第724話 第二章「婚姻塔で死ぬ公女」後編
最初に動いたのは、最短班ではなかった。
外周班の年配の男が、自分の靴底を見せた。
「滑り止めがない。中央階段は乾いて見えるが、白粉が浮いてる」
エリアはしゃがみ、指で床をこする。
粉が付く。
石粉ではない。
乾いた鏡砂に似た細粒。
「踏むと」ハル。
ノクスが前脚を一度置き、すぐ引いた。
足跡だけが半歩先へ滑る。
「見た目より滑る」とエリア。
「最短路、訂正?」
「路の長さは最短。安全度は下がる」
「最短安全路じゃなかった」黒板。
黒板は彼女の言葉を待っていたように、一行を出す。
対象、現地摩擦を確認。
最適路を再計算。
「私が確かめる前の計算を、私の最適路として記録している」
「間違いを先におまえへ着せる?」カイル。
「正解を出し続ける人間だと分類すれば、最初の誤りも本人が直しに戻る」セレナ。
「罠の方が性格悪い」とハル。
「性格はありません。設計思想が悪い」
「それ、もっと悪い言い方だな」
外周班は、二人同時に押す扉へ着く。
左右の押し板は同じ高さではない。
片方だけ、成人の肩より一尺高い。
「同じ条件じゃない」と住民。
「設計上は同じ力」とエリア。
「背が違う」
短い一言。
ティアと学院の落第門を調べた時と同じである。
規則は左右同じ重さを要求する。
しかし持つ身体が違えば、同じ重さは同じ条件ではない。
エリアは高い板へ自分が入ろうとする。
住民の少女が袖を引いた。
「公女が高い方?」
「背がある」
「肺が悪いって、さっき聞こえた」
エリアの顎が上がる。
「三十秒なら」
「三十秒で済むか、誰が決めた」
ハルの言葉を、少女が先に使う。
ハルが胸を張る。
「著作料」
「公共質問に所有権を付けないで」とエリア。
高い板へカイル。
低い板へ少女。
エリアは二人の力が同時になるよう、床へ拍線を描く。
「一、二、三」
扉が開く。
「私の役割、線だけ」とエリア。
「線も必要」と少女。
慰めではない。
必要な役割を小さく言う。
整備班では、薬箱が梯子の途中で引っ掛かった。
ロロが下から工具を上げる。
「箱を傾けろ! 右へ十二度!」
「薬液が寄る!」薬車。
「じゃあ箱じゃなく梯子を傾ける!」
「建物を動かすの?」ハル。
「一段だけ外す!」
「許可!」セレナ。
「緊急!」
「範囲!」
「螺子二本!」
「復旧!」
「後で!」
「期限!」
「死ななかったら!」
「不明確!」
「会話が長い!」
ロロは二本だけ外し、梯子を半寸ずらす。
薬箱が通る。
外した螺子を、アムナが右手の二本目の指へ対応させて覚える。
「戻す場所、上から三、左」
「覚えた?」
「今は」
「永遠に頼らない」とロロ。
「よい」
誰かの記憶を便利な倉庫にしない。
最短班は、一層目で止まった。
中央階段の途中へ、小さな椅子が一脚置かれている。
座面に、婚姻契約の文。
最初に座った者が、最後まで塔へ残る。
「誰も座らない」とカイル。
黒板が出る。
着席者不在の場合、地図作成者を残留者へ指定。
「座っても座らなくてもエリア」とハル。
「選択肢の形をした指名」とセレナ。
エリアは椅子を壊さない。
座面の文を紙へ写し、椅子ごと三人で運ぶ。
「持って出るの?」
「残留条件を塔の外へ移す」
「法的に効く?」カイル。
「分からない」
「公女が分からないって言った!」ハル。
「未知の施設で断定する方が異常よ」
「記念日!」
「次に言ったら地図へ埋める」
椅子は外周班との交差点へ置かれた。
誰も一人で座らず、荷物の一つとして運ばれる。
塔がそれをどう解釈するかは、まだ分からない。
分からないものを持ったまま進むことが、この一行にとって最初の共同作業だった。
塔が回転した。
七層の床が別々の速度で回る。
中央空洞から白い板が上がり、三本の路図を一つへ押し込もうとする。
「強制統合!」ロロ。
「線を切る!」エリア。
路図を自分で消す。
三本のうち、中央だけを残すのではない。
全てを薄くし、各班へ紙地図を渡す。
「魔法を切ったら道が見えない!」住民。
「あなたたちが持つ」
「公女が先導を」
「私は一班だけ。三班全部の先頭には立てない」
「誰が決める」
「各班」
エリアは自分の地図筆を三本へ折った。
「壊した!」ロロ。
「予備がある」
「高級品!」
「家の費用」
「公費じゃないなら許す!」
三本の短い筆。
三班へ一本ずつ。
「地図へ線を足してよい。間違えたら消して。私の線も」
「公女の線を?」
「航路士の線を」
住民の一人が、最短路の階段へ横線を引く。
