第681話 第五章「切断派の艦隊」前編
切断は、刃物の仕事だと思われている。
実際には、切断の大半は帳簿で行われる。
救助範囲から外す。
管轄外と記す。
連絡不能を死亡へ移す。
観測できない人数を零として計算する。
刃が下りるより前に、人は数字の外へ落ちている。
だが、切断する者が皆、冷酷であるわけではない。
むしろ反対の場合が多い。
火災区画を閉じる者は、隣の病棟を守る。
沈みかけた船の索を切る者は、残った船を救う。
感染した町を封鎖する者は、まだ病んでいない町を生かす。
切断派が恐ろしいのは、命を軽く見るからではない。
救えた命の数を、誰より正確に覚えているからである。
【現実/二世界境界・第五切断艦前方一千二百メートル/覚醒/ソウジの測定開始から一周期】
ニアの前へ、七百二十八の名前が届いた。
文字ではない。
白い点。
大きさの違う点。
点の周りに時刻、場所、救命手順、切断されたもの。
終端議会の救難記録だった。
『過去十二年、第五切断艦が関与した緊急切離し四十一件。救命確認七百二十八。推定追加救命二千百以上』
「広告」とロロ。
『監査済み実績だ』
「広告は嘘じゃない。都合よく並んでる」
『全原簿を送る』
「帯域が足りない」とセレナ。
『優先順位を指定せよ』
「死亡者」とニア。
通信が、一拍だけ止まった。
『確認死亡百六十三。未確認四百九。救難後の生活損失は別台帳』
「別にするな」
『分類は統計上必要だ』
「救命した後、家を失った者。移送先で病死した者。戸籍を切られた者。職を失った者。戻れなかった者。全部」
『送信量が――』
「七百二十八を見せるなら、切った側も同じ画面へ」
白い点の隣へ、灰色が増えた。
百六十三。
四百九。
その外に、数えられていない空白。
切断派は隠さなかった。
隠さないことと、正しいことは違う。
だが隠さない相手は、正しさを争う相手として厄介である。
「この事故」とハルが一つを指す。
逆潮環の外縁居住輪。
圧力炉が破裂し、居住輪を母体から切り離した。
切らなければ母体二万四千人へ火が回った。
切った居住輪には百十四人。
救命艇へ乗れたのは九十七人。
『当時の主任判断は、ニア・ピクス』
ハルの指が止まる。
ロロの補助腕も止まる。
ニアは画面を消さない。
「はい」
「何歳」とハル。
「十六」
「百十四人を」
「切った。九十七人を救った。十七人が死んだ」
「どっちを数える」
「両方」
「議会は」
「七百二十八へ九十七を足す。死亡へ十七を足す。別の資料で、判断成功とする」
『火災拡大を防いだ。成功基準は満たした』
「帰れなかった家族は」
『補償対象』
「補償した?」
『六十八件完了。二十一件継続。八件、本人不明』
「完了って誰が決めた」
『支払いと移住手続の完了』
「悲しむのをやめた日じゃない」とハル。
『悲嘆の終了を行政が定義すべきではない』
「そういう正しい返事、できるんだな」
『正しい返事であっても、満足を与えるとは限らない』
終端艦の声は、人間だった。
名前を名乗らない。
個人の声を艦の声へ変えている。
責任を消すためではなく、一人の判断に見せないための制度である。
制度は個人の暴走を防ぐ。
同時に、誰が決めたかを霧にする。
「第五切断艦」とニア。
『応答』
「現作戦の成功基準」
『アステリア側境界圧を六以下へ。王都外縁への追加流入を現在予測の十二パーセント以下へ。逆潮環六地域の重力炉を破損前に安定。地球側被害は観測可能な範囲で最小化』
「観測不能範囲」
『損失不明』
「計算上は」
『零ではない。不明のまま』
ニアの目が細くなる。
以前より、ましな答えである。
