第723話 第二章「婚姻塔で死ぬ公女」前編
塔は、遠くから見れば一本である。
近づけば、塔は階段と部屋と壁へ分かれる。
さらに近づけば、石を積んだ手、予算を削った役人、窓を欲しがった住民、窓から逃げられることを恐れた看守へ分かれる。
建物を一つと呼ぶのは、外から見る者の都合である。
婚姻も似ている。
式では一つの家になる。
記録では一つの契約になる。
しかし内側には、別々の朝食、別々の財布、別々の帰りたい場所、別々の「今日は触れないで」がある。
一つに見えるものほど、中へ入った時に分けなければならない。
【現実/白峡谷三塔橋・中央塔内部/覚醒/橋崩落から十九分】
「入らない選択は?」
セレナが聞いた。
入口の階段は下へ続く。
黒い板には、次の死亡場所。
婚姻塔。
「ある」とエリア。
「結果」
「施設がこちらの全事件台帳へ接続している可能性。放置すれば、別の場所へ同じ罠を作る」
「可能性です」
「断定していない」
「よろしい」
「採点しないで」
「職務です」
エリアは紙地図へ、入る線と入らない線を描いた。
入る。
施設の出力源へ近づける。
罠へ入る。
入らない。
ゼロスター号で白い塔へ戻る。
死亡記録の仕組みは残る。
次の標準環境がどこへ作られるか不明。
「第三案」とハル。
「入口だけ壊す?」ロロ。
「中の機械が止まる証拠がない」
「入口を俺が管理して、エリアたちだけ――」カイル。
「一人で外へ残る案は、あなたの死亡記録へ近い」とセレナ。
「まだ俺の場所を読んでないぞ」
「全負荷を一人で受ける、と読んだでしょう」
「耳が痛い」
「肋骨より先に治療してください」
ウルはゼロスター号の船縁へ腰掛けていた。
左足首へ添え木。
吸入薬。
笑い話を刻んだ杖。
「私は船に残るよ」
「足?」ハル。
「話」
「どっち」
「両方。誰かが戻った時、入口が閉じた話しか残らないのは困る」
「記録する?」アムナ。
「渡す。私は全部見ない」
「誰へ」
「戻ってきた者へ。戻らなかったら、戻らなかったことを村へ」
「死ぬ前提で話すな」とハル。
「死なない前提だけで橋へ入った結果が、さっきの橋だよ」
「縁起が悪い!」カイル。
「死亡記録を持って縁起を気にする王子は景気がいいねえ」
「王子へ景気をぶつけるな!」
ネイは、入口の黒い板を小刀で削っていた。
「何してる」セレナ。
「名前を変える」
板には、同行未登録三名。
ネイの欄だけ、呼称が三秒ごとに変わる。
灰底。
左靴。
橋上未登録。
名前なし。
ネイ。
そして空白。
「施設が迷ってる」とハル。
「僕は迷ってない」
「どれで呼べば」
「入口では『鍵穴』」
「人の名前に見えない!」
「扉に必要なのは誰」
「名が要るのは、誰、だろ」
「今日はそれで」
ネイは入口へ入らない。
「来ない?」アムナ。
「僕が入ると、施設へ新しい名前の扱い方を教える」
「外に残る」
「追われた時の出口を作る。ウルの足も見る」
「見るだけ?」
「触る前に聞く」
「成長」とロロ。
「あなたに採点されたくない」
「俺も今それ言われた!」エリア。
入口へ入るのは、ハル、エリア、カイル、ロロ、セレナ、アムナ、ノクス。
七。
ノクスは七個の留め金を一列へ並べ、一個だけ外へ置いた。
「六で行きたい?」ハル。
「ナァ」
「七つ並べたけど、一つは別?」アムナ。
「翻訳しないで」とセレナ。
「本人へ聞く」
アムナがノクスの前へ七枚の木片を置く。
一枚ずつ指す。
