第655話 第四章「一体構造の模型」前編
模型は、現実より小さい。
だから人は、模型なら全体を見られると思う。
山を手のひらへ載せ、都市を机へ置き、千年を一枚の年表へ縮める。
だが、小さくする時には、何かを捨てる。
住民の体重。
夜ごと増える錆。
配管へ勝手につないだ湯沸かし器。
王家が図面に書かなかった補修。
子供が柱へ刻んだ身長。
よい模型とは、すべてを含む模型ではない。
何を捨てたかを、見える場所へ書いてある模型である。
【現実/王都下面・第三保守環/覚醒/切断予定まで一時間十九分】
「切るぞ」
「待て」とニア。
「待ったら本物が先に切れる」
「三番腕を外せ」
「模型に関係ない」
「おまえの背骨に関係する」
「背骨は模型の外!」
「なら模型が不完全」
「姉貴を入れたらもっと不完全だ!」
ロロは工具台へ飛び乗った。
王都模型は、王家の白い立体図を解体して作られていた。
上層の塔は食器。
下面の根管は古い帆骨。
浮力炉は六つの湯沸かし釜。
水路は透明管。
住民荷重は、サラから送られた豆袋。
「豆?」カイルの遠隔映像。
「重さが一定で、食える!」ロロ。
「模型を食うな!」
「終わったら!」
「王都の食料だぞ!」
「王都を救う王都食!」
「予算分類が存在しない!」
「作れ!」
ロロは三番腕で、白塔へ細い針を入れる。
接続座が熱い。
知っている。
背中の右側が、もう自分の皮膚ではなく、誰かの手で押されているように痺れている。
知っているから止められるとは限らない。
止まれない人間ほど、自分の危険を詳しく説明できる。
「現在模型へ入れた値」とセレナ。
「根管圧、上層柱の傾斜、炉応答遅延、切断線の拘束変化、登録設備荷重、サラの未登録生活荷重は仮値!」
「仮値の範囲」
「上下二割!」
「大きい」
「生きてる町を一時間で縮めたんだぞ!」
「責めていません。誤差を記録しています」
「責める声!」
「生来です」
ニアが模型の六点へ指を置く。
「切断線の反対側に逃がし路がない」
「古図ではある」
「古図は百二十年前」
「だから試す」
ロロは模型下面を一周する赤糸へ刃を当てた。
「切断後、黒根が落ちる。白塔は残る。これが命令盤の前提」
「違うと考える根拠」とエリア。
「水圧が柱へ返った。十年後亀裂が同じ向き。つまり根と柱は荷重を渡してる」
「炉配管は」ニア。
「分からない」
「入っていない?」
「古図では別系統!」
「なら現物を」
「今バズが潜ってる!」
通信の向こうで、金属を叩く音。
『炉管三番、根管七番へ直結! 図面の閉鎖弁、現物は抜かれてる!』バズ。
「いつ!」
『刻印が摩耗! 少なくとも三十年以上!』
「理由!」
『冬の蒸気不足を補う生活改修! サラが台帳送る!』
サラの紙が模型台へ吐き出される。
『三十三年前、上層が暖房出力を増やした年、下面へ戻る蒸気が不足。根管七番を炉管へ直結。王家へ三回申請、返答なし。四回目から無許可。』
「犯罪改修」と王家技官。
『生存改修だ』サラ。
「許可が」
『凍死者へ許可を取れ』
ロロが透明管を一本足す。
「これで上層柱、炉、下面根が一周」
「模型上では」とセレナ。
「現物三点一致!」
「まだ全体とは言えません」
「だから切る!」
「模型を」とカイル。
「分かってる!」
刃が赤糸を切った。
黒い根部が落ちる。
一瞬、白い上層は残った。
命令盤の計算どおり。
「ほら」と遠隔の技官。
「三十秒待て」とロロ。
透明管の水が、切断端へ走る。
炉の湯が一つへ偏る。
白塔の左側が、一ミリ沈む。
五秒。
上層柱の豆袋が移る。
十秒。
炉管が引く。
十五秒。
白塔が傾く。
二十秒。
切断線と反対側の柱が折れた。
二十三秒。
王城、学院、上層市場、残った下面根。
全部が一つの水槽へ崩れた。
豆が舞う。
ノクスが一粒だけ食べる。
「ノクス!」
「ノゥ」
「証拠を食うな!」
「一粒で結論は変わりません」とセレナ。
「そういう問題!?」
ロロは笑った。
笑いながら、工具台から落ちた。
三番腕の接続座が、背中の筋肉へ食い込んでいた。
ニアが受け止める。
本人の腕ではなく、二本の補助腕で。
「離せ!」
「離せば落ちる」
「自分で立てる!」
「立て」
ニアは手を緩める。
ロロの膝が折れる。
未整備の三番腕が勝手に伸び、床を殴った。
衝撃が接続座から背骨へ返る。
「っ、あ――」
「停止」とニア。
「模型は」
「結果取得」
