第717話 第十一章「名を戻すが所有しない」前編

奪われた物を返す。

 正義はしばしば、その一文で語られる。

 だが、返すという行為には、返す者が一度それを持つ瞬間がある。

 土地を返す者は、返すまで土地を支配する。

 財産を返す者は、返すまで財産を保管する。

 名を返す者は、返すまで名を読む。

 その一瞬を小さいと考えた制度は、返還の名で新しい所有を作る。

 ゆえに、名を戻すために最初に問うべきは、誰の名を戻すかではない。

 誰も、その名を持ち続けられない仕組みをどう作るかである。

【現実/白峡谷東縁・塔路/覚醒/到着六日目・第一光】

 白い塔へ、橋はなかった。

 正確には、昨日まではあった。

 現在は床板十九枚と中央鎖が峡谷へ落ち、上橋口と下橋口の間に風だけが通っている。

「近道、消失」とエリア。

「地図から?」ハル。

「物理的に」

「分かりやすい方!」

「分かりやすい崩落を喜ばないで」

「喜んでない!」

「声が明るい」

「怖い時は冗談が増えるだけ!」

「自己申告できた」とセレナ。

「評価するな!」

 塔路は峡谷の東壁へ沿う保守道だった。

 幅一人半。

 手すりなし。

 岩壁へ打たれた鉄杭と、一定間隔の避難穴。

 白い塔まで一里半。

 路図はない。

 零星針は動かない。

 王盾炎も、証羽も、再機もない。

 紙地図。

 木札。

 結び縄。

 工具。

 水。

 吸入紙。

 それらを人間の背へ載せて運ぶ。

「荷重確認」とセレナ。

「俺、工具箱二、錘棒一、縄三」とロロ。

「重い」とカイル。

「王子へ一本」

「自然な徴用!」

「共同救難の分担!」

「言葉を変えると税が取れるな!」

「王権の歴史を今まとめるな」とハル。

 アムナは外套を着ていない。

 名の重なった灰色の布は、三窓の宿で封じた。

 代わりに、薄い作業布と、小さな袋を四つ。

 公開。

 封印。

 口承。

 本人返還。

 まだ空の袋もある。

 袋は答えではない。

 何を分けるか忘れないための仮の形である。

「アムナ」とハル。

 呼ぶ。

 彼女が振り向く。

「覚えてよい範囲」

「ここにいる間」

「終わったら」

「聞き直す」

「了解」

 名前を呼ぶ前に、毎回確認する必要はない。

 しかし一度聞いた許可が永久ではないことを、呼ぶ側が覚える。

「ネイは?」カイル。

「今日は呼ばない」とアムナ。

 前方の避難穴から、こつ、しゃら、と足音がする。

「いる」とノクス。

「ナ」

「今の翻訳は?」セレナ。

「足音の方向確認」ハル。

「証拠採用しません」

「案内採用」ロロ。

「採用にも種類を増やさないで!」

 ネイは先へ行っている。

 塔の外錠を調べるため。

 名前を渡さず、鍵穴へ先に入る仕事である。

 白い塔は、近づくほど白くなかった。

 色がない国で白いと呼ばれているのは、色ではなく機能のためである。

 文字を白くする。

 札を白くする。

 名のあった欄を白くする。

 塔の外壁は、煤と油でまだらだった。

 無数の管が地中、医療区、配給区、橋、交通所へ伸びる。

 塔上部には鐘。

 鐘の下へ、七段の回転窓。

「人影なし」とセレナ。

「煙あり」とエリア。

「動いてる」とロロ。

「誰もいないのに?」ハル。

「誰もいないから止まらない機械は多い」

「怖い言い方」

「自動化の説明だ」

 正面扉に、名読み取り板。

 カイルが手を置く。

「登録応答なし」

 扉は開かない。

「王太子でも?」ハル。

「この国へ登録していない」カイル。

「権威が通じない顔してる」

「顔で判断するな!」

 セレナ。

「通行条件は、終端環の有効登録名。全員不適合です」

「全員?」

「アムナは昨日、失効。現地住民も順次。私たちは域外名で未登録」

「塔へ入るために塔へ名前を渡す?」アムナ。

「渡さない」とネイ。

 扉の上から声。

 彼は外壁の排気穴へ半身を入れている。

