第725話 第三章「機関室で死ぬ修理工」前編
機械は、人間より正直だと言う者がいる。
それは半分だけ正しい。
機械は、与えられた条件に正直である。
圧力が上がれば弁を開き、温度が下がれば炉を閉じる。歯が欠ければ音を変え、油が切れれば熱を持つ。
だが、誰が条件を与えたかは語らない。
安全弁を一つ減らした役人。
安い金属へ替えた会計。
停止すると怒られると学んだ運転士。
最後まで直すと褒められた修理工。
機械は正直に動く。
だから、設計した人間の嘘まで正直に実行する。
【現実/死亡記録施設・第三標準環境/覚醒/婚姻塔退出から六分】
扉の向こうは、ゼロスター号の機関室だった。
寸法まで同じ。
主軸の高さ。
炉扉のへこみ。
ロロが右眼の弱さを補うため、圧力計を二度傾けて付けた角度。
ハルが初めて船へ乗った日に蹴り、直さず残っている床の傷。
ノクスが干し魚を隠して腐らせた、通風管の黒い染み。
「船ごと持ってきた?」ハル。
「違う」
ロロの声は低かった。
「匂いがない」
「油の?」
「俺の」
機械工の工房には、設計図へ書かれない匂いがある。
手の脂。
使う洗剤。
焦がした食事。
濡れた上着。
眠れない夜に何度も触った把手。
目の前の部屋には、形だけがある。
生活がない。
ロロは、模型の中を一周した。
急いでいるのに、走らない。
機械工が知らない設備へ入った時の歩き方である。
まず出口。
次に停止弁。
火元。
圧力逃がし。
人が倒れた時に引きずれる幅。
ゼロスター号の本物には、床板の一枚へ小さな三角が刻んである。
十二歳のロロが初めて主軸を外した時、戻す向きを間違えないため付けた印だ。
模型にもある。
「これ、修理記録に書いてない」
「誰かが船内を見た?」カイル。
「見ただけじゃ分からねえ。床板を外さないと見えない」
ロロは三角へ触れない。
右手は痺れている。
左手なら触れられる。
それでも触れない。
「気持ち悪い?」ハル。
「腹立つ」
「どっちが強い」
「同じ」
寝台下の小箱。
ロロが喘息の吸入薬を予備で隠す場所まで再現されている。
箱を開ける。
中は空。
「薬はない」とセレナ。
「場所だけ取った」
「医療記録から?」
「俺、船の図面に書いてない」
「全事件台帳が、個人の生活記録まで含む可能性」
セレナは書きかけ、ロロへ聞く。
「隠し場所を証拠へ残してよい?」
「今は、場所じゃなく再現精度だけ」
「承知」
ロロは炉扉を開く。
中に煤がない。
「燃やした記録はある。燃えた生活はない」
通風管には、ノクスが魚を隠した染み。
しかし匂いはない。
「記録は結果だけ持ってる」とアムナ。
「原因を持ってない」
「魚を入れたノクスの選択は?」ハル。
「いたずらとして記録したかもしれません」とセレナ。
「腹が減ってた」とロロ。
ノクスが一度だけ鳴く。
「本人の理由を、記録が別の意味へした」とアムナ。
ロロは吸入薬の空箱を閉じた。
「この部屋、俺の機関室じゃない。俺を機関室へ戻すために、俺の生活を壁紙にした部屋だ」
黒板へ、新しい一行。
対象、再現環境の差異を確認。
生活痕の欠落へ不快反応。
「不快、でまとめるな!」
怒鳴った声まで、記録された。
「記録から作った模型」とセレナ。
「俺の修理記録」
黒板へ箇条書き。
対象、機関異音を確認。
作業者を退出させる。
主軸停止を拒否。
一次弁を手動保持。
再機を連続使用。
右手痺れ悪化。
補助腕一基停止。
同行者へ退避命令。
修理完了まで残留。
炉破裂。
死亡確認。
「修理完了まで、じゃない」とロロ。
「何が」とアムナ。
「最後まで直す、って書かれてたのに、修理完了はしてない。俺が死んで終わり」