ハル。
エリア。
カイル。
ロロ。
セレナ。
アムナ。
ノクス。
ノクスは最後の自分の木片だけ、列の外へ押した。
「所有されない乗員」とカイル。
「一列に入れられたくない」とエリア。
「七個見ると一個外す癖」とハル。
ノクスが三人を順に噛んだ。
「全部違うらしい」とロロ。
「では、事実だけを。六枚は一列、一枚は外。本人の意味は不明」
「それで進む」とアムナ。
不明を連れて、六人と一頭は階段を下りた。
色が戻った。
十七段目で、ハルのマフラーが赤くなる。
十八段目で、エリアの髪が濃紺へ戻る。
十九段目で、カイルの半マントへ深紅。
二十段目で、ロロの作業上着が油染みの黄色。
美しい。
だから全員、止まった。
「戻った!」ハル。
「喜ぶ前に条件」とエリア。
地図槍グリムリリーの穂先へ淡緑の線が灯る。
路図〈ルート・レイ〉。
カイルの右籠手へ、赤い火の粉。
王盾炎〈レグルス・ガード〉。
ロロの工具へ、過去の作業手順の淡い残り光。
再機〈リメイク〉。
セレナの黒い羽根へ、見た光景を留める銀縁。
証羽〈テスタ・フェザー〉。
ノクスの二本尾が青白く光り、鼻が上がる。
ハルの零星針は、白い線を一本だけ出した。
階段の下。
「能力を返した」とハル。
「返したのではない」とアムナ。
彼女だけ、何も光らない。
「最初からあなたたちのもの?」
エリアが穂先を床へ近づける。
「残留誓力が、私たちの誓紋へ接続している。外へ出れば切れる」
「施設から借りてる」ロロ。
「利息は命!」カイル。
「景気が最悪!」
「使わせたい」とセレナ。
証羽を一枚出しかけ、止める。
「何を」ハル。
「使うこと自体が入力になります」
「使わない?」
「必要な時に使います。使った理由と範囲を記録する」
「記録される相手に、こっちも記録」
「対称ではありません。向こうの保管範囲が不明です」
「正確」
アムナが言った。
セレナはわずかに頷く。
階段の先へ、白い扉。
取っ手は二つ。
右には指輪。
左には地図針。
扉上の黒板へ、箇条書き。
対象、未知建築へ入る。
出口を確認。
全員の歩幅を測定。
最短安全路を一人で作成。
最後の住民を退出させる。
地図完成まで中央へ残留。
塔閉鎖。
対象死亡。
「性格評価がない」とセレナ。
「『責任感が強い』とか『高慢』とか、書いてない」とハル。
「行動だけ」とアムナ。
エリアは黒板を読む。
「正確に言えば、過去の私の行動手順」
「今の?」ハル。
「今も、同じ順番を選びやすい」
「変える?」
「変えるために、逆をする必要はない」
「どういう意味」
「地図を描かないのは、私ではない。地図を一人で完成させない」
右の指輪をハルが触ろうとする。
「待って」
「左?」
「誰が決める」
「書かれてるのはおまえ」
「だから私一人で決めない」
六人と一頭で二つの取っ手を見る。
アムナが聞く。
「右を選びたい人」
カイル、ハル。
「左」
ロロ、セレナ。
「分からない」
エリア、アムナ。
ノクスは両方を嗅ぎ、左へ一歩、右へ二歩、中央へ座った。
「多数決なら右」とカイル。
「二対二。分からない二」とセレナ。
「ノクスは中央」ハル。
「中央の取っ手がない」とロロ。
エリアが扉の蝶番を見る。
「取っ手は選択肢ではなく、役割を固定する装置かもしれない」
「証拠」
「右の指輪だけ摩耗が深い。左は地図針の形だが、針を差し込んだ傷がない。選ばせるふりで、右へ誘導」
