第720話 第十二章「自分たちの死亡記録」後編

 配給試験は麦番。

 名前を中央へ戻していない。

 窯番号、本人半札、当日役割札で粉を受け取る。

「麦番一、窯三」と配給係。

「今日は窯二」と本人。

 札が通らない。

「制度不良」とハル。

「本人の仕事が変わった」と麦番。「夜に窯三が割れた」

「更新時刻は朝鐘」と配給係。

「もう朝鐘の後」

「では翌日」

「今日の粉は?」

 名を分けても、時刻を固定すれば生活に遅れる。

「当日変更欄」とロロ。

「誰が承認」と配給係。

「窯二の共同作業者二人と本人」

「二人が共謀したら」

「粉の総量と焼成数を翌日監査。損失は給与から自動で引かない」

「赤字」

「公開」

「また赤字!」カイル。

「国が赤字を嫌って人を空腹にした歴史、要る?」ウル。

「今は要りません!」

「逃げた」ロロ。

「長くなるからだ!」

 当日変更欄を追加する。

 麦番は窯二の粉を受け取った。

 成功。

 同時に、共同作業者がいない日の変更手続は未解決。

「完成しない」とアムナ。

「完成させない」とエリア。

「不具合を残す?」

「不具合を隠して完成と言わない」

 通行試験は、ネイだった。

「今日は何で」ハル。

「呼ばないで」

「了解」

 ネイは中央名を持たない。

 半札へも呼称を書かない。

 通行扉へ入れるのは、一日限りの権利穴。

 外から入った者一。

 出る権利あり。

 追跡位置なし。

 失効、夕鐘。

 扉が開く。

「通れた!」ハル。

「大声で言うと、僕が試験したことが公開される」

「ごめん!」

「それも大声」

「……ごめん」

「今日はそれで」

 ネイは扉を通り、向こう側で半札を折った。

 戻る権利は消える。

「帰ってこない?」アムナ。

「戻りたい時、新しく選ぶ」

「今の札を残した方が」

「追える」

「救難時」

「足音と人数」

「それでも見失ったら」

「見失って」

 アムナは追いかけない。

 扉の向こうの足音が遠ざかる。

 しゃ。

 こつ。

 やがて聞こえなくなる。

 試験記録には、通行権一、使用済み、本人が位置記録を破棄、とだけ残す。

 名前も、行き先もない。

 成功。

 同時に、戻らない選択を救助側が受け入れる痛みは、制度で解決しない。

 三つの試験は、三つとも成功し、三つとも未完成だった。

 医療は第三確認者が未定。

 配給は当日変更の例外が残る。

 通行は追跡しないことで救助が難しくなる。

「昔の中央台帳なら、一枚で終わった」とカイル。

「一枚で終わらせたことにした」とセレナ。

「問題は後ろへ」エリア。

「見えない人へ」アムナ。

「今は、見える場所へ置く」とロロ。

 宿の壁へ、未解決欄を作る。

 名前は書かない。

 問題、期限、担当役割、本人へ聞き直す条件だけ。

「問題を公開すると、この地区が失敗に見える」と配給係。

「失敗していない地区は、問題を書いていない地区かもしれない」とウル。

「歴史家の言い方」ハル。

「神様は上から見て分かったふりをする。私は井戸端から聞き間違えるだけさ」

「聞き間違いを自慢するな」

「訂正できるからね」

 ウルは咳を三回し、四回目を飲み込んだ。

 アムナは数えない。

 本人から、咳の数を覚えるなと言われている。

 覚えていないのではない。

 数えないことを選ぶ。

 その選択が守れた朝だった。

「言葉を取り返した」とカイル。

「同じ言葉を使う?」エリア。

「過去の被害が消える?」アムナ。

「消さない」ウル。

 焦がし蜂蜜茶を飲み、咳を三回する。

「古い意味も話す。新しい意味も話す。どちらが本物か一つにしない」

「完全版は」ハル。

「ない」

「嫌いな言葉だったな」

「完全版」

 ウルは杖でハルの靴を軽く叩く。

「言うと一話短くするよ」

「今、何話?」

「おまえの父親が道を盗んだ話」

「ウル、ソウジ知ってるの?」

「さて、そこは誰から聞いた?」

「ずるい!」

 ウルは笑い、咳をする。

 結末は言わない。

 今ここで必要な範囲を越える話を、老人は知っていても渡さない。

 知っていることと、今話してよいことは別である。

 アムナの外套は、四十七の袋へ分かれた。

 本人へ返した名。

 家族へ預けた名。

 封じた名。

 口承へ移した名。

 所在不明のまま三者鍵へ入れた名。

 外套そのものには、文字の跡だけ残る。

 黒が薄くなった灰布。

「軽い」とハル。

「軽くない」

「重さ」

「前より軽い」

「じゃあ」

「軽くなったことが、いいか分からない」

「分からないで持つ?」

「今は」

 アムナは外套を畳む。

 ウルへ差し出さない。

 ネイへも。

 自分で持つ。

 ただし、次に全部を書き直さない。

「行くのかい」とウル。

「白い塔の外も見る」

「院長になる前に?」

「ならない」

「今は?」

「今は」

 ウルが笑う。

「続きを持っておいき」

「何の」

「覚えない話」

「話にならない」

「だから、聞き手が要る」

 アムナは、ウルの名を二度言わない。

 一度。

「ウル」

「はいよ」

 返事がある。