「記録の目的が修理ではない」とセレナ。
「俺を残すこと」
ロロの二本の補助腕が垂れた。
機関室の奥で、主軸が一度鳴る。
カン。
カン。
――コ。
三種類目の音が短い。
「歯一枚欠け!」
ロロが走る。
「待て!」ハル。
「本物なら止まる! 模型でも壊れ方は本物!」
「それが記録どおり!」
「知ってる!」
主軸へ左手。
補助腕一本が炉圧計。
もう一本が冷却管。
右手は痺れで遅れるため、工具箱の蓋だけ押さえる。
「主軸歯、四番! 冷却戻り二割! 一次弁、固着!」
「停止」とエリア。
「止めたら模擬船体の浮力が落ちる!」
「船体?」
機関室の壁が透明になった。
外側に、婚姻塔から救出した九人が見える。
白い足場へ乗せられ、機関室の周囲を回っている。
「住民を荷重に使ってる」とカイル。
「主軸停止で外輪が落ちる!」ロロ。
「だからあなたは止めない」とセレナ。
「止められない!」
修理工の倫理は、機械を直すことではない。
機械に預けられた人間の時間を、途中で落とさないことである。
その倫理を知っている罠は、悪意より厄介だった。
外輪の九人は、同じ姿勢で立っていなかった。
一人は膝をつき、一人は手すりへ両腕を回し、一人は薬箱を胸へ抱えている。婚姻塔を出たばかりで、息の整っていない者もいる。
足場の下には、九本の支持索。
主軸が回ると索が張り、止まると一斉に緩む。
「一人ずつ外せない?」ハル。
「支持索が輪で一体」とロロ。「一人分だけ軽くすると、反対側が沈む」
「全員同時に移す」とエリア。
「出口は一つ。幅、一人」
「時間」セレナ。
「主軸欠けが広がるまで七十秒。炉圧は九十。出口へ九人、最短でも五十四秒。つまずいたら終わり」
「つまずく前提を入れた?」カイル。
「入れなきゃ人間を荷物で計算することになる」
外輪の住民へ声を届ける管がある。
カイルが口を近づけた。
「こちらで救助する。順番に――」
「待って」とエリア。
「何だ」
「順番を誰が決める」
「足場の出口に近い者から」
「薬箱を抱えた人が最後になる」
「箱を捨てれば」
薬車が透明壁の向こうから、首を横へ振った。
「捨てない」
声は聞こえない。
口の形だけ。
「薬も救助対象」とハル。
「人命より優先はしない」とカイル。
「でも捨てたら、外で別の人が死ぬ」
「だから俺が受ける――」
黒板が、カイルの名前を一瞬出した。
全負荷を引受け。
「俺まで学習対象!」
「今はロロの部屋でも、全員を見てる」とセレナ。
ロロが通信管を取る。
「外輪! 聞こえるか! 自分の足で出口へ行ける奴、手を上げろ!」
五人。
「介助があれば行ける!」
三人。
一人は手を上げない。
婚姻塔で保留を選んだ者だった。
「何が必要!」
壁の向こうで、指が耳を示す。
「聞こえない?」アムナ。
ロロが管の圧を上げる。
返事。
「大きい声が怖い。合図なら動ける」
ロロは怒鳴るのを止めた。
工具箱から三色の布。
この部屋では色が戻っている。
赤、停止。
黄、準備。
白、移動。
「俺が機械。ハルが布。エリアが路。カイルは出口で一人ずつ受ける。全員を一度に背負うな」
「命令が多い」とアムナ。
「俺の機関室だから――」
言いかける。
また、同じ言葉。
「違う。今は最初の案。異議を言え」
薬車が透明壁へ、箱を先に、と書く。
膝をついた男は、自分を最後に、と書く。
保留の人は、白布を二回振ってから動く、と条件を出す。
「全部採用すると時間超過」とエリア。
「どれを切る」とカイル。
「切らない。主軸の自動保持を探す」ロロ。
「ある証拠」
