第727話 第四章「記録どおりの迷宮」前編
迷宮には、二種類ある。
入った者を迷わせる迷宮。
そして、入った者が迷う方法を先に知っている迷宮。
前者は壁を動かす。
後者は人を動かす。
右へ行く者には、右へ行く理由を置く。
戻る者には、戻らなければならない声を聞かせる。
最短路を選ぶ者には近道を、用心深い者には安全に見える遠回りを与える。
人間は、選ばされた道ほど、自分で選んだと思いやすい。
歴史上、もっとも成功した迷宮は、出口のない建物ではない。
出口を自分から避けさせた制度である。
【現実/死亡記録施設・八室迷宮/覚醒/機関室爆発から四十三秒】
落下は、八秒。
一秒目、白い床が消えた。
二秒目、ハルが左肩をかばいながら腰索を探した。
三秒目、カイルが全員を受けようと両腕を開いた。
四秒目、エリアが下方へ路図を伸ばした。
五秒目、ロロが壁の継ぎ目を数えた。
六秒目、セレナが落下順を記録した。
七秒目、ノクスが一人分だけ列から外れた。
八秒目、アムナが言った。
「誰も、一人で受けない」
カイルの腕が止まる。
代わりに、腰索が四方へ飛んだ。
「左壁!」エリア。
「右に三つ、取っ手!」ロロ。
「上から、ハル、セレナ、アムナ、ノクス、エリア、ロロ、カイル!」セレナ。
「最後、俺じゃないか!」
「順序は事実です!」
「事実が重い!」
ハルの索が左壁の把手へ噛む。
エリアの地図槍が右壁の溝へ刺さる。
ロロの補助腕二本が、セレナとアムナの腰帯を拾う。
カイルは全員を受けず、一番下で壁を蹴て落下方向だけ変えた。
六人と一頭が、斜めの床へ転がる。
床は柔らかくない。
ただ、死ぬほど硬くもない。
「人数」とアムナ。
「一、二、三、四、五、六、七」
自分を最後に数える。
ノクスが二尾を上げる。
「一頭」
「ナ」
「肩」とセレナ。
「三」ハル。
「左肺」とエリア。
「一」
「右手」ロロ。
「二。痺れ、増えてない」
「肋骨」とカイル。
「王子の肋骨は国有財産だから申告を――」
「冗談で逃げましたね。数値を」
「二!」
「私、左眼一。右手首二」
「アムナ」ハル。
「痛い。場所、膝。二」
彼女は痛みを隠さない。
隠すことを強さと教えられていない者の申告は、しばしば短い。
遅れて、広間の外周へ九つの鈍い音が続いた。
婚姻塔から来た住民たちである。
彼らは中央円へ落ちなかった。
透明な壁の向こう、幅の狭い回廊へ一人ずつ押し分けられている。
「九!」アムナ。
人数を数え直す。
「怪我!」ハルが壁へ寄る。
薬車が向こうから指を三本立て、次に一へ変えた。
「三が一?」
「重傷なし。軽傷三?」セレナ。
薬車が頷く。
保留を選んだ住民は、耳をふさいでいる。
落下音が大きすぎたらしい。
別の住民が、触れる前に手を見せ、許可を待ってから肩へ布を掛ける。
「声、届かない」とカイル。
「壁の下へ伝音溝」とロロ。
床際の細い穴へ口を近づける。
「聞こえるか!」
向こうから、くぐもった声。
「大声はやめて!」
「聞こえてる!」
「聞こえすぎる人がいる!」
ロロは声量を半分にする。
「怪我、三。歩ける。壁は開かない。こっちは八室の外周」
「そっちも?」
「円の内側」
「道は」
「まだ」
エリアが透明壁の曲率を測る。
「外周回廊は、中央と同じ速度で回っていない。私たちが扉へ近づくたび、住民側の出口も移動する」
「人質」とカイル。
「人質なら要求がある」とセレナ。「現時点では、行動条件」
「言葉を正確にしたら安心できる?」
