第728話 第四章「記録どおりの迷宮」後編

 カイルが盾庭の前を通る。

 扉の向こうで、百人の影が膝をつく。

「王太子殿下!」

 火が降る。

 カイルの右籠手に王盾炎が灯る。

「使うな」とハル。

「百人いたら使う!」

「影です」とセレナ。

「影でも、実在しない証拠がない!」

「床」アムナ。

 扉の向こうの百人に、足跡がない。

 火だけが床へ影を落とし、人影は影を持たない。

 カイルは籠手を下げた。

「見分ける方法を教えたな」

 黒札が更新。

 対象、影の有無を確認。

「次は影を付ける」とロロ。

「私たち、罠へ授業してる」とハル。

「授業料を取るべきだ!」

「修理工が教育費へ進出した」

「知識は有料!」

「命も有料?」アムナ。

「命は――」

 ロロが止まる。

「払えない奴から取らない」

「では、誰が払う」

「壊した奴」

「誰」

「見つける」

 答えが、黒板に記録される。

 ロロは舌打ちした。

 ノクスの夜獣檻だけ、名前が出ない。

 黒い格子。

 七つの餌皿。

 六つは列。

 一つは外。

 ノクスが足を止める。

「お前の癖まで」とハル。

 皿に、干し魚。

 列の外だけ、苺。

 カイルが顔を背けた。

「なぜ俺を見る」

「苺を隠す癖、もう取られてる?」

「隠していない。備蓄だ」

「半マントの内ポケットは倉庫じゃない」

「王家の非常食庫だ」

「苺一個で国を救う気か」ロロ。

「国民一人は救える!」

 ノクスは餌皿へ行かない。

 床へ耳を当てる。

 格子の奥。

 足音が七つ。

 同じ速さ。

 同じ重さ。

 同じ間隔。

「作り物」とアムナ。

 ノクスが、外へ置かれた一皿をさらに外へ押す。

 格子が一瞬、開く。

 全員が動かない。

 開いた先に出口が見えた。

 白い空。

 ゼロスター号。

 ウルが杖を上げる。

 ネイが外套を裏返す。

 ハルの身体が前へ出る。

「待って」とセレナ。

 ゼロスター号の帆が、右ではなく左へ裂けている。

 実物は片帆だが、裂け目は逆側にある。

「記録模型」とエリア。

 出口が閉じた。

 黒札。

 対象群、外部生活像へ反応。

 左右差照合を実施。

「こいつ、賢くなってる」とハル。

「賢い、ではない」アムナ。

「何」

「増えてる」

 情報が増える。

 条件が増える。

 罠が細かくなる。

 知性とは、情報量ではない。

 知らないと認める能力でもある。

 この施設には、知らないという欄がなかった。

 空白扉へ向かう前に、アムナは自分の手を見た。

 九人の情報を置いた指。

 炭で黒い爪。

 膝の痛み。

「一つ、混じった」

「何が」とセレナ。

「熱い窯の右脚と、薬車の右輪」

 彼女はすぐ言う。

 薬車が壁の向こうから訂正する。

「私の右輪は正常。左輪が欠け」

「訂正。左輪」

 熱い窯も言う。

「俺の悪いのは右脚じゃない。右脚をかばう左腰」

「訂正。左腰」

「さっき右脚って」ハル。

「短く言った。痛い場所と悪い場所が違う」

 身体も記録も、欄へ収めると意味を削る。

 アムナは二つの情報を置き直した。

「行ける?」エリア。

「行ける。でも、帰ったら休む」

「今休む案」

「壁が閉じる前に、空白の条件だけ見る」

「条件を決めたのは」ハル。

「私」

「撤退条件」

「名を一つ混ぜたら戻る。索の合図を忘れたら戻る。膝三で戻る」

「今、膝二」

「二」

 自分の身体を、最後の欄へ回さない。

 それだけで、施設の予測から外れるわけではない。

 だが施設に予測されていない彼女が、自分まで数え忘れれば、空白は自由ではなく消失になる。

 ハルは索を持つ前に聞いた。

「握る場所、ここでいい?」

「右。左は九人」

「手に人を置くの、初めて見た」

「見せてよい時だけ」

 セレナはその方法を証羽へ残さない。

「記録しない?」

「あなたの記憶宮の配置は、施設が欲しがる情報です」

「でも、今の判断理由は」

「本人同意の範囲で、容量申告と訂正手順だけ」

「よい」

 記録を守る者と証拠を守る者は、同じ仕事ではない。

 片方は残し、片方は残さない。

 その衝突を、今は範囲で分ける。

「私が行く」

 アムナが言った。

「どこへ」ハル。

「空白」

「一人で?」

「一人なら、扉は選べないかもしれない」

「それは、お前だけ安全ってことかもしれない」

「だから行く」

「だから一人では行かせない」

 ハルは立つ。

 アムナは彼を見る。

「あなたが来ると、橋になる」

「じゃあ入口まで」

「入口も橋になる」

「遠くから見てる」

「見ると走る」

「信用がない!」

「履歴」