「裏に保守口。名札じゃなく工具径で開く」

「工具径?」ロロの目が光る。

「古式。八角、三寸」

「俺の大好きな身元確認!」

「工具を持てば誰でも入れる」とセレナ。

「それがいい!」

「監査上は問題です」

「好きと安全を分けるな!」

「分けます」

「また!」

 ロロは八角工具を差す。

 回らない。

「固着」

「壊す?」ハル。

「蒸気を抜く。油。三分」

「三分で次の消去」アムナ。

 塔内で鐘が鳴る。

 かち。

 遠い村で、何かが白くなる。

「二分」ロロ。

「言葉で短くならない」とエリア。

「作業を短くする!」

 ハルが油を渡す。

 カイルが工具の反対を支える。

 アムナが秒を数える。

 一。

 二。

 三。

 百二十まで。

 百二十一で、保守口が開いた。

「二分一秒」セレナ。

「四捨五入!」

「緊急記録は秒単位」

「一秒を請求するな!」

 人一人が這える穴。

 ネイが先に入る。

 ノクス。

 ロロ。

 セレナ。

 エリア。

 アムナ。

 ハル。

 カイルが最後。

「王太子が最後?」

「後ろから扉を支える」

「体が大きいから詰まる?」

「理由を一つにしろ!」

 塔の内部には、名前がなかった。

 数字だけがあった。

 回転する円筒。

 穴の開いた金属帯。

 歯車。

 時刻輪。

 地区番号。

 設備番号。

 応答回数。

 名前そのものは、管の先から一瞬だけ送られ、中央の誓紋応答と照合された後、地区側へ戻る仕組みだった。

「塔は全名簿を保管していない」とセレナ。

「中継?」ハル。

「照合器」とロロ。「名前を持つんじゃなく、有効か無効かだけ返す」

「誰が有効を決める」アムナ。

「この円筒」

 ロロが指す。

 最大の金属円筒。

 表面へ古い規則板。

 セレナが六角単眼鏡を左眼へ当てかけ、痛みで右へ替える。

「読めます」

 古い終端字。

 第一条。

 同名重複時、誓紋応答のある者を優先。

 第二条。

 応答なき名は一時保留。

 第三条。

 七回連続で応答なしの場合、虚偽、死亡、移転、撤回のいずれかとして公的接続を失効。

 第四条。

 失効名に紐づく医療、配給、通行、就学、職能権を停止。

「四つを一つにしてる」とエリア。

「死亡かもしれない、移転かもしれない、撤回かもしれない、虚偽かもしれない」とハル。「分からないのに全部止める」

「昔は、それで不正を防いだ」とウルの声。

 彼女は来ていない。

 アムナが覚えている話である。

 白い塔が作られた頃。

 同じ名を十人分登録し、配給を盗る者がいた。

 死者の名で橋を通る者がいた。

 遠い村の子供を、存在しないとして税から隠す領主もいた。

 中央照合は、偽造を減らした。

 薬の重複配給を減らし、救難時の家族照会を速くした。

 制度は悪意だけで作られない。

 役に立った歴史があるから、長く残る。

「術を使えない空白域〈ノー・スター〉で、全員の誓紋応答が消えた」とセレナ。

「七回確認した名から順に失効」とロロ。

「登録更新の時刻が違うから、一斉じゃなかった」とエリア。

「塔は、全員を死者か虚偽か移転か撤回として扱う」ハル。

「区別しない」とアムナ。

「区別する情報が一つの応答しかないからです」セレナ。

「一つへ全部を結んだ」

「はい」

「壊す」とアムナ。

 短い。

「待って」とロロ。

「止める」

「止めたら、現在残ってる医療履歴、配給履歴、橋の保守情報まで読めなくなる」

「別にする」

「今から」

「今」

「できる?」ハル。

「できるかじゃない」とアムナ。

「できない方法で壊すと、人が死ぬ」

「昨日も死にかけた」

「だから壊す順番を作る」

 ハルはアムナの前へ立たない。

 手を押さえない。

 壊したい理由を否定せず、次の作業へ置く。

「何を先に戻したい?」

「人」

「人はいる」

「制度へ」

「どの制度」