「安心のためではありません。何を壊してよいかを誤らないためです」
ハルは透明壁へ手を置く。
「俺たちが道を選ぶと、そっちも動く。勝手に先へ行かない。そっちで見えたことを言って」
「指揮?」住民。
「お願い」
「期限」
「壁が開くまで。嫌になったらやめて」
「分かった」
九人は、救助される荷物ではなく、迷宮のもう一つの側を観測する者になった。
施設は七者の死亡記録を作ろうとしている。
だが壁の向こうの九人にも、床の傾き、扉の裏、機械の音が見える。
予測が対象を狭く選ぶほど、対象外の目は増える。
床の傾きが戻った。
円形の広間。
八方向へ、同じ白い扉。
扉の上に番号はない。
代わりに、細い黒文字。
橋梁。
婚姻。
機関。
盾庭。
証拠庫。
夜獣檻。
記憶井。
そして、何も書かれていない一枚。
「八室」とエリア。
「さっきの三つがまたある」とハル。
「避ける場所を並べた」とセレナ。
「正解を選ぶ試験?」カイル。
「死亡場所を避けますか、って聞いた後に落とした」ロロ。「避けたら、どこへ行くと思う」
「書かれていない扉」とハル。
全員の視線が、空白へ集まる。
空白は安全に見える。
誰の死も書かれていないから。
「触らない」とアムナ。
「理由」とセレナ。
「空白を、安全と読ませる」
「あなたの記録が空白だから?」
「まだ、知らない」
アムナは扉へ近づかない。
代わりに、床へ膝をつく。
八方向の摩耗。
足跡は古い。
何百人、何千人が通ったのか、白い床が灰へ曇っている。
「全部使われてる」
「空白も?」エリア。
「薄い。でも、ある」
アムナは炭の指で、床の擦れをなぞった。
指が黒いから汚れを付けたのではない。
黒い指が、白い床に残った古い灰を見分ける。
「大人の歩幅、七。空白だけ、小さい」
「子供?」ハル。
「断定しない」セレナ。
「短い歩幅」アムナ。
セレナが頷く。
言葉を狭くすることは、世界を貧しくする行為ではない。
見ていない世界を勝手に所有しない行為である。
扉には取っ手がない。
最初に名札へ異議を出したのは、壁の向こうの住民だった。
窯番号で呼ばれていた男が、透明壁の前へ立つ。
彼の側にも小さな扉が現れ、黒札が浮いた。
公的名。
窯番号。
配給番号。
居住区。
四つの欄。
「どれも、今は使いたくない」
男が言う。
黒札が点滅する。
呼称未選択。
標準環境、割当て不能。
扉は開かない。
代わりに床が傾き、男を空白扉の方角へ滑らせようとする。
「選べない者を保守対象へ落とす」とアムナ。
「登録できない人を、部屋の外へ」とセレナ。
ハルが透明壁を叩く。
「止まれ!」
「命令するな!」男。
「じゃあ、滑るの嫌?」
「嫌だ!」
「何て呼べばいい!」
「今は『熱い窯』!」
「長い!」
「短くする権利はお前にない!」
「熱い窯、右の継ぎ目を蹴って!」
男が蹴る。
床の傾斜板が一枚外れ、滑りが止まる。
黒札は新しい呼称を取り込む。
熱い窯。
職能履歴を検索。
高温設備事故。
火傷環境を準備。
「もう罠を作る!」カイル。
「名前を変えただけでは、履歴を切れない」とエリア。
「公的名から職歴へ接続してる」とセレナ。
記録されたことで生じる支配〈ネーム・ケージ〉。
名前そのものが牢ではない。
名札へ過去、過去へ能力、能力へ標準行動、標準行動へ罠を結ぶ鎖である。
「呼ばなければ」とハル。
「救助で本人を見失う」とアムナ。
「呼べば罠が選ぶ」
「だから、呼ぶ範囲を決める」
アムナは男へ聞く。
「熱い窯。熱い窯。今、この迷宮で、職歴を使ってよい?」
