で古い鍵を回した。

「最初から持ってた?」ハルの通信声。

「王家の威厳を試した」

「扉に?」

「セレナに」

「敗北ですね」とセレナ。

「判定が速い!」

 扉が開く。

 記録庫は乾いていた。

 王都の下面で水が二方向へ落ちている時にも、ここだけは百年前と同じ湿度を保っている。

 保存される紙と、濡れる人。

 国家はしばしば、その優先順位を正直に建築へ刻む。

 セレナは六角単眼鏡を左眼へ当てる。

 三十秒。

 外す。

 右手首へ布を巻き直す。

「長く使うな」とカイル。

「命令ですか」

「友人の助言だ」

「十五分で失効しますか」

「今日の私をいじめる会か?」

「会員は多い」とエメ。

 彼女は棚の間へ入る。

 左手二指の欠けた手で、区画番号をなぞる。

「第零七下面支区。十五年前」

「あなたの区画?」セレナ。

「隣。私の区はその後」

 棚には、成功例と金文字で書かれていた。

『局所切離しによる上層保全』

 カイルの顔が歪む。

「王家印」

「当時の摂政府」とセレナ。「あなたの父王即位前です」

「責任が消えるわけではない」

「血縁で増えもしません。制度の継承責任と、発令者の個人責任を分けます」

「分けて、両方残せ」

「記録します」

 最初の報告書。

『切離し対象人口、二千百四名』

『避難完了、二千八十七名』

『切離し時死亡、十七名』

『上層構造、三十日安定』

『成功』

「十七」とカイル。

「数字上」とエメ。

 次の箱を開く。

 転居記録。

 仮設区へ移された者、一千八百二十。

 六か月以内の転出、四百九十一。

 戸籍照合不能、二百三十七。

 病院搬送後死亡、百四。

「合わない」カイル。

「何と」セレナ。

「避難完了数と」

「避難は、生存の完了ではありません」

 エメが床へ座る。

 古い紙へ触れず、左脇腹を押さえる。

「ここ」

「痛む?」

「昔の圧ではない。今の棚が少し傾いた」

 圧力差を自分の痛みとして感じる監査術〈ロード・ペイン〉

 彼女の痛みは警報であり、証明ではない。

 セレナは棚脚へ水平針を置く。

「上層の傾きが地下へ届いています。〇・六度」

「痛みと一致?」カイル。

「方向は。量は別」

「痛い人へ量が別って言うの、冷たいな」

「痛いからこそ、数字を別にする」エメ。「私の身体を測定器にして、私の意見を自動採用するな」

 彼女は次の箱を指す。

「十年後」

 箱は成功例の棚にない。

 一般修繕。

『上層西柱群、長期沈下亀裂』

『原因――経年劣化』

『切離し事故との因果――調査対象外』

「調査してないのに無関係?」カイル。

「無関係とは書いていません」とセレナ。「調査対象外と書き、成功報告から除外した」

「言葉が逃げてる」

「言葉は足が速い」

「追え」

「そのために来ました」

 修理図には、亀裂の方向が描かれていた。

 下面から切断線へ。

 切断線から上層柱へ。

 第二章で出た水圧の返りと同じ向き。

「短期では安定した」とセレナ。

「十年後に割れた」とカイル。

「その間、毎年補修を足していた」とエメ。

「成功って何だ」

「報告書を閉じた時点まで立っていること」

「そんなの」

「当時の定義」

「今も?」

「今日の命令書も、上層安定見込みだけを数えた」

 歴史は繰り返さない。

 人間が、都合のよい部分だけを繰り返す。

 棚の最下段に、改訂標準があった。

 事故から六年後。

『局所切離し成功判定基準・第三版』

 成功条件。

 一、切離し後三十日の上層傾斜が許容内。

 二、登録人口の避難率九十五パーセント以上。

 三、切離し対象外設備の稼働継続。

 除外条件。

 一、未登録居住者。

 二、移転後九十日以降の健康悪化。

 三、五年以降に発生した構造亀裂。

「十年後を、基準で消した」とカイル。

「基準の作成者」とセレナ。

 署名は十二名。