 名前は、返事だった。

 ネイは宿の屋根にいる。

 今日は足音が、しゃ、こつ。

 昨日と逆。

「行く」とアムナ。

「誰が」

「私」

「名前は」

「今は、アムナ」

「記録する?」

「船の中だけ。期限付き」

「僕のは」

「記録しない」

「覚えてる?」

「答えない」

 ネイは左頬だけにえくぼを作った。

「今日はそれで」

 別れは、本名を交換しなくてもできる。

 ゼロスター号の客員席には、七枚の航路札が掛かっていた。

 規則。

 契約。

 群れ。

 鏡。

 停車。

 夢。

 切断。

 過去の客員たちが、自分の土地へ戻る時に残したもの。

 八枚目の位置は空いている。

 ハルが新しい札を出す。

「これ」

「八枚目?」アムナ。

「違う」

「空いてる」

「決めた名で残す札は、まだ早いだろ」

「誰が決めた」

「俺」

「所有」

「提案! 嫌なら破って!」

「本人へ聞く前に作った」とエリア。

「白紙なら選べると思って」

 アムナがハルを見る。

 空白を可能性と呼ぶな。

 彼は口を止める。

「白紙にされた札じゃない」と言い直す。「誰も書いてない。おまえが書かなくても席は使える」

「期限」

「次の停泊まで」

「検索」

「船内だけ」

「写し」

「作らない」

「消す権利」

「おまえ」

「費用」ロロ。

「紙一枚!」

「誰が払う」

「船費!」

「客員費!」

「細かい!」

 アムナは炭を取る。

 自分の公的名を書かない。

 仮の呼称。

 煤指。

 煤で黒い指。

 本人が選んだ、今だけの名。

 その下へ小さく書く。

 次の停泊まで。

 船内呼称。

 検索なし。

 本人が消す。

「名前。もう一度」とハル。

「煤指」

「煤指」

「違う」

「何が」

「今のは、私が先に言った」

「じゃあ合ってる」

「採点は私」

「正解?」

「今は」

 アムナの息が一度漏れる。

 八枚目ではない。

 仮札。

 客員席へ、他の七枚と離して掛ける。

 彼女の航路は、完成した名札で始まらない。

 出航準備。

 星脈炉はまだ動かない。

 無誓領域の中である。

 ロロが手回し機関を点検。

 カイルが帆索。

 セレナが紙の死亡記録を三つの封筒へ分ける。

 ノクスが乗員の足音を確認。

 アムナ――今は煤指――が手旗を覚える。

 エリアは紙地図を甲板へ広げた。

「帰路、描ける?」ハル。

「色の境界までは」

「魔法が戻ったら」

「路図を使う」

「紙は」

「残す」

「便利な方へ戻る?」

「便利は使う。使えない手も捨てない」

「俺、零星針なくても役に立った?」

 冗談の形。

 質問は本気。

 エリアは地図針を一度外し、差し直す。

「役に立った」

「即答」

「配達経路、索、橋、階段」

「もっと感情的な評価は」

「左肩を過小申告した」

「減点!」

「依頼した時は止まった」

「加点!」

「人の評価を点数へするなと言ったのはあなた」

「今だけ!」

「期限付き?」

「次の停泊まで」

 二人は笑う。

 色のない空。

 赤いはずのマフラーも、濃紺のはずの三つ編みも、灰の濃淡しかない。

 それでも、記憶で色を補う必要は少し減っていた。

 人を見分けるものは、色だけではない。

 言葉。

 足音。

 間違い方。

 謝り方。

 止まる時に誰へ頼むか。

「鐘!」セレナ。

 白い塔ではない。

 遠い峡谷から、崩落警報。

 皆が顔を上げる。

 地平の向こう。

 白い峡谷が、何本も平行に走っている。

 その一つに、昨日の橋と同じ三塔式の橋。

 小さい。

 遠い。

 中央塔が傾く。

 床板が一列、白い深みへ落ちる。

 時刻。

 ハルの死亡記録に書かれた時刻ではない。

 場所。

 紙には「橋梁上」としかない。

 形は同じ。

 崩れ方も、記録に書かれた床崩落と似ている。

「俺、ここにいる」とハル。

「確認」とセレナ。

「生きてる」

「死亡記録は外れた?」カイル。

「時刻が違います。場所も特定不能。記録との因果は不明」

「でも橋は崩れた」とエリア。

「誰か乗ってる?」ハル。

 走り出しかける。

 一。

 二。

 三を言う前に、止まる。

「位置」とエリア。

「遠すぎて分からない」

「救難信号」セレナ。

「なし」

「行く?」カイル。

「一人で行かない」

 ハルは言った。

「地図、頼む」

「描く」

「ロロ、船」

「手動で出す!」

「カイル、帆」

「任せろ!」

「セレナ、記録」

「死亡記録と崩落を別に記録します」

「ノクス、足音」

「ナ!」

「煤指」

 アムナが振り向く。

「名前じゃなくても、数えて」

「何を」

「乗ってる人。覚えてよい範囲を、着いてから聞く」

「今は、数」

「今は、数」

 ゼロスター号の手動帆が開く。

 死亡記録は、まだ真実ではない。

 嘘とも証明されていない。

 遠くで同じ形の橋が崩れた。

 ハルは、自分の死が書かれた橋へ向かう。

 ただし、一人ではない。

 紙が書いた通りでもない。

 一。

 二。

 三。

 三拍を終えてから、船は走り出した。