第722話 第一章「橋で死ぬ少年」後編
「若いの、私は荷物より軽いぞ」
「自慢にならない!」
「七十二なら重い方だ」
声。
咳が三回。
「ウル!」アムナ。
灰外套の老人ではない。
小柄な老婆が、荷車の陰へ座り込んでいた。
「ウル婆!」ハル。
「一話短くするよ!」
「今は話の長さより橋!」
「歴史家はね、橋が落ちてから長くなるんだよ!」
「神の視点で座るな!」
ウルは左足首を押さえている。
古傷へ床板が当たったらしい。
ハルが中央塔から橋面へ降りる。
一。
二。
三。
三拍を終える。
床へ右足を置かない。
左膝、右手、腰索の三点で着く。
「記録どおり二項、未到達」とセレナの声。「単独ではない。第三拍を省略していない」
「数えるの怖い!」
「数えなければ、似ていることを運命と呼びます」
荷車の車輪が外へ滑る。
カイルが船から盾索を引く。
普通の盾で受けるには重すぎる。
「景気が悪い荷物だな!」
「薬を景気で測るな!」ロロ。
「何キロだ!」
「箱二十、木枠四、記録封筒三百、車体! 合計――」
「全部足してから言え!」
「今足してる!」
ハルはウルを持ち上げない。
「動かしていい?」
「聞くのが遅い」
「ごめん。左足は」
「触るな。右肩を貸せ」
ハルは右肩を低くする。
ウルが自分で体重を預ける。
誰かを救うことと、誰かの身体を勝手に持つことは同じではない。
危機はその違いを急がせる。
急ぐ時ほど、問いを省く者が強者になる。
「灰底、女の人と先に!」
「名前は!」ネイ。
「今いらない!」
「正解!」
ネイが女の手を取る前に聞く。
「手、いい?」
「いい!」
二人が中央塔へ走る。
橋の床が三列落ちた。
ハルとウルの下だけ残る。
死亡記録の文。
救助対象を索外へ投げる。
ハルは、ウルを投げない。
「自分で飛べる?」
「私を何歳だと」
「七十二!」
「正確で腹が立つね!」
「飛べない?」
「一歩なら」
「じゃあ一歩だけ」
中央塔まで二歩。
一歩をウルが跳ぶ。
二歩目をハルが引く。
投げるのではない。
動作を分ける。
塔へ届く。
次の瞬間、残っていた床板が全部落ちた。
ハルの右足が空へ出る。
腰索が張る。
左肩に衝撃。
「四!」
自分から申告した。
カイルが索を巻く。
ロロの二本の補助腕が巻取軸へ噛む。
エリアが船と塔の角度を読む。
「右へ半歩! 左肩を索から抜いて!」
「抜いたら落ちる!」
「私の補助索へ替える!」
「頼む!」
言った。
エリアの索が腰帯の二つ目へ入る。
古い索を外す。
左肩の痛みが三へ落ちる。
ハルは塔の縁へ右手を掛けた。
ネイが手を出す。
「呼び名!」
「今は灰底!」
「灰底、引いて!」
「了解!」
引かれる。
橋上の四人が中央塔へ集まった。
「人数!」ハル。
アムナが甲板から指を折る。
「ウル。灰底。荷車の人。ハル。四。船に五と一。全員」
「荷車は!」ロロ。
「一!」
「人じゃない!」
「でも薬!」
「回収する!」
「誰が!」
「俺の帰り道に置いてある!」
ロロが巻取軸を逆へ回す。
カイルが盾索を荷車へ付け替える。
エリアが床の残る位置を示す。
ネイが記録封筒の上へ飛び乗り、落下を防ぐ。
「そっちの方が死ぬ!」ハル。
「名前のない紙に潰されるのは趣味じゃない!」
荷車が空へ出る。
ゼロスター号へ吊り上がる。
橋は、中央塔だけを残して落ちた。
最後の薬箱が甲板へ着くまで、橋は崩れ続けた。
荷車の女は、名を尋ねられる前に箱を数えた。
「解熱薬八。吸入薬三。縫合糸十二。未登録者の診療札二十七。足りないのは止血布一箱」
「名前より先に在庫?」カイル。
「名前で血は止まらない」
彼女はそう言い、ハルの左肩を見た。
「診る?」
「三。痺れなし。外れてない」
「診るかどうかを聞いた」
「あ」
「橋の上では人へ聞けたのに、自分の身体には聞けないんだね」
ウルが笑う。
「診てください」
ハルは言い直した。
女は肩へ触れる前に、触れる位置を三つ説明した。鎖骨。肩峰。背面。ハルが一つずつ頷いてから、短い検査をする。
「亜脱臼なし。筋を痛めた。今日は左へぶら下がらない」
「今日だけ?」エリア。
「少なくとも今日。明日は明日診る」
「好きな答え」とハル。
「好き嫌いで傷は縮まない」
女は自分の名を告げなかった。
未処理記録を運ぶ仕事では、名札が配給経路へ接続されるからだという。
アムナも聞かない。
「呼び方」
「薬車」
「薬車。薬車」
二度復唱し、役割だけを預かる。
ネイは橋から持ち帰った灰を、左右の靴底へ別々に塗った。
「何してる」ハル。
「帰り道の音を変える」
「元から違う」
「同じ音を長く使うと、追う側が覚える」
「施設も?」
「施設が聞いているなら」
「聞いてないかもしれない」
「だから変える。聞いていない相手に変化を見せても損は少ない」