「人を残す設計ほど、人が倒れた時の補助を隠して持ってる。完全に人力だけなら、過去に何度も止まってる」
床下へ耳を当てる。
主軸音の間に、別の小さな爪音。
カチ。
カチ。
「補助歯。交代の一秒だけ噛む」
「一秒で何ができる」とハル。
「人を機械から離せる」
その一秒が、後に迷宮全体を壊す手順になるとは、まだ誰も知らない。
今はただ、九人を荷物として落とさないための短い空白だった。
「外輪へ移れる?」エリア。
「扉が閉鎖!」
「破壊」
「炉圧上がる! あと九十秒!」
「役割を」とハル。
「俺が――」
言いかける。
黒板が更新。
対象、単独修理を選択。
「まだ選んでねえ!」
「言いかけた」とアムナ。
「施設が先に書いた!」
「あなたも先に言う」
「うるせえ!」
ロロは工具箱を蹴った。
中から銀色の締付け器が転がる。
柄へ、雑な豆の絵。
「それ」とハル。
「バズから借りた」
「名前は」
「豆パン」
「他人の工具にも食べ物名!」
「本人が甘い豆パン好きだから!」
配管士バズ・ノットの工具。
工具へ直前の作業手順を残す残響〈リプレイ・ツール〉。
無誓領域ではただの締付け器だった。
この部屋では、柄へ淡い黄白色の線が戻っている。
「残ってる手順は」セレナ。
「最後にバズが入れた三秒。把手を右へ四分の一、戻し八分の一、押し込んで保持」
「今の弁へ適合する?」
「寸法は同じ」
「条件は」
「圧力が違う」
「使えば」
「三秒だけ一次弁を動かせる。直前手順の再演だから、俺が握らなくても」
言葉が止まる。
「他者へ渡せる」とエリア。
「俺の機関室だ」
「模型」とセレナ。
「形は同じ!」
「だから何」アムナ。
短い問い。
「俺が一番分かる」
「分かる人が、全部する?」
「失敗したら」
「一人で失敗する」
「他人にやらせて失敗したら、俺の説明が悪い!」
「説明を直せる」ハル。
「死んだら直せねえ!」
「おまえが死んでも直せない!」
ロロの補助腕が全部上を向いた。
驚き。
怒り。
恐怖。
顔より正直な機械。
「名前を呼んで頼め」とハル。
「うるせえ」
「本当に助けてほしい時、工具名じゃなく本名を呼ぶ」
「台帳を読むな!」
「何の話だよ!」
主軸が鳴る。
カン。
カン。
コ。
短い。
「七十秒!」
ロロは銀色の締付け器を取る。
ハルへ投げる。
「凪野ハル!」
フルネームだった。
機関室の音が、一瞬だけ小さくなる。
「一次弁。黄色い輪。右へ四分の一、戻し八分の一、押し込む。残響がやる。お前は離すな」
「了解!」
「了解だけじゃ足りねえ。停止条件!」
「音が二回ずれたら離す。肩四で交代」
「肩は三で申告!」セレナ。
「三!」
「採用」
「エリア・ルーンベルグ!」
ロロが次に呼ぶ。
「主軸歯の位置を九十度ごとに線。完成させるな。欠けを見つけたらその場で言え」
「承知。未完成で渡す」
「カイル・アークレイ!」
「王子度込みか!」
「外輪の住民へ盾板を渡せ! お前が全部受けるな! 四方向へ四枚!」
「で、誰を守ればいい?」
「全員。ただし一人で守るな!」
「承知!」
「セレナ・クロウ!」
「はい」
「炉圧、俺の申告を信用するな! 計器と音と、外輪速度を別に記録!」
「事実を三系統で」
「アムナ!」
「もう一度」
「アムナ!」
「聞いた」
「作業者を数えろ。俺が一人になったら叫べ」
「何て」
「一人」
「それだけ?」
「それが一番嫌だ!」
「分かった」
「ノクス!」
「ナァ!」
「通風管の奥、焦げる匂い! 誓いじゃなく油を嗅げ!」
「ノゥ!」
役割を渡す。
機械を捨てない。
修理も捨てない。
ただし、自分一人の仕事であることを捨てる。
それは修理工にとって、機械を放棄するより難しい。