「ここ、昨日から湿ってる」
別の者が外周路へ注記。
「この扉は右から押すと戻る」
整備班の若者が梯子へ小さな丸。
「途中に水」
地図が、エリアのものではなくなる。
塔の回転が一度止まった。
黒板へ更新。
対象、地図権限を分散。
住民入力を採用。
次回、住民行動を予測対象へ追加。
「次回まで学ぶ」とセレナ。
「今の一回だけでは外れない」アムナ。
「外し続ける必要」とエリア。
「完成しない」
「完成させない」
最短班が出る。
外周班が出る。
整備班が薬箱を上げる。
最後に、保留していた一人がエリアを見る。
「あなたは」
「外周へ」
「中央へ残らない?」
死亡記録。
最後の住民を退出させる。
地図完成まで中央へ残留。
塔閉鎖。
「残らない」
「地図が完成していない」
「だから持って出る」
エリアは未完成の紙をハルへ渡した。
「私より先に」
「俺が持つ?」
「持って。完成させないで」
「難しい注文」
「あなたは地図を読めない」
「信用の理由が失礼!」
「最適な人選」
「最適を捨てた巻じゃないのか!」
「この一点だけ」
ハルは紙を折らない。
鞄の外側へ差す。
エリアが保留していた住民と並んで走る。
中央空洞が閉じる。
床が縦になる。
槍を使えば、一人で跳べる。
エリアは槍を住民へ渡す。
「横へ倒して。足場に」
「あなたは」
「私も使う」
二人で一本。
ハルが外周から索を投げる。
「エリア!」
「位置を」
「上から三、右へ二!」
「正確でない!」
「俺基準!」
「さらに悪い!」
「赤いマフラーの下!」
「色は戻ってる!」
「今は役立つ!」
エリアが索を取る。
左肺に負担。
「肺」セレナ。
「三」
「踵」
「二」
「継続」
一人で最後まで残らない。
しかし最初に逃げもしない。
住民と同じ索へ手を掛け、同じ速度で塔を出る。
婚姻塔の最上層が閉じた。
エリアの身体は外側にある。
黒板の死亡欄が、空白へ変わる。
「外れた」とハル。
次の瞬間、文字が再び増えた。
対象、複数路を提示。
住民へ地図入力権を分散。
同行者へ未完成図を預託。
退出順を共同化。
新しい死。
住民入力の一つに偽経路。
対象、訂正のため単独帰還。
塔中央に残留。
閉鎖。
死亡確認。
「仲間の選択まで学習した」とセレナ。
「住民を疑わせる書き方」とカイル。
「誰かが偽線を引く、と読めば、エリアは戻る」ハル。
「戻る?」アムナ。
エリアは未完成地図を見た。
住民が足した線。
誰の線が正しいか、まだ検証していない。
「今の私なら」
一拍。
「一人では戻らない」
「でも戻る」ハル。
「必要なら、本人と一緒に。戻らない選択も含めて」
塔の底から、低い機械音が響く。
婚姻塔が折り畳まれ、白い回廊へ変わった。
橋。
塔。
建物が、死亡記録へ合わせて姿を変えている。
次の黒板。
ロロ・ピクス。
機関室。
最後まで修理。
「今度は俺か」
ロロの二本の補助腕が、本人より先に全部上を向いた。
「怖い?」ハル。
「修理費が」
「本当に怖い時、請求の話する」
「うるせえ!」
「名前を呼んで頼めよ」
「まだ頼まねえ!」
機関室へ入る前、ロロは扉へ耳を当てた。
同じ異音。
同じ周期。
同じ、壊れる一音前。
彼の補助腕が無意識に工具箱へ伸びる。
「本物の船は」とハル。
ロロは腰の細索を二度引いた。
ゼロスター号へ残ったネイが、三度返す。
主軸正常。
入口維持。
ウルの呼吸、安定。
「本物は壊れてない」
「じゃあ偽物」とカイル。
「音が偽物でも、壊れる物は本物かもしれない」
「直す?」アムナ。
「見る」
「一人で?」
「……見る人数を決める」
言い直すまでに、一拍かかった。
エリアは婚姻塔で住民が足した線を、原図から切り離した。
「消すの?」ハル。
「返す」
線を描いた住民へ渡す。
「これは、あなたが歩けると言った道。次に使うか、公開するか、捨てるかはあなたが決めて」
「公女様の地図じゃないの」
「私の紙へ、あなたが描いた線」
「じゃあ半分ずつ?」
「所有は分割できても、責任を曖昧にしない。私は紙の管理。あなたは線の公開」
「難しいね」
「簡単に一つへすると、誰かが消える」
住民は線を畳み、懐へ入れた。
黒板は、エリアが地図を返したことを記録する。
だが、返された者が少し誇らしげに紙を撫でたことは、記録しなかった。
その記録されない一拍を残し、彼らは機関室へ進んだ。
機関室の扉が開いた。
中から聞こえたのは、ゼロスター号の主軸と同じ音だった。
ロロだけが、壊れる直前の一音を聞き分けた。