セレナがその言葉を記録しようとする。
ネイが紙を指す。
「それを書くと、損が増える」
羽根が止まった。
「記録範囲を確認します。今の発言を残してよい?」
「仕組みだけ。どの靴へ何を塗ったかは書かない」
「承知」
記録する者も、毎回同じ権限を持たない。
ロロは橋床の欠片を三枚拾った。
割れ目がどれも同じ方向へ走っている。
「自然に落ちたなら、荷重の場所で割れ方が変わる。これは下の止め金が順番に抜けた」
「橋が死に方を演じた」とカイル。
「演技なら、観客がいる」とハル。
「観客とは限りません」とセレナ。「記録装置、監査装置、次の罠を作る入力装置」
「全部、嫌だな」
「感想として記録しますか」
「嫌さの内訳が長くなるからやめて」
その時、中央塔の残骸から低い音がした。
鐘ではない。
歯車が、救難の終了を数えるように七回だけ鳴った。
橋は人を落とせなかった。
だが、失敗した顔はしなかった。
機械に顔はない。
代わりに、次へ使う記録がある。
全員が船へ戻った時、ハルは甲板へ仰向けになった。
白い空。
色が戻らない。
息が戻る。
「左肩」セレナ。
「三。動く。痺れなし」
「先ほど四」
「索を替えたら三」
「記録」
「細かい」
「死因より細かくします」
ウルが船縁へ座り、吸入薬を一度使う。
「死亡記録ってのはね」
「話すなら足を固定してから」とエリア。
「公女は老人の話へ条件を付ける」
「公女ではなく航路士です」
「その訂正、後で使われるよ」
エリアの右眉が上がった。
ウルは笑い、咳を三回する。
「死人を数える紙は、死人が読むためじゃない。生きている人の次を決めるためにある」
「昨日も似たことを」とハル。
「私から聞いた?」
「地の文から」
「誰だい、それは」
「たまに上から全部知ってるふりする人」
「神様よりたちが悪い」
セレナが橋の残骸を単眼鏡で見る。
「床板の落下順、自然崩壊ではありません。中央塔内の止め金が外側から順に抜かれています」
「誰かが操作?」カイル。
「人の手とは断定しません。機械軸があります」
ロロが橋から回収した止め金を歯へ当てる。
「古い。千年級。油は新しい。自動注油だけ生きてる」
「千年、誰かを待ってた?」ハル。
「誰かじゃない」とアムナ。
彼女はハルの死亡記録を広げている。
橋上の行動欄。
文字が増えていた。
さっきまでなかった行。
救助対象を確認。
最短経路を回避。
同行者へ役割分配。
三拍跳躍を完了。
第二索へ交換。
救助対象の自力移動を確認。
そして、新しい死。
中央塔より共同索へ移行中、二次崩落。
同行者を先に送る。
本人は索切断により落下。
死亡確認。
「即時更新」とセレナ。
「俺、死に方が成長してる」
「感想が不適切です」
「一人で死ぬ記録から、みんなに頼んで最後に死ぬ記録へ」
「成長を殺し方へ取り込んだ」とエリア。
声が冷たい。
「私たちの選択を見ていた」
ノクスが記録を嗅ぐ。
無誓領域の紙には誓いの匂いがない。
しかし橋から回収した止め金へ近づくと、二本尾が一瞬だけ青白く灯った。
「魔法、戻った?」カイル。
ロロが止め金を船外へ出す。
光が消える。
船内へ戻す。
ノクスの尾が灯る。
「橋の機械だけ、星の残りを持ってる」
「罠を動かすために?」ハル。
「能力を使わせるためかも」とエリア。
白い橋の中央塔が、ゆっくり開いた。
壁ではない。
塔そのものが二つへ割れ、内部へ下る階段を出す。
階段の最初に、黒い板。
文字。
来訪者六名。
同行未登録三名。
行動記録更新済み。
次の標準環境を準備します。
その下へ、名前。
エリア・ルーンベルグ。
死亡場所。
婚姻塔。
「私の番ね」
エリアは地図針を外して差し直した。
その仕草まで、黒い板の下段へ記録された。
――対象、動揺時に地図針を再装着。
板が、彼女より先に彼女を説明した。
エリアは黒板の文字を消さなかった。
「訂正しない?」ハル。
「私が動揺したのは事実」
「針を差し直した理由は」
「落ちないように」
「事実が地味!」
「地味な理由を、性格の証拠へ膨らませたのは板」
彼女は住民三人へ向き直る。
「今の仕草を見た人。私が怖がったように見えた、落下防止に見えた、分からなかった。別々に答えて」
答えは割れた。
黒板は一つの行動へ一つの意味を付けた。
現場の人間は、同じ仕草を三つに読んだ。
「最初から誤差がある」とセレナ。
「なら、板より先に本人へ聞く」とハル。
「本人が自分の理由を誤る場合もあります」
「じゃあ、本人だけにも決めさせない」
エリアは地図針を今度は外さない。
「次の塔は私の記録。でも進路は、私だけで描かない」
黒板がその言葉まで書き始める。
彼女は、書かれることを止められない。
書かれた通りに一人で完了することだけを、拒めた。