「施設と同じ言い方するな!」

 アムナの口元が、少しだけ動く。

 笑ったのかもしれない。

 断定はしない。

「索」とエリア。

 自分の腰から細い線を出す。

「アムナが先。私たちはここ。引く回数を決める。一回、停止。二回、戻る。三回、索を切る」

「三回で切る?」ハル。

「引き込まれる時。本人へ確認する」

「私が一回なら」アムナ。

「停止」

「二回」

「戻る」

「三回」

「切っていいか、もう一度聞く」

「決めた意味がない!」ロロ。

「切断の最終同意は、その時の本人にある」エリア。

「いい」

 アムナは索を受けた。

 空白扉へ近づく。

 一歩。

 黒い名札が浮く。

 アムナ・エクリプス。

 その下が、空白。

 履歴件数。

 能力条件。

 標準行動。

 反応率。

 欄だけがあり、文字がない。

 扉は開かない。

 代わりに、隣の壁が三寸だけずれた。

 白い壁の裏。

 配管。

 油。

 人が一人通れる保守路。

「罠を選べない」とセレナ。

「安全路」とカイル。

「違う」とアムナ。

 彼女は壁の隙間へ手を入れ、内側の札を引き抜く。

 保守対象外。

 行動型未登録。

 標準環境の割当て不要。

「私は、安全じゃない」

 煤色の瞳が、文字を読む。

「対象じゃない」

 殺されないのではない。

 数えられていない。

 その違いを知る者は、喜ばない。

「入れる?」ハル。

「入れる」

「戻れる?」

「まだ知らない」

「人数」

 アムナは振り返る。

「七。一頭。外に二」

「お前を入れて?」

「入れて七」

「なら、戻れ」

「命令?」

「頼み」

「理由」

「対象じゃないから一人で行け、って言ったら、この迷宮と同じになる」

 アムナは名前を二度言った。

「ハル。ハル」

「いる」

「索、持って」

「持つ」

 彼女は保守路へ入る。

 扉は誰も選ばない。

 橋も、塔も、機関も現れない。

 狭い路の内壁に、古い黒板が並ぶ。

 名前。

 日付。

 死亡場所。

 何千枚。

 しかしアムナの板だけ、最初から最後まで白い。

 最下段に、一行。

 対象データ不足。

 死亡記録、生成不能。

 その文字の下へ、新しい線が走る。

 同行者への帰還を選択。

 行動履歴、初回登録。

「見てる」とアムナ。

 索を一度引く。

 停止。

 背後の保守路が閉じ始める。

 彼女は二度引いた。

 戻る。

 壁が迫る。

 ハルが索を引き、エリアとカイルとロロがその後ろへ重なる。セレナは時間を数え、ノクスは床の振動を聞く。

 アムナが隙間から滑り出る。

 壁が閉じる。

 黒板だけが残る。

 アムナ・エクリプス。

 死亡記録。

 空白。

 空白を見たハルは、最初に安心しかけた。

 アムナだけ、死に方を決められていない。

 その安心は、彼女の顔を見て消える。

「嬉しくない?」

「病院でも、配給所でも、名前がない人は安全じゃなかった」

 つい先日通った、色のない国。

 登録されない者は、追跡されない代わりに、薬も、水も、避難権も受け取れなかった。

「この施設も同じ」とアムナ。「殺す対象にしない。でも、救う対象にもしてない」

「じゃあ登録する?」カイル。

「全部は渡さない」

 アムナは白い板の下へ、炭で条件を書く。

 現在呼称、アムナ・エクリプス。

 同行人数の確認へ使用可。

 医療上の負傷、本人確認後のみ。

 家族、出身、過去名、非公開。

 死亡手順、生成しない。

「施設へ条件を出す」とエリア。

「聞くかは分からない。でも、白紙を施設の自由にしない」

 黒板が文字を読み取る。

 行動履歴、初回登録。

 対象名――

 一度、止まる。

 死亡記録、生成――

 また止まる。

 条件競合。

「命令に従った?」ハル。

「分からない」とセレナ。「少なくとも、自動生成へ抵抗が発生」

 アムナは自分の名を二度言う。

「アムナ。アムナ」

「いる」とハル。

「今は、いると記録していい」

「後で変えられる?」

「変える」

 名前を渡すことも、取り戻すことも、同じ人物の選択である。

 空白は未来の特別さではない。

 何を書いてよいかを、まだ施設側が決められない状態だった。

「戻る」とアムナ。

「一人で?」

「索を持って」

 ハルは持つ。

 ただし引く時刻を一人で決めない。

 エリアが壁幅。

 ロロが閉鎖速度。

 セレナが拍。

 カイルが全員の足場。

 彼女を数えるために、彼女の全部を所有しない。

 その手順で、空白の紙ごと広間へ戻った。

 その空白は、未来がないという意味ではなかった。

 施設が、彼女の過去を持っていないという意味だった。