第721話 第一章「橋で死ぬ少年」前編

人が死んだ後、死亡記録が作られる。

 そう考えるのは、文法へ支配された者の常識である。

 過去形は過去を語り、未来形は未来を語る。死んだ、と書かれていれば、死はすでに起きた。死ぬ、と書かれていれば、まだ起きていない。

 しかし制度は、文法ほど素直ではない。

 兵士が戦場へ出る前に遺族年金の書類を作る。

 危険な鉱山へ入る前に事故番号を発行する。

 王が処刑を決める前に墓地の区画を空ける。

 まだ起きていない死を、過去形で準備することはできる。

 記録とは、起きたことを書く紙である。

 同時に、何を起きたことにするかを先に決める紙でもある。

【現実/地図外の終端空域〈エクリプス〉・白峡谷三塔橋/覚醒/死亡記録排出から二十七分】

 橋は、ハルが死ぬために崩れていた。

 そう断定するには、証拠が足りない。

 そう疑うには、形がそろいすぎていた。

 橋へ着く十一分前、誰も「急げ」と言わなかった。

 言わなくても、ゼロスター号の手回し軸は限界まで回っていたからである。

 ロロが機関室から、回転数を怒鳴る。

「百七十二! 安全域は百四十! あと九分で右軸の歯が一枚、機嫌を損ねる!」

「壊れるじゃなく、機嫌?」ハル。

「機械にも尊厳がある!」

「修理代を取る相手だけ尊敬してない?」

「払う奴はもっと尊敬する!」

 カイルが人力歯車へ全身を預け、額の汗を袖で拭う。王太子が回す機関は速くなるが、王家の威厳は一回転ごとに床へ落ちた。

「王族を動力へ使う船は、建国史にあったか!」

「反乱史なら」とセレナ。

「即答するな!」

 甲板中央には、六通の死亡記録が重しで押さえられている。

 ハルは橋。

 エリアは婚姻塔。

 ロロは機関室。

 カイルは盾の内側。

 セレナは証拠庫。

 ノクスは、黒い檻。

 アムナの紙だけ、何も書かれていない。

 記録に記された時刻は、まだ先だった。

 橋の崩落は、その時刻より四時間早い。

「時刻が違う」とセレナは三度目の確認をした。

「だから別件?」ハル。

「だから同一とも別件とも断定できません」

「形は同じ」とエリア。

 紙地図の余白へ、死亡記録の橋を写す。

 三塔。

 中央低床。

 右救難鐘。

 遠眼鏡の向こうにある橋と、寸法まで近い。

「偶然の確率は」とカイル。

「比較母集団がないので算出不能です」とセレナ。

「数字が欲しい時に数字をくれない!」

「欲しい数字を作るのは占いです」

 ハルは死亡記録を裏返した。

「罠でも、あそこに人がいたら行く」

「そこまで予測されている」とエリア。

「知ってる」

「知っていて行くことと、知らずに行くことは違う。でも、死ぬ結果は同じになり得る」

「じゃあ、違う手順で行く」

「その違う手順も、次には学習されるかもしれない」

「次に学習されるから、今の人を落とす?」

 エリアは答えない。

 答えないのは、反対だからではない。

 同じ問いを自分へ向けているからだ。

 船首の白い風が薄くなり、橋が肉眼で見えた。

 救難鐘は鳴っていない。

 伝羽も飛んでいない。

 橋の管理標も、避難旗もない。

「助けを呼んでいない」とカイル。

「呼べないか、呼ぶ先がないか」とアムナ。

「罠なら、呼ばなくても俺たちが来ると知ってた」ハル。

「あなたが来る、ではなく」セレナが訂正する。「死亡記録を読んだ対象群が、類似構造を放置しないと予測した可能性」

「俺たち全員、面倒な性格ってこと?」

「制度側から見れば」

「褒め言葉に聞こえる!」

 ノクスが船首へ出て、二本尾を低くする。

 約束の匂いはない。

 それでも、左右で異なる足音を拾ったのか、右耳だけが立った。

 次の瞬間、橋の床が落ちた。

 三本の白い塔。

 塔から塔へ吊られた灰色の索。

 中央だけ一段低い床板。

 右へ傾いた救難鐘。

 橋の向こうに立つ、片輪の荷車。

 そして橋の中央で、床が一列ずつ落ちている。

「乗ってる!」

 ハルが船首から身を乗り出した。

 ゼロスター号は手回し機関の悲鳴を上げている。無誓領域では星脈炉が眠り、片帆と人力歯車だけで白い風を切る。船首の下、橋の床へ三人。

 一人は灰外套の老人。

 一人は荷車の横で索を押さえる女。

 もう一人は、橋の欄干へ片足を掛けた少年だった。

 外套を裏返し、左右で音の違う靴を履いている。

「ネイ!」

 少年が顔だけ振り向いた。

「今日は、その呼び方じゃない!」

「死にかけてる時に改名するな!」

「死にかけてるから固定するな!」

 右の床板が落ちた。

 荷車の車軸が半分空へ出る。積まれているのは、手動医療扉へ使う木枠、薬箱、人数札、白い塔から持ち出した未処理記録の封筒。

「人三、荷車一!」アムナが甲板で数える。「橋上。中央塔から十一歩。老人の左足、動かない」

「救難索、長さ足りる!」ロロが叫ぶ。「ただし船を橋へ寄せたら帆が塔索へ絡む! 修理代、橋管理へ――管理者誰だ!」

