第654話 第三章「失われた下面区」後編

 署名の下には、判定印が三つあった。

『技術上有効』

『会計上終結』

『住民追跡不要』

 最後の印だけ、別の朱だった。

「住民追跡不要」とカイル。

「切離し後九十日で、対象を災害住民から一般転居者へ変えた印です」とセレナ。

「変えると」

「医療費、住居補助、構造事故との因果調査が、切離し事業の会計から外れます」

「人が会計の外へ落ちる」

「行政上は、別会計へ移る」

「別会計に金は」

「当時の予算表では、三分の一」

 カイルは金文字の『成功例』を裏返す。

 裏面には、棚番号だけ。

「成功したから追わないんじゃない」

「追わないから成功のままです」とセレナ。

 エメが箱の底を叩く。

「二重底」

「根拠」

「音」

「ひびの音ではなく?」

「私の指でも分かる」

 欠けた二指の代わりに、手の側面で叩く。

 上段は乾いた紙音。

 底だけが低い。

 カイルが鍵を探す。

「王家の威厳?」セレナ。

「今度は鍵がない」

「比喩で開けますか」

「やってみる。王太子として命じる、開け」

 箱は開かない。

「敗北」とエメ。

「今日は扉に弱い!」

 セレナは右手首を庇い、左手で綴じ針を抜く。

 作業は遅い。

 速い同僚なら、手を貸せる。

 だが彼女は、怪我を隠して速くするより、遅い理由を見せることを選ぶ。

「交代します」とカイル。

「紙を裂かない自信は」

「王家文書の訓練を受けている」

「最初に言ってください」

「君が聞かなかった」

「能力を自称する者ほど危険なので」

「信頼が薄い!」

「紙へは平等です」

 カイルが針を抜く。

 二重底から出たのは、帳簿ではない。

 食券。

 薬札。

 仮設住宅の修理札。

 子供の出席票。

 公式には追跡不要となった人々を、誰かが生活の断片で追っていた。

「署名なし」とセレナ。

「隠して残した?」

「保存規則違反。だが、紙齢と印は当時」

 食券の名前は半分削られている。

 安全のためか、後世の検閲か、分からない。

 数だけを拾う。

 切離し後一年。

 仮設区で食券を受け取った者、一千四百六十二。

 二年。

 九百十一。

 三年。

 五百二十。

 減った者が自立したとは限らない。

 転居した。

 死んだ。

 制度を知らなかった。

 窓口へ行けなかった。

 受給者と呼ばれるのが嫌で捨てた。

「食券を使わなかった人は、記録から消える」とカイル。

「使った人だけが貧しい証拠を残す」とエメ。

「助けを受けた者ほど、後世に依存したと書かれる」

「受けなかった者は自立したと書かれる」

「本当は」

「分からない」

 セレナは『分からない』の札を置く。

 不明は穴ではない。

 後世の想像で埋めてはならない、保存すべき形である。

 二重底の奥に、小さな音筒が七本あった。

 古い生活聴取。

 公開許可欄は、三本が可。

 二本が死後可。

 一つが家族判断。

 一つが不可。

「全部聞く?」カイル。

「不可は聞きません」セレナ。

「事件の証拠でも」

「保存されていること自体と、封印条件は証拠です。内容を見る権利とは別」

「家族判断の家族は」

「追跡不能」

「なら」

「聞かない」

 王子は歯を噛む。

「真実が中にあるかもしれない」

「あります」エメ。

「知ってる?」

「私の母が一本を聞いた」

「内容は」

「言わない」

「なぜ」

「不可だから」

「王都が崩れる」

「崩れる時ほど、死者の拒否を便利に破るな」

 カイルは引く。

「……受領」

 公開可の三本だけを再生する。

 一人目。

 切離し当日の上層機関士。

『刃は正確だった。予定線から指一本も外れなかった。だから成功だと思った。落ちた家の数は聞いた。名前は聞かなかった。名前を聞けば、次の切断が遅れると思った』

 二人目。

 仮設区の教師。

『子供は四十七人来た。名簿は三十二だった。十五人は教科書を受け取れなかった。受け取らない子は在籍者ではないと言われた。だから黒板だけは全員で見た』

 ハルが写した横倒しの黒板と、時代を越えてつながる。

 三人目。

 上層西柱の修理工。

『十年後の亀裂を報告した。切離しとの因果を証明しろと言われた。証明には事故時の荷重記録が要る。荷重記録は会計終結で廃棄された。証明できないから無関係とされた』

 音筒が止まる。

「円になってる」とカイル。

「証拠を捨て、証拠がないことを根拠にする」とセレナ。

「誰が作った」

「一人ではありません。廃棄規則、予算終結、因果審査、記録期限。別々の正しさが円を作った」

「犯人がいない?」

「責任者がいない、とは違います」

 セレナは関係部署を列記する。

 名前が分かる者。

 不明な者。

 死亡した者。

 現在も同じ制度を運用する者。

「今の命令も、この円から出た?」

「可能性はあります。断定はできません」

「署名焼損」

「意図的な責任回避か、設備破損か、旧式送信の仕様か。不明」

 カイルは不明札を増やす。

「王子が不明を並べると、頼りなく見えるな」

「頼れるふりで町を切るよりよい」とエメ。

「慰めが痛い」

「慰めていない」

 ニアを記録線へ呼ぶ。

 彼女の背後で、停止盤が赤く明滅している。

「第三版署名時の状況を、時系列で」とセレナ。

『切離しから六年。私は十四歳。終端技術院の圧縮課程二年目』

「十四歳を現場基準作成へ入れた理由」

『計算卓の旧式接続器が小さく、成人の指では同時操作できなかった』

「子供の手が必要だった?」カイル。