彼女が離れた後、終端議会も変わっている。
変わった組織だから戻るべきか。
変わり切っていない組織だから戻らないべきか。
人間は、昔のままの敵より、少し変わった敵を判断しにくい。
その時、王都側の救難気球が境界へ吸われた。
白い医療布を張った小型球。
下面区から負傷者を上層へ運ぶ途中だった。
乗員三。
患者二。
気球の浮力袋はアステリアの雲圧を前提にしている。
地球側の湿った重い空気へ触れた瞬間、袋が潰れた。
「救難気球、落下!」セレナ。
「ゼロスターから距離四百!」エリア。
「間に合う?」ハル。
「次の反転で逆へ流れる。二十二秒」
「行く!」
「第五切断艦が近い」とニア。
白い艦は、境界根へ照準を合わせている。
ここで進路を外せば、固定計画は遅れる。
外さなければ、気球は艦のすぐ横を通り、地球側へ落ちる。
『救難対象を確認』
終端艦の声。
『第二保全艇、切離し。固定計画を六秒延長』
「助ける?」カイル。
「救難艦でもある」とニア。
「自分たちの成功率を下げて?」
「六秒分だけ」
「それでも」
「それでも助ける」
艦腹から、細い黒艇が一隻離れる。
帆はない。
境界の重力差を左右へ割り、気球の落下方向へ先回りする。
白い網が開く。
「網で受けたら患者へ衝撃」とロロ。
「網を気球へ当てない」とニア。「上側の索だけ切る」
「切る?」ハル。
「潰れた浮力袋を捨て、籠を艦へ落とす。落下方向を変える」
「患者ごと落とすの!?」
「艦を下へ置く」
第二保全艇が気球の下へ入る。
網が浮力袋の索を六本同時につかむ。
一、二、三、四。
二本だけ残す。
「なぜ二本」とカイル。
「全部切ると籠が回る。二本で方向を固定」
「知ってる」ロロ。
「同じ訓練を受けた」とニア。
網の刃が四本を切る。
潰れた浮力袋が裂け目へ吸われる。
籠は二本の索で振り子になり、黒艇の甲板へ降りた。
衝撃。
王盾なら受け止める。
終端艇は、甲板そのものを沈ませて衝撃を逃がす。
「救助!」ハル。
「搬送開始」とセレナ。
「今日二回目!」
『患者二名、意識あり。乗員三名、軽傷。最寄り医療船へ移送』
「固定計画は」とニア。
『六秒遅延。成功率、九十一から八十九へ更新』
「二パーセントを五人へ使った」とハル。
『既知の五人を零として扱わない』
「じゃ地球側の不明も」
『不明のまま。ゆえに閉鎖を急ぐ』
「同じ証拠から逆へ行く」
『そうだ』
救難された気球の乗員が通信へ入る。
『助けてくれて――』
『感謝は不要。患者状態を』終端艦。
『一人、呼吸浅い。もう一人は脚を』
『医療艇へ数値を送れ。礼は審理後に受けるか決める』
通信が切れる。
「礼まで保留」とカイル。
「感謝を免責へ使わないため」とニア。
「正しい」ハル。
「冷たい?」
「冷たく聞こえる。でも、正しい」
「正しさだけで戻る?」ロロ。
ニアは終端艦を見る。
「戻らない」
「即答」
「救命実績がある。責任もある。両方を持つために戻れと言われた」
「じゃ」
「戻れば、救命実績を使って私の指揮権を復活させる。私はまた、正しい切断を速くできる」
「それが怖い?」ハル。
「私を止める人が、また私の部下になる」
彼女は右手を見た。
触覚はない。
「止める人は、部下ではだめ」
「俺は部下じゃない」とロロ。
「知っている」
「弟でも止める」
「それも知っている」
「分かった顔」
「顔は昔から」
「そこが腹立つ!」
救難艇が第五切断艦へ戻る。
六秒遅れた固定計画が、再開する。
命を救ったから、切断案が正しくなるわけではない。
切断案を選んだから、救った命が偽物になるわけでもない。
両方を同じ画面へ置くことが、ニアがかつて最も苦手だった監査だった。