「今、請求先を探すな!」

「責任者なしの救難は赤字が永久化する!」

「永久の前に三十秒を見ろ!」エリア。

 紙地図を船縁へ押さえる。

 まだこの空域では路図が戻らない。鉛筆、歩数、橋塔の角度、船の速度。魔法がない地図は、線を一本引くたび誰かの呼吸を使う。

「船首を橋の左下へ。十五度。床板は中央から外へ崩れている。ハル、最短は右塔の補修索」

 最短。

 死亡記録に書かれていた言葉が、頭の中へ戻る。

 救助対象を確認。

 最短経路へ単独で進入。

 三拍跳躍の第三拍を省略。

 崩落床へ右足で着地。

 左肩の固定が外れる。

 救助対象を索外へ投げる。

 本人は橋梁下へ落下。

 橋の右塔。

 補修索。

 床板。

 全部ある。

「ハル」

 エリアの声は短かった。

 止まれ、ではない。

 行くな、でもない。

 名前だけ。

 一度目の名前は、誰であるかを示す。

 二度目の名前は、まだそこにいるかを確かめる。

「いる」

 ハルは答えた。

 零星針の蓋へ親指を掛ける。

 一度。

 二度。

 三度。

 針は動かない。

 だから走る。

 一。

 二。

 三が出ない。

 右塔へ飛べば届く。

 橋へ一人で入れば、三人を早く助けられる。

 死亡記録は罠かもしれない。

 罠でも、人は本当に落ちている。

 冗談が浮かぶ。

 恐怖の時に増える種類の冗談。

「俺が落ちたら、配送料は着払いで――」

「ハル」

 二度目。

 エリアが言った。

「役割を言って」

 命令ではなかった。

 ハルは息を吸った。

「エリア、橋の崩れる順番を頼む」

 言えた。

「承知。十秒ごとに更新する」

「カイル、荷車の重さを受けて」

「で、誰を守ればいい――三人と荷車だな。承知!」

「ロロ、俺の帰り道」

「修理より高い注文すんな! 腰索二本、右肩は使うな!」

「セレナ、俺が見落としたら止めて」

「事実だけを。あなたの死亡記録どおりの動作が三つ続いた時点で強制撤退を宣言します」

「アムナ、人数」

「三。あなたを入れて四。戻ったら四。減ったら言う」

「ノクス、足音」

「ノゥ!」

「ネイ!」

「今日は橋の上では『灰底』!」

「灰底、老人を動かせるか!」

「名前が要るのは誰!」

「俺じゃない! 動かせるか!」

「左からなら!」

「じゃあ左へ!」

 役割が返る。

 役割を言葉へしただけで、橋の崩落は待ってくれない。

 中央塔の鐘が、鳴らないまま大きく揺れた。

 鐘舌へ細い拘束線が巻かれている。

「救難鐘を鳴らさせない仕掛け」とセレナ。

「助けを呼ばせないのに、俺たちを呼んだ」とハル。

「あなたの記録が呼び鈴」とエリア。

「最悪の指名配達!」

 ロロが腰索を二本投げる。

「一本は帰り。一本は帰りが切れた時の帰り!」

「それ、二本とも帰り!」

「帰れない救難は片道料金三倍だ!」

 ハルは腰帯の左右へ索を通す。

 左肩を使わない結び方。

 カイルが結び目を引く。

「緩い」

「呼吸分」

「落下時には締まる」

「締まりすぎたら」

「一拍で切る。二拍で予備へ」

「王子が索を切ると縁起が悪い」とウルが橋上から叫ぶ。

「まだ助けられていない者が縁起を論じるな!」

「助けられる側にも発言権はあるよ!」

「正論が遠い!」

 エリアが紙地図へ、橋床の落下順を三色で書く。

 赤は十秒以内。

 黒は三十秒。

 白は不明。

「白へ着地しないで」

「安全じゃない?」

「分からない」

「白って安全に見える」

「だから不明を白にした私の失敗」

 エリアは白へ斜線を足す。

「訂正できる地図、好き」とハル。

「感想は帰ってから」

「帰る前提で言った!」

 セレナが死亡記録へ指を置く。

「同じ動作三つで撤退。現在、一、救助対象を確認。二、最短経路を見た」

「選んでない!」

「見たことも条件になり得ます」

「三つ目は」

「単独進入」

 ハルは全員の返事をもう一度聞く。

 一人ではない。

 それを耳で確かめてから、三を言った。

 一人で走る時、道は自分の足へ閉じる。

 役割を渡す時、道は返事の数だけ増える。

 ハルは三を言った。

「三!」

 船縁を蹴る。

 右塔の補修索へではない。

 エリアが示した二番目の線、中央塔から垂れた点検縄へ飛ぶ。

 死亡記録の最短路より、四歩遠い。

 空中で左肩へ負荷が来る。

「肩!」セレナ。

「二!」

「虚偽」

「三!」

「継続。四で交代」

「空中で誰と!」

 カイルの盾索が飛んできた。

 炎は出ない。

 ただの金属索と、人間の腕力。

「俺だ!」

 ハルの腰帯へ噛む。

 身体が振られる。

 中央塔の側面へ足を当て、滑る。右足ではなく左足。死亡記録と違う。

 それだけで助かるわけではない。

 床板が落ちる。

「次、二列!」エリア。

「灰底、老人!」

「動かす!」

 ネイ――今は灰底が老人の脇へ肩を入れる。荷車の女が反対側へ回る。

 老人は笑った。