第741話 第十一章「七つしかない八室」前編
空席は、欠席ではない。
誰かが来なかった椅子と、誰かが来られるよう空けた椅子は、形だけなら同じである。
制度は人数を数える。
歴史は不在を数える。
だが、その場所を誰のために空けたのかは、椅子自身には書かれていない。
証言には、椅子が要る。
立ったままでも人は話せる。
走りながらでも叫べる。
だが、制度が証言と呼ぶためには、誰がどこへ座り、誰が聞き、誰が記録し、誰が途中で帰れるかを決めなければならない。
椅子は家具ではない。
発言権の形である。
古い王国の法廷では、証人の椅子は一つだった。
聞く者は立つ。
記録される者も立つ。
座れる一人だけが、落ち着いて話した言葉として歴史へ残った。
後に椅子は二つになった。
行為をした者と、行為を受けた者。
守った者と、守られた者。
覚えた者と、覚えられた者。
二つになった制度は、一つより公平に見える。
だが、二つの役割へ入らない者はどうするのか。
見ていただけの子供。
名を出したくない通行人。
途中から参加した者。
どちらにも同意しない者。
彼らのために椅子を増やす思想は、しばしば部屋を作らなかった。
誰のものとも決めない場所は、所有者がいないぶん、最初に忘れられるからである。
【現実/死亡記録炉・七証言室前/覚醒/炉停止から二分】
炉が止まると、音が増えた。
それまで回転音に隠れていた、水滴。
外周管の冷却。
誰かの浅い呼吸。
ロロの補助腕が熱を逃がす細い鳴り。
エリアが右の踵へ重心を逃がす靴音。
カイルの肋部を押さえないよう、半マントだけが触れる布音。
「全員、確認」とセレナ。
六人。
一頭。
炉まで来た住民二人。
外周見張り一人。
戻った者、扉前へ残った者の位置は、細い通信索の振動で確かめる。
「ハル、肩」
「三から二」
「エリア」
「呼吸二。踵三」
「カイル」
「肋部二、左掌二」
「ロロ」
「喘息二、右手三、補助腕四」
「私、右手首二、左眼三」
「アムナ」
「両腕二。名前の混同なし」
「ノクス」
「ナ」
「本人判断」と全員。
言い慣れた。
本人判断は、分からないから放置する言葉ではない。
こちらが決められない範囲を認め、本人が示した時に更新する準備を保つ言葉である。
七枚の扉は、炉の周囲へ扇状に開いていた。
どれも同じ幅。
同じ高さ。
同じ黒い取っ手。
ただし、扉の下へ刻まれた二つの円だけが違う。
「二人用」とハル。
「対面用」とセレナ。
「喧嘩用?」ロロ。
「制度を全部喧嘩へするな」とカイル。
「制度は喧嘩が起きる前提で作る方が丈夫」
「技師の政治論が雑に強い」
アムナは最初の扉へ触れず、下の円を数える。
「二つ。二つ。全部二つ」
「七室、十四席」とエリア。
「八室なら、もう二席あるはず」とハル。
「先に七室を確認します」とセレナ。「ないものを探す前に、あるものが何をしたか」
扉へ、証羽を一枚。
第一の証言室が開いた。
【現実/死亡記録炉・七証言室前/覚醒/炉停止から六分】
七つの扉は、すべて開いていた。
橋の証言室。
床は二つに割れている。
一方は雨に濡れた橋板。
一方は崩落下の救助網。
橋板側へ立つと、救助者の行動が壁へ出る。
危険を確認。
最短路を選択。
三拍前に跳躍。
自分の索を対象へ固定。
帰還経路を後回し。
救助網側へ立つと、救われた者の情報。
体重。
位置。
負傷。
落下までの秒数。
「選択がない」とハル。
「救われる側が、何を頼んだか」とアムナ。「誰を先にしてほしいと言ったか。触れてよい場所。索を結ぶ許可」
「全部ない」とセレナ。
救助記録は、救助者の勇気を詳しく残す。
救われた者を、荷重へ変える。
板持ちが救助網側へ立つ。
「私は橋にいなかった。でも、ここへ立つと『保護対象』になる」
壁へ体重欄が出る。
「本人確認なし」とセレナ。
カイルが壁の下へ、小さな手動札を見つける。
拒否。
保留。
別救助者を希望。
三つの選択肢。
埃で埋まり、命令管へつながっていない。
「最初はあった」とエリア。
「後から使わなくなった」とロロ。
「なぜ」
「選ばれると遅いから」
ハルは拒否札の埃を拭かない。
位置だけ記録する。
塔の証言室。
一方の床には地図机。
もう一方には婚姻契約台。
地図机へ立つ者は、避難経路を描く。
契約台へ立つ者は、その経路を受け取る。
壁の古い記録。
最短。
最少損失。
最高確率。
「『最適』の中身が三種類」とエリア。
「誰にとって」とハル。
「記載なし」
契約台には、受領印を押す穴がある。
押さなければ扉が開かない。