『それが表向き。実際には、低賃金と服従性』

「自分でそう思っていた?」

『当時は、能力を認められたと思った』

 ロロの遠隔声が入る。

『今の俺みたいに?』

 ニアは数秒黙る。

『似ている』

『似せるな』

『違いもある。おまえは拒否できる人間を持つ』

『持ってるから拒否できるって決めんな』

『そうだ』

 セレナが続ける。

「除外条件は誰が作成」

『主任二名、会計官一名。名前は記録にある』

「あなたの作業」

『各条件を除外した場合の成功率を計算した』

「結果」

『全住民と十年亀裂を含めれば、成功率四一パーセント。九十日以内、登録者のみなら九六』

「どちらを提出」

『両方』

「報告書へ残ったのは」

『九六』

「削除へ異議は」

『出さなかった』

「なぜ」

『四一を採用すれば、切離し事業全体が失敗になり、私の計算資格も、担当主任の地位も、仮設区補助の残予算も凍結すると説明された』

「補助予算を人質に?」

『そう理解した』

「実際は」

『会計上、別の支出方法があった。二年後に知った』

「その時、訂正しなかった」

『しなかった』

「資格を守るため」

『資格があれば、次の切断を正確にできると思った』

 エメの声。

「何人救った」

『私の切断で、落下構造から救命できた記録は三千百八』

「切った側は」

『記録上二百七。未記録不明』

「救った数を言えば、赦されると思う?」

『思わない』

「じゃあ何で言った」

『質問に答えた』

「そういうところだ」

『知っている』

「知っていると言えば終わる?」

『終わらない』

「何をする」

『第三版の全計算表を公開する。私が担当した切断判定を再監査する。資格停止を含む』

「今日の後で?」

『生存した場合』

「死んで逃げるな」

『努力する』

「そこは必ずって言え」

『必ずは保証できない』

「腹が立つ」

『受領』

 エメは笑わない。

 泣かない。

 ただ、音筒の一つへ自分の声を追加する。

『私はエメ・ドック。切断区画の生存者。ニア・ピクスの再監査を要求する。今日、彼女の技術を必要とする。必要と赦しを同じ欄へ入れない』

「公開許可」とセレナ。

「可。死後も可。編集不可」

「受領」

 公開範囲を決める作業に、八分使った。

 時間がない時、八分は長い。

 だが名前を隠すべき住民の一覧を、そのまま全域へ流せば、追跡者や債権者や昔の加害者へ居場所を渡す。

 正義は、速く出せば安全とは限らない。

 公開するもの。

 成功判定基準。

 除外条件。

 十年後亀裂図。

 ニアの署名と当時の役割。

 王家制度の継承責任。

 食券等から復元した人数推移――個人名なし。

 公開許可済み音筒。

 公開しないもの。

 住民名。

 現在地。

 治療記録。

 封印音筒の内容。

 不明のまま公開するもの。

 署名欄焼損の理由。

 綴じ糸が二年新しい理由。

 追跡票を二重底へ隠した者。

「不明を公開すると、陰謀が増える」とカイル。

「隠して後から出れば、陰謀が事実になります」とセレナ。

「どちらがまし」

「選択ではありません。分からないものを分かると言わない」

 カイルは公開文の最上段へ、自分の名を書く。

『現在の王家は、当時の個人発令を確認できない。ただし、成功基準と記録廃棄制度を継承し、本日の非常手順を停止できない状態へした政治責任を認める。』

「父王へ相談は」とセレナ。

「通信した。返答は、王都保全を優先せよ」

「公開文への同意は」

「得ていない」

「王太子個人の声明」

「そう書け」

「王家内対立として利用されます」

「利用されることと、言わないことを混ぜない」

 エメが一度だけカイルを見る。

「王子にしては、少し遅く賢い」

「褒めた?」

「遅いと言った」

「そこしか聞こえない!」

 セレナは単眼鏡を外す。

 左眼の焦点が戻らない。

「休め」とカイル。

「公開後に」

「今」

「右手首で封緘できません」

「私がする」

「王家が自分の責任文を封緘すると、改竄疑惑が」

 エメが封緘器を取る。

「私がする」

「当事者です」

「だから公開を止めない。セレナ、おまえは三分目を閉じろ」

「命令?」

「監査助言」

「受領」

 役割を渡す。

 真実を一人で持たない。

 記録を守る者が倒れれば、記録ごと止まる制度にしない。

 エメが黒い封を押す。

 カイルが配信線を開く。

 セレナは目を閉じたまま、読み上げだけを聞く。

 公開文が全域へ流れた時、王都の鐘が一つ止まった。

 下面区の怒号は増えた。

 上層の避難列も増えた。

 そして切断盤の成功率表示が、九七・二から九三・八へ下がった。

『長期亀裂資料を追加したため』ニア。

「下がるんだな」とカイル。

『計算は、見せた値を食べる』

「人を入れたら」

『さらに下がる』

「入れろ」

『登録方式がない』

「作れ」

『三時間では』

「三時間だから作れ」

 カイルは自分の王子印を、空欄の追加資料へ押した。

「王家が人を数えなかった記録の横に、王家が数え直せと命じた記録を置く。免罪ではない。次に逃げる道を減らす」

 セレナは止めない。

 ただ、失効時刻を書かせた。

 切断予定まで、一時間二十一分。

 その時、ロロから一枚の映像が届く。

 水槽。

 白い塔。

 黒い根。

 一本の切断線。

『模型できた』

「結果は」カイル。

『今から切る』

 映像の端で、未整備の三番腕が震えていた。

 ニアの過去署名は見つかった。

 だが、過去を裁くだけでは、現在の王都は立ち続けない。