「じゃあ取っ手を使わない」ハル。
「どう開ける」
「蝶番」ロロ。
「分解許可を」セレナ。
「施設所有者、不明」
「緊急救難の必要性あり。破壊範囲を最小に」
「その許可、請求先は?」
「後で」
「官庁の後では金が来ない!」
ロロが蝶番の下の点検穴を開く。
再機は使わない。
普通の左手、二本の補助腕、短い工具。
「工具名」とハル。
「今それ要る?」
「緊張してる時に言うだろ」
「これは『揚げパン』」
「細い」
「中に油が入ってる!」
扉が横へ外れた。
取っ手は選ばれなかった。
黒板へ一行。
対象、入口選択を共同化。
更新。
「見てる」とアムナ。
「見せた」とエリア。「次からは、見せる情報も選ぶ」
婚姻塔は、下へ入ったはずなのに上へ伸びていた。
白い円筒。
七層。
各層へ左右二本の回廊。
中央に一本の空洞。
壁には、歴代の婚姻契約ではなく、避難者名札が並ぶ。
九人。
白峡谷の住民。
橋が崩れる前、薬を受け取りに来た者たち。
「本物?」ハル。
「名前。もう一度」とアムナ。
一人ずつ、本人が選ぶ呼称を聞く。
公的名を戻した者。
窯番号だけの者。
呼称を保留する者。
返事がある。
影の動きが遅れない。
足音が床へ響く。
「現時点で実在」とセレナ。「ただし、施設が連れてきた方法は不明」
「扉が閉じた」と住民の一人が言う。「中央へ行けば開くと表示」
「誰が中央へ」エリア。
「地図を持つ人」
全員がエリアを見る。
塔は、彼女へ地図槍を返した。
住民は、地図を必要としている。
罠は悪意だけでできていない。
必要と信頼を材料にする。
「私が描く」
エリアが言う。
ハルの顔が動く。
「ただし、三枚」
「三枚?」
「最短。身体負担が少ない。荷物を残さない。目的が違えば道も違う」
穂先を床へ当てる。
淡緑の線が三本、塔を上る。
第一路。
中央階段。距離最短。急勾配。左足首が悪い者には不適。
第二路。
外周回廊。距離は二倍。段差なし。途中で扉を二人同時に押さえる必要。
第三路。
整備梯子。荷物を滑車で運べる。狭く、呼吸器の弱い者には不適。
「どれが正解」と住民。
「目的を言って」
「全員出る」
「同時に?」
「薬箱も」
「誰が誰を介助する」
「一緒に」
「一緒、は動作ではない」
声が冷たくなる。
顎が少し上がる。
ハルが割り込まない。
エリアは自分で息を一度整えた。
「言い直す。歩ける人。階段が難しい人。狭所が難しい人。荷物を持つ人。今は決められない人」
住民が手を挙げる。
最短路へ三人。
外周へ四人。
整備梯子へ二人と薬箱。
一人は、決められない。
「保留」とアムナ。
「保留したら塔が閉じる」と黒板。
中央壁へ新しい文。
避難効率低下。
選択遅延。
対象エリア・ルーンベルグ、最適路へ統合を推奨。
「推奨だって」とハル。
「命令を丁寧に言っただけ」
エリアは決められない一人へ聞く。
「何が怖い」
「どの道も、途中で一人になる」
「一人にならない条件を追加する」
「遅れる」黒板。
エリアが槍を向ける。
「あなたへ聞いていない」
黒板が一瞬消えた。
塔そのものへ言い返す公女は、歴史上、たいてい婚姻に向いていないと評された。
だが歴史は、婚姻に向いた者が幸福だったかを同じ熱心さでは記録しない。
エリアは三本の路図へ、交差点を二つ足す。
「外周班と最短班が二層で会う。整備班が三層で合流。誰も一人にならない」
「最適ではない」と黒板。
「誰にとって」ハル。
黒板は答えない。