第718話 第十一章「名を戻すが所有しない」後編
「隠し軸」とノクス。
「ナァ!」
六層の壁へ前脚を当てる。
「何かある?」アムナ。
「音」とハル。
耳を当てる。
他の歯車より一拍遅い。
「壁裏」
ネイが鍵穴を探す。
「ない」
「なら保守側」とロロ。
図面を見る。
「図面にない」とエリア。
「後付け」
壁を叩く。
中空。
「壊す?」ハル。
「証拠保全」とセレナ。
「開口は最小!」ロロ。
鋸で四角く切る。
中に、小さな排出円筒。
札の束が回っている。
「何の札」
セレナが一枚取る。
失効名。
その名に紐づく家族照会、医療履歴、配給履歴、通行履歴を、死亡記録形式へまとめている。
「死んだと確定してない」とハル。
「第四条が、失効を死亡と同じ書式へ変換しています」
「なぜ隠す」カイル。
「住民側へ返さない内部帳票だから」
「誰のため」アムナ。
「将来の監査」
「本人のいない監査」
「制度が自分を正しいと証明するための記録」とセレナ。
記録は残っている。
住民には届かず、塔の内部でだけ。
人から名を消し、塔は消した事実を保管する。
「記録されたことで生じる支配」とアムナ。
「ネーム・ケージ」とネイ。
塔は名を所有しない。
有効か無効かを決める権限を所有する。
所有は、紙を持つことだけではない。
扉を開ける判断を持つことでもある。
残り十分。
ロロの分離歯車が一つ足りない。
「材料!」
「何が要る!」カイル。
「同径、十一歯、鉄!」
「塔内」エリア。
紙地図を見る。
「二層西、予備時刻輪」
「時刻が止まる!」セレナ。
「片方だけ。照合間隔が二倍になる」
「失効まで時間が延びる?」
「今は逆に助かる」
「後で戻す」
「誰が」アムナ。
「地区機関士と外部監査」
「決まってない」
「暫定でロロ、終了七日」とカイル。
「俺、残るの?」
「七日は残れない」
「なら現地へ教える」とロロ。
「誰」
「麦番の弟、滑車直せた。陶工、歯形読める。二人へ」
「名前なしで役割」
「役割を名へ固定しない」
ハルが時刻輪へ走る。
百八段。
今度は下り。
二十九段目の欠けを避ける。
五十四段目の油を飛び越す。
八十七段目で手すりを探さない。
配送経路は、二度目から道になる。
「一、二、三!」
時刻輪を外す。
重い。
右肩へ。
左は添えるだけ。
階段を上る。
「肩!」エリア。
「右!」
「左は」
「二!」
「戻ったら固定!」
「了解!」
命令を拒まない。
残り六分。
セレナが暫定規則を読み上げる。
「第一。存在確認は、公的名の有効性と分離する」
アムナが木札へ穴を開ける。
生活者一。
「第二。医療、配給、通行、就学、職能は個別の札とし、一つの失効で他を止めない」
エリアが五本の線を別々に描く。
「第三。公開呼称、検索可能名、封印名、口承名、無名を本人が別々に選ぶ」
ネイが「無名」の欄へ、名を書かず穴だけ開ける。
「第四。緊急時の代理接続には終了時刻を先に刻む」
カイルが時刻板へ期限を打つ。
「第五。訂正、撤回、再参加を同じ窓口で受ける」
ロロが逆回転できる爪を付ける。
「第六。中央塔は個人名を保管せず、地区別の総量と異常だけを受ける」
塔の名入力軸を外す。
「第七。名を戻す作業は、本人の同意なしに実施しない」
アムナが止まる。
「未確認者は」
「生活権だけ暫定接続」とセレナ。「名前欄は空欄ではなく、本人確認待ち。勝手に埋めない」
「死者」
「口承、遺族、本人の生前指示を分ける」
「全部ない人」
「存在した痕だけ残し、名は作らない」
アムナは頷く。
「第八」と彼女。
「追加?」
「覚えないで、と言える」
セレナが書く。
「第八。記録拒否は、生活権拒否とみなさない」
ネイが初めて、紙の方を見る。
「それ、僕の名なしで」
「条文提案者、非公開」とセレナ。
「提案者も記録しないで」
「記録しません」
「本当に?」
「あなたが望まない限り」
「後で証明できない」
「証明できないことを、あなたが選んだと記録します」
「矛盾」
「記録拒否の事実だけ。誰が拒否したかは残さない」
「今日はそれで」
残り三分。
分離歯車が入る。
「回す!」ロロ。
「入力!」
地区から届いた仮札。
八十七。
生活者穴。
医療穴。
配給穴。
通行穴。
名前は一部だけ。
封筒に閉じられた名。
壁だけの名。
口承だけの名。
ない名。
塔は、名前がない札を拒否する。
旧円筒が震える。
「有効名なし」と機械声。
「存在札あり」とセレナ。
「規則外」
「暫定規則を入れる!」ロロ。
金属帯へ新しい穴列を通す。
規則外。
塔は同じ言葉を繰り返す。
文明の機械は、悪意より規則外を恐れる。
「外なら、内へ入れる」とハル。
「言い方が危ない」とエリア。
「規則を変える!」
「永久変更の権限はない」とカイル。
「じゃあ」
「七日間の地域非常運用。終了時、自動で元規則へ戻す。ただし戻る前に公聴会」