「使うな。右脚が悪いことだけ」
「右脚。悪い。場所は壁外周。本人、呼称は熱い窯。職歴、非公開」
彼女は記憶を、右手の親指へ置く。
次の住民。
薬車。
医療在庫は公開、居住地は非公開。
次。
保留。
呼称も保留。耳への配慮だけ公開。
アムナの手の中へ、人が一人ずつ配置される。
「全部、覚えられる?」ハル。
「今は」
「混ざったら」
「言う」
「忘れたら」
「聞く」
「記録守なのに?」
「記録守だから」
完全に覚えると約束した者ほど、忘れた時に隠す。
忘れる可能性を先に言う者は、もう一度聞ける。
アムナは九人の呼称と公開範囲を、左右の指、手首、肘へ置いた。
十人目を入れれば混ざる。
だから、同行する者たちの名は頭の中の別の地形へ残す。
「私を便利な名簿にしないで」
「してた?」ハル。
「少し」
「ごめん」
「次、聞いて」
「今、何人まで頼める?」
「九。仲間は別。新しい名は一つまで」
「分かった」
その会話まで黒板は記録する。
対象アムナ、記憶容量を自己申告。
同行者、利用範囲を質問。
施設は学ぶ。
だが、公開してよい中身までは与えられていない。
近づいた者の前だけ、黒い名札が浮く。
ハルが橋梁扉へ一歩。
凪野ハル。
救難行動履歴、百二十七件。
最短路選択率、六十八。
単独先行率、七十四。
自己申告遅延、平均四・三拍。
「細かい!」
「百二十七件も救難したの?」カイル。
「配達の途中で犬を柵から出したのも入ってるかも」
「犬を救難件数へ足すな!」
「犬に聞け!」
黒札の下へ、扉が選ぶ。
橋梁環境、適合。
橋梁扉が開く。
中に、崩れる橋。
さっきとは別の橋である。
木製。
雨。
幼い泣き声。
赤い布が向こう側へ引っ掛かっている。
ハルの赤いマフラーに似ていた。
「入るな」とセレナ。
「分かってる」
幼い声。
「たすけて」
ハルの右足が動く。
アムナが靴先へ自分の靴を置いた。
「音だけ」
「人かも」
「人なら、人数を聞く」
ハルは扉へ叫ぶ。
「何人いる!」
返事がない。
泣き声だけ繰り返す。
同じ息継ぎ。
同じ震え。
同じ二拍目の鼻音。
「保存音声」とセレナ。
扉が閉じた。
黒札が更新。
対象、救難音声へ反応。
同行者の制止で停止。
人数確認を実施。
「また覚えた」とエリア。
「使うほど、私たちの今が材料になる」とカイル。
「使わなくても、近づいただけで取る」とロロ。
エリアが婚姻扉から二歩離れて通る。
名札が浮く。
エリア・ルーンベルグ。
経路作成履歴、二百九件。
最適化後の自己残留率――
「読まない」
彼女は目を逸らした。
婚姻扉が開かない。
代わりに、向かいの記憶井が鳴る。
底から、母の声。
「エリア。地図は完成してから渡しなさい」
エリアの三つ編みが揺れる。
「本人?」ハル。
「違う」
「即答」
「母は命令の前に必ず私の肩へ触れる。声だけで始めない」
「記録は声を持ってる。でも、触り方を持ってない」とアムナ。
記憶井の名札。
未完成図の預託を学習。
対象へ完成要求を提示。
「扉じゃなくて、迷宮全体が選ぶ」とセレナ。
「名前と過去履歴で、最適な罠室を」とエリア。
「だから、避けるほど別の部屋が来る」ロロ。
彼らは橋梁を避けた。
婚姻を避けた。
機関を避けた。
そのたび、盾庭、証拠庫、夜獣檻、記憶井が近づく。
円形広間だったはずの床が伸び、扉の位置が入れ替わり、彼らが遠ざかった方角へ壁が回る。
「迷宮を歩いてるんじゃない」とハル。
「迷宮が、私たちの回避へ歩いてくる」とエリア。