「誤差」
「再計算する」
「俺が」
「おまえは外す」
「技師として命令?」
「姉としても」
「混ぜるな!」
「両方同じ結論」
「だから嫌なんだよ!」
ロロは床を殴ろうとする。
右腕に力が入らない。
「俺が正しいって、認めろよ」
「模型は正しい可能性が高い」
「俺を!」
工房が静まる。
ロロは自分で言ってから、いちばん聞かれたくなかった言葉だと知る。
認めてほしい。
修理工として。
弟として。
捨てられなかった側として。
ニアはすぐに答えない。
「おまえの模型が、私の前提を崩した」
「それだけ?」
「今、言える事実」
「姉って、事実しか言えないのかよ」
「事実以外を言えば、信じるか」
「言ってみろ」
「怖い」
ロロの口が止まる。
「何が」
「おまえが、私へ認められるために壊れること」
「……今さら」
「今さらだ」
「十五年遅い」
「十五年と、現在の背部圧迫は別」
「別にすんな!」
「別にしなければ、治療が遅れる」
ニアは三番腕の布を切る。
ロロが叫ぶ。
「俺の腕!」
「未整備工具」
「俺の!」
「返す。再校正後」
「勝手に決めるな!」
「なら、外すことへ同意を」
「聞く順番が逆!」
「そうだ」
ニアは刃を止める。
「ロロ・ピクス。三番腕の接続を外してよいか」
ロロは息を荒くする。
吸入器が床にある。
ニアは取らない。
指さす。
ロロは自分で取る。
吸う。
「外せ。けど、捨てるな」
「捨てない」
「必ず直す、は言うな」
「直せる範囲と、直せない損傷を調べる」
「長い」
「生きるため」
「それ、家族が使うとずるい」
「使用停止する?」
「今だけ許す」
ニアが布を切る。
ロロの背から、三番腕が外れた。
軽くなる。
負けたように軽い。
外された三番腕は、床でまだ動いていた。
接続信号を失い、最後に受けた命令だけを繰り返す。
開く。
閉じる。
開く。
閉じる。
「止めろ」とロロ。
「所有者の停止命令を要求」とニア。
「俺が言ってる!」
「音声識別が損傷」
「じゃ、殴って止めろ!」
「修理可能部品」
「さっき未整備工具って!」
「未整備と廃棄は別」
ニアは腕の根元へ布を差し、物理的に歯車を止める。
開いたまま。
「閉じろよ」
「閉じれば布を噛む」
「見た目が死んでる」
「工具へ生死を使うな」
「俺の腕だ」
「おまえの身体ではない」
「身体みたいに使ってきた」
「だから、外した時に喪失として痛む」
「分かった顔すんな」
「私も六本を外したことがある」
ロロは初めて、姉の背を見る。
六本の補助腕。
現在は二本だけ起きている。
接続座の周囲に、古い火傷と新しい縫合痕。
「いつ」
「終端議会へ入る前。規格違反として」
「また付けた」
「自分で」
「誰に認めさせたかった」
ニアは答えない。
「質問だけして逃げるな」
「切断技師として必要だった」
「それ、役割」
「私には区別が難しい」
「俺もだよ」
言葉が止まる。
二人は似ている。
似ているから近づくとは限らない。
同じ刃は、向かい合わせれば互いを切る。
王都模型へ、現地から改修報告が殺到した。
『第六根、洗濯蒸気を学院厨房へ無許可接続』
『王城西翼、冬季のみ下面排熱を吸入』
『第十一街、葬送棚の保温管が中央炉へ直結』
『学院旧寮、雨水を下面貯槽へ落とす』
『上層花園、根管から肥料熱を取得』
『下面共同食堂、上層排水をろ過して調理用へ』
「全部つながってる!」カイル。
「町だから」とロロ。
「図面では分かれていた」
「図面は建てた日。町はその後も生きる」
「無許可が多すぎる!」王家技官。
『許可申請の返答が遅すぎる!』サラ。
「安全審査が」
『冬は審査結果より先に来る』
「だから勝手に」
『勝手に生きた』
セレナが割って入る。
「今は違法性の確定をしません。構造接続の事実と、申請記録の有無を分けてください」
「無許可管を模型へ入れるのか」と技官。
「現実にあるなら」とロロ。
「犯罪を正当化する」
「模型は法廷じゃねえ!」
「模型に入れれば、必要設備として扱われる」
「入れなければ、切った時に人が死ぬ!」
「言葉を選べ」
「死ぬ!」
ロロは寝台から起きようとし、背中を押さえる。
「別の言葉にしたら、死なないのかよ」
技官は黙る。
模型は道徳を決めない。
違法な管でも荷重を運ぶ。
善意で作った橋でも腐れば落ちる。
現実を模型へ入れることは、正当化ではない。
裁く前に、存在を消さないことである。