エリアは地図机へ立たず、二つの円の間へ座った。
床が戸惑う。
「場所がない」とロロ。
「だから座る」
「公女が床へ座る映像、社交紙へ売れる?」ハル。
「売った者の航路予算を監査する」
「脅しが具体的!」
エリアは契約台の裏に、消された欄を見つける。
自分の路を追記。
途中離脱。
地図作成者へ異議。
「受け取る者が、線を足せた」と彼女。
「今の塔は」とセレナ。
「完成図を一人が渡し、全員が従う」
「効率が上がった」
「事故の理由も一人へ集まった」
地図机の筆溝は深い。
契約台の追記溝は、ほとんど使われていない。
制度の偏りは、理念より摩耗へ正直に残る。
機関の証言室。
片側へ工具台。
片側へ停止鐘。
工具台へ、ロロの手順が流れる。
異音確認。
一次弁保持。
損傷部へ残留。
完全復旧まで離脱せず。
停止鐘側には、作業を止める権限。
だが、鐘の紐は工具台の者から届かない高さにある。
「止める人が別」とハル。
「別でいい」とロロ。「でも、その人がいなくなったら技師は止められない」
壁へ古い勤務表。
技師。
監督。
監査。
三役だったものが、後年の改修で「機関責任者」一人へ統合される。
「人員削減」とセレナ。
「責任も削減して一人に増量」とロロ。
「言葉が算数へ反抗してる」とハル。
ロロは工具台へ、右手ではなく補助腕を置く。
壁は彼を本人と認識しない。
「手順だけ取った時と同じ」
「道具を人の延長にしたり、別物にしたり、都合で変える」とアムナ。
停止鐘の紐を、外周見張りが引く。
鐘は鳴る。
命令管はもう炉へつながらない。
「止められる音だけ残す」とロロ。
「誰が聞く」と板持ち。
「次の技師。聞こえない場所へいたら、音じゃ足りない」
彼は鐘の振動を床へ伝える板を見つけ、持ち帰る一覧へ加えた。
盾の証言室。
一方は王盾台。
もう一方は九つの足形。
守る者、一。
守られる者、九。
「最初から人数差」とカイル。
王盾台へ立つと、背後の足形が自動で光る。
足形へ立つ者の同意は取らない。
板持ちが九つの外へ立つ。
「そこは保護範囲外」と壁。
「私が決める」
光は彼女を追い、無理に足形へ入れようとする。
カイルは王盾を出さない。
代わりに、王盾台から降りる。
光が止まる。
「王がいないと、守られる側も分類できない」と彼。
「王を中心にしか民を見てない」とハル。
カイルは九つの足形を、一つずつ調べる。
年齢なし。
身体条件なし。
拒否欄なし。
防御へ参加する欄なし。
ただ、守られる。
「善意は、選択肢を奪った時点で支配になる」とアムナ。
「俺が言われると痛いな」
「痛みは」セレナ。
「比喩だ!」
「肋部も確認」
「二!」
カイルは足形の間へ、曲がった板を置いた。
守る者と守られる者の中間。
迷宮には存在しない役割。
証拠の証言室。
書記席と、記録される者の席。
書記席には紙が百枚。
相手側には、何もない。
「話す道具がない」とハル。
「声を記録する管は」とセレナ。
「書記側だけ」とエリア。
記録される者が沈黙すると、書記席の自動筆が空白を補う。
拒否。
不明。
記憶なし。
すべて、標準文へ変換。
拒否したが、危険を認識していた。
不明と述べたが、関与の可能性がある。
記憶なしと述べたため、過去の標準行動を採用する。
「書かないほど、勝手に書かれる」とセレナ。
彼女は自動筆を止める。
右手首を使わず、左手で空白札を差し込む。
不明は欠落ではない。
記入済みの回答である。
筆は動かない。
「この一文、持ち帰る」とカイル。
「王家の法廷へ?」
「俺の机へ先に。法廷へ出す前に、自分が空白を埋めた記録を調べる」
「美談へしない」とセレナ。
「監査へする」
檻の証言室。
名を与える者の席。
名を与えられる者の檻。
檻は人間の大きさではない。
ノクスに近い。
壁には、種別名。
夜獣。
危険度。
餌反応。
群れ行動。
個体の選択はない。
ハルが檻を開ける。
「入らなくていい」
「ナ」
ノクスは入らない。
代わりに、名を与える者の席へ乗る。
「逆!」ロロ。
「誰へ名を付ける」とカイル。
ノクスは七枚の種別札から一枚を外へ押す。
危険度。
残る札を踏まず、席から降りる。
「名付ける側にもならない」とアムナ。
檻の底に、古い引っ掻き傷。
七本ずつ。
一つだけ外へ。
「前にも同じ行動をした個体?」ハル。
「似た爪痕。本人かは不明」とセレナ。
「記録しないでいい?」
ノクスが爪痕を嗅ぎ、尾を一度下げる。
「非公開」とハル。
「本人意図の推定」とセレナ。
「推定って付けて」