第742話 第十一章「七つしかない八室」後編
最後、記憶の証言室。
覚える者の席。
忘れられる者の席。
二つの言葉が、最初から間違っている。
「忘れられる、じゃない」とアムナ。
彼女はどちらにも座らない。
「覚えてほしくない人。覚える範囲を決めたい人。後で訂正したい人」
忘れられる者の席へ座ると、名前、顔、負傷、家族、居住地が一括で記憶井へ送られる。
公開と保存と検索が分かれていない。
「前の国と同じ」とハル。
「もっと古い」とアムナ。「名前を一つ預けたら、全部預けたことにする考え」
壁へ、彼女の白い紙が映る。
死亡記録、空白。
井戸は空白を埋めようとする。
推定名。
推定家族。
推定恐怖。
推定死。
「やめろ」とハル。
アムナが手を上げる。
「私が言う」
井戸へ向かう。
「私の名は、アムナ・エクリプス。今、ここで呼んでいい。公開はここにいる人まで。家族は本人の許可なしに足さない。死に方は書かない」
一度。
「アムナ・エクリプス。条件を変えたら、もう一度聞く」
二度。
井戸の推定欄が止まる。
「空白が、回答になった」とセレナ。
「書けないんじゃない。書かないと決めた」
七つの部屋は、それぞれ二者を用意していた。
助ける者と助けられる者。
描く者と従う者。
直す者と止める者。
守る者と守られる者。
書く者と書かれる者。
名付ける者と名付けられる者。
覚える者と覚えられる者。
二者の間にいる者。
どちらでもない者。
途中で役割を変える者。
見ているだけの者。
その場所だけが、どの部屋にもなかった。
「八番目は?」ハル。
七室を出ると、エリアは床へ全体図を描いた。
今度は、意図的に完成させる。
「完成していいの」とハル。
「これは出口を命令する地図ではない。現状を共有する図」
「完成と支配は同じじゃない?」
「同じにしないため、用途を書く」
地図の上へ、大きく記す。
証言室の現状確認用。
避難指示へ転用しない。
修正者名と時刻を残す。
「地図にも使用条件」とカイル。
「剣へ鞘があるなら、地図にも必要」
七つの扇形。
中央の炉。
外周。
命令軸。
八番目の扇形を描こうとすると、壁へぶつかる。
「消されたなら」とロロ。「壁の中に配管跡、埋めた蝶番、床の切断線がある」
調べる。
壁は一枚岩ではない。
だが、七室の間と同じ建材で連続している。
後から塞いだ継ぎ目はない。
蝶番穴なし。
命令管なし。
排気なし。
戻り管なし。
「部屋を消した痕跡はない」とセレナ。
「じゃあ八室って嘘?」ハル。
「名称の八が、部屋数を示すとは限らない」とカイル。
「八室迷宮なのに?」
「王家の七夜舞踏会も準備日を入れると八日ある」
「名前が算数を諦めてる!」
「儀礼は算数より古い」
「算数、もっと頑張れ!」
ロロは停止輪を思い出し、全員を炉へ戻す。
八本の握り。
一から七まで、各命令軸へ細い刻印。
八本目だけ、軸へつながっていない。
握りの裏へ、小さな文字。
参加者用。
「対象用じゃない」とアムナ。
「参加者」とセレナ。「証人、被害者、管理者のどれにも限定していない」
「誰かが空けておく参加枠〈オープン・シート〉」
古い共通空語を、カイルが読む。
王家の初期法廷で使われた言葉。
当事者でも役人でもない者が、制度の動きを見るために入る枠。
「監査員?」ハル。
「監査員に限定すると、また資格が要る」とカイル。「見た者、途中参加者、名前を出さない者。誰か一人へ固定しない席」
「席なら、どこ」とエリア。
握りの摩耗を比べる。
一から七は、大人の掌で磨かれている。
八だけ、下側へ細かな擦れ。
「子供の手」とアムナ。
「小柄な者、座った者、下から握った者の可能性」とセレナ。
「でも床の歩幅も短い」
七室の前を横切る摩耗。
八本目だけ、壁へ向かう。
その線を辿ると、扉ではなく床板の下へ消える。
「部屋が消されたんじゃない」とアムナ。
「最初から、部屋にしなかった」とエリア。
「なぜ」ハル。
「部屋にすると、役割と所有者が決まるから」
空席を空席のまま保つため、壁の外へ置いた。
だが、所有者がいない場所は、整備予算も、管理責任も、案内表示も持たない。
誰でも参加できる枠は、やがて誰も場所を知らない枠になった。
「理想が、放置と見分けつかない」とロロ。
「だから、空けるだけでは足りない」とセレナ。「見つけ方、使い方、終了条件が要る」
ハルは床へしゃがむ。
短い歩幅。
右足だけ外向き。
自分の靴を横に置きかけ、止める。
「まだ触らない」とセレナ。
「分かってる」
過去のハルなら、証拠の上へ自分の足を置いて大きさを比べた。
今は透明な測定板を借りる。
歩幅、二十七寸。
足長、子供用。
右足の外向き角、十一度前後。
「俺も、昔こうだった」
「根拠」とセレナ。
「母さんが、靴の右だけ減るって怒ってた。走り方を直す前」
「証言として記録。本人同定には使わない」
「承知」
空白を見つけた時、彼らは急いでハルの過去へ結びつけなかった。
だが、結びつく可能性から目を逸らしもしなかった。
床板の下は、人一人が腹ばいで進める高さしかない。
「ロロは」とハル。
「補助腕を外せば通れる。でも外したら戻すのに二十分」
「残る」とロロ。
「カイル」
「肩幅で無理だ」