「元へ戻ったらまた消える」アムナ。
「だから七日で恒久案を決める」
「決まらなかったら」
「生活権接続だけ延長。名の中央接続は戻さない」
「誰が決める」
「地区ごとの住民鍵」
「王子は」
「外部証人。決定権なし」
カイルは、自分の権限を入れない。
王太子の名は、遠い国では便利な強制力になる。
便利だから使わない。
「回せ!」
ロロが手回し軸へ補助腕を掛ける。
右手は動かない。
カイルが左から。
ハルが右から。
エリアが回転数を読む。
セレナが規則穴を確認。
アムナが札の数を数える。
ネイが詰まりを外す。
ノクスが異音へ鳴く。
「一!」
「二!」
「三!」
軸が回る。
旧円筒が、新しい穴列を読む。
「規則外」
もう一度。
「地域暫定」
機械声が変わる。
「期限」
「七日!」カイル。
「決定者」
「地区住民鍵!」アムナ。
「中央名」
「不要!」ネイ。
「存在確認」
「木札、縄、手書き、口承のうち三媒体!」セレナ。
「一致不全」
「不明として生活権を維持!」エリア。
「費用」
「公開!」ロロ。
「責任」
全員が止まる。
誰の責任か。
設計者。
運用者。
中央。
地区。
救難者。
一人ではない。
「分けて記録する」とセレナ。
「責任なし」とは言わない。
機械が一拍止まる。
「受理」
分離歯車が回った。
医療軸。
配給軸。
通行軸。
就学軸。
職能軸。
別々に。
白い塔から、五種類の短い信号が町へ走る。
三窓の宿で、医療扉が開いた。
サエルの札には、村内呼称と医療接続。
扉は名を音読しない。
半札と現場札が合えば開く。
配給庫で、麦番の一人分が戻る。
名前欄は空。
生活者一。
窯番号。
学校札へ、ミレの呼称が戻る。
正式名は村内壁だけ。
外部検索なし。
右手の子は、名前なし。
医療、配給、通行、就学を持つ。
本人札には右手の印。
ネイ。
中央名、なし。
公開呼称、なし。
検索、なし。
生活権、あり。
医療は一日札。
配給は本人持ち穴。
通行は扉ごとの仮名でも、無名でも選べる。
「これで満足?」アムナ。
「満足はしてない」とネイ。
「なぜ」
「制度は今日できた。明日、職員が面倒だって一つへ戻すかもしれない」
「監査する」
「誰が」
「あなた」
「名前を載せない監査員?」
「できる」
「肩書へ固定しないで」
「今日は」
「今日は、見る」
「それで」
完全ではない。
だから、暮らしが続く。
アムナの分。
医療接続。
配給。
通行。
「公開名」とセレナ。
「アムナ。ここにいる人だけ」
「姓」
「封印」
「検索」
「なし」
「口承」
「ウルが渡してよい人」
「訂正」
「いつでも」
「本人不在時」
「医療だけ三者鍵」
「記録保管」
「私、ウル、ロロ」
「ロロが出航する場合」
「鍵を返す」
「複写」
「しない」
ロロは小さな三分割筒を作った。
一つでは開かない。
三つそろっても、本人の結び位置がなければ開かない。
「笑い話の代金」とロロ。
「ウルが王の靴を盗んだ」
「続き!」
「王が道を盗った」
「もっと!」
「王の靴は小さかった」
「そこが笑い?」
「ウルが履けなかった」
ロロが笑う。
アムナの息も一度漏れる。
笑い話は、名前と結びつけずに残る。
白い塔の鐘が止まった。
町の公的名は、全て元へ戻ったわけではない。
戻したい人の名だけ、選んだ範囲へ戻る。
戻したくない人は、生活権だけ。
決められない人は、保留。
本人へ聞けない人は、存在痕と救命だけ。
記録の管理権は、塔から地区へ返る。
地区へ返しただけでは、地区が新しい支配者になる。
だから、公開、検索、封印、口承、本人返還を分ける。
地区も全部を見られない。
名を戻す。
所有しない。
それは一度の作業ではない。
毎回、誰が見てよいかを聞き直す習慣である。
「終わった?」ハル。
「七日間の暫定です」とセレナ。
「事件は」
「消去原因と生活権停止の構造は立証。暫定復旧も完了」
「終わってない言い方」
「暮らしは終わりません」
「じゃあ、今は終わった?」
「今は」
セレナが言う。
「終わりました」
その瞬間。
塔七層の排出円筒が、逆回転した。
「止めたはず!」ロロ。
「別軸!」ノクスが鳴く。
隠し円筒。
失効名を死亡書式へ変える装置。
内部に残っていた札束が、一斉に吐き出される。
白い紙。
一枚。
二枚。
三枚。
風へ舞う。
ハルが一枚をつかむ。
セレナが二枚。
エリアが一枚。
カイルの足元へ一枚。
ロロの補助腕へ一枚。
紙には、名があった。
消えた住民の名ではない。
凪野ハル。
エリア・ルーンベルグ。
カイル・アークレイ。
ロロ・ピクス。
セレナ・クロウ。
夜獣ノクス。
ゼロスター号の常乗員全員。
その下に、場所。
時刻。
状態。
書式は予言ではなかった。
完了した事故報告書に似ている。
ハルの紙の最上段へ、近い日付。
末尾へ一行。
――橋梁上にて死亡。
白い塔は、名を返した直後に、彼らの死を記録した。