「薬」

「次」

「配給」

「次」

「橋」

「名前」

 アムナは止まる。

「最後」

「名前を最後にする?」

「名がなくても、先に生きる」

「順番、決まった」

 壊すより遅い。

 その遅さを、誰が払うか。

 村では住民が仮札で生活をつないでいる。

 エリアの地図と、セレナの手順と、ウルの口承が時間を買っている。

 待たせている人を忘れない。

 円筒は七回目の照合へ入った。

 鐘が一段高くなる。

「次の一括失効まで、十八分」とロロ。

「何人」

「地区番号で八十三。名前は読めない」

「実数」とセレナ。

「仮札集計七十九。未確認四以上」

「安全側、八十七」とカイル。

「なぜ八」

「前日差分の最大。重複の可能性はあるが、配給は多い側」

「王子が数へ強くなった」とハル。

「走る法廷まで経験した!」

「事件を数えない」エリア。

 ロロは円筒の脇に、三本の出力軸を見つけた。

 医療。

 配給。

 通行。

 その奥へ、小さい二本。

 就学。

 職能。

 全部が一つの有効名軸から回っている。

「切る?」アムナ。

「軸を分ける」とロロ。

「どうやって」

「新しい入力を足す。名前の有効無効じゃなく、生活権札の穴」

「中央へ札を集める?」

「集めない。地区ごとに手動照合。塔へ来るのは、サービス一件を開く短い信号だけ」

「追える」ネイ。

 暗い梁から降りる。

「誰がいつ薬を使ったか、塔が数えれば追える」

「人数だけにする」とセレナ。「個人識別は地区側。中央は総量と異常だけ」

「地区が追う」

「地区も、医療札と配給札を別にする」エリア。

「二つを合わせたら」

「合わせるには本人札と監査鍵」

「監査が悪い側なら」

「本人が公開を止める」

「本人が眠っていたら」

「緊急医療だけ、期限付き代理」カイル。「終了時刻を先に刻む」

「代理が延長したら」

「三者鍵」ロロ。「医療者、本人側、外部監査」

「三人が結託」

「完全に防げない」とセレナ。

 言い切る。

「完全じゃない仕組みを作る?」アムナ。

「完全な仕組みと偽りません。誤りを分け、訂正できる仕組みを作ります」

「失敗する」

「失敗します」

「名前が消える」

「消えた時、薬まで同時に止まらないようにします」

 アムナは円筒を見る。

 完璧な一つの応答。

 星へ誓った名が返れば生者。

 返らなければ失効。

 簡単で、速い。

 今、町を殺している。

「作る」

 作業を分ける。

 ロロは出力軸を五系統へ分離。

 エリアは塔内の管路を紙へ描く。

 セレナは暫定規則を書く。

 カイルは地区代表へ渡す期限付き権限文を作る。ただし王命ではなく、外部救難者の提案として署名する。

 ネイは保守錠を開け、開けた場所を自分だけが知る状態にしないため、三人へ別々の手順を渡す。

 ノクスは歯車の足音を聞く。

 ハルは階段を走る。

 塔は七層。

 一層、受信。

 二層、照合。

 三層、失効。

 四層、医療。

 五層、配給。

 六層、通行。

 七層、排出。

 螺旋階段。

 昇降機は名札認証で止まっている。

「四層へ医療札!」ロロ。

「了解!」

 ハルは走る。

 一。

 二。

 三。

 跳ぶためではない。

 段数を記憶するため。

 一層から四層、百八段。

 二十九段目に欠け。

 五十四段目、油。

 八十七段目、手すりなし。

 左肩へ荷を掛けない。

 札箱は右腰。

「医療!」

 四層へ届ける。

「次、配給!」

 五層。

「通行!」

 六層。

「死亡扱い円筒の写し!」セレナ。

 三層。

「一度に言え!」

「一度に言うと混同する!」

「俺を信用しろ!」

「信用と作業記憶は別です!」

「正しい!」

 ハルは笑いながら走る。

 零星針はない。

 ひびの音もない。

 それでも、道を覚え、物を間違えず届ける。

 自分の価値を、失った能力の空白だけで測らない。