 主任。

 監査官。

 王家技術顧問。

 若年補助計算士。

 最後の署名。

『ニア・ピクス』

 十四歳。

 カイルが息を止める。

「十五年前の切離しを、ニアが決めたわけではない」とセレナ。

「八歳だった」とエメ。

「だが六年後、その切離しを成功と呼ぶ標準へ署名した」

「子供に署名させた?」

「若年技師制度。当時の主任が、計算能力を理由に採用」

「責任は」

「年齢で消えません。権力差でも消えません。分けます」

 エメは署名を見つめる。

「私はこれを見つけた時、あいつが最初から全部切ったと思った」

「違った」とカイル。

「違う部分があった。だから、怒りが減ると思う?」

「思わない」

「正解」

「嬉しくない正解だ」

「正解は慰めじゃない」

 セレナは署名の筆圧を読む。

 右上がり。

 末尾だけ深い。

「本人の筆跡と一致。ただし、原本へ後から綴じ込まれた紙です」

「偽造?」

「断定できません。紙齢は当時。墨も。綴じ糸だけ二年新しい」

「何で」

「不明」

「また」

「不明を埋める人物像は、証拠ではありません」

 通信板を開く。

『ニア・ピクス』

『聞いている』

「過去切離し成功判定基準、第三版。若年補助計算士としてあなたの署名があります」

 一拍。

『ある』

「覚えていますか」

『全部ではない。除外条件の計算表を作った』

「未登録住民、九十日以降の健康悪化、五年以降の亀裂を除外した」

『した』

「なぜ」

『上位者が、測定不能値を除外しろと言った』

 ロロの声が割り込む。

『言われたから?』

『十四歳だった』

『それ、免罪?』

『条件』

『便利だな!』

『便利ではない。私は署名した』

『じゃ、謝れよ!』

『誰に』

『全員に!』

『全員という対象は、責任の受け手をぼかす』

『言葉を細くして逃げんな!』

 セレナが止める。

「今は事実確認です。ニア、除外された長期亀裂を知っていましたか」

『署名時は知らない。二年後に知った』

「基準を撤回した?」

『しなかった』

「理由」

『撤回すれば、私が担当した他の切離し判定も再監査になり、現場資格を失うと考えた』

『自分を残した』ロロ。

『そうだ』

 平坦な声。

 言い訳を削った声。

『その後、終端議会へ移り、切断精度を上げた』

『逆だろ』

『切るなら誤差を減らすべきだと思った』

『切らない方を覚えろよ!』

『今、覚えている』

『遅い!』

『遅い』

 ロロが黙る。

 謝罪は、相手が求める速度へ過去を戻さない。

 認めることは始まりであって、帳消しではない。

 エメが通信板へ近づく。

「ニア」

『何』

「署名を、今日の命令停止根拠へ使う」

『使え』

「赦しではない」

『知っている』

「必要とする」

『受領』

 エメは通信を切る。

「次」

 セレナは改訂基準と十年後亀裂図を重ねる。

「今日の九七・二パーセントは、この第三版と同じ計算系です」

「つまり、今も十年後を数えてない」カイル。

「十年後どころか、切離し後三十日です」

「下面区の人も」

「数えない」

「上層の長期亀裂も」

「数えない」

「なら九七・二は」

「今日の命令が定義した範囲における上層短期安定見込み」

「長い」

「短くすると嘘になります」

 カイルは王家の印を見た。

「これを全域へ公開する」

「現在の混乱を増やします」

「隠せば、切断賛成の判断材料を奪う」

「公開範囲」

「基準、除外条件、亀裂図、署名」

「未登録者名簿は」

「出さない。本人の安全が先」

「発令者推測は」

「書かない」

「王家の責任は」

「制度を継承した責任として書く。犯人の血筋としてではない」

 セレナが一枚ずつ証羽を挟む。

 事実。

 不明。

 推論。

 公開不可。

 証羽は嘘を見抜かない。

 紙同士を混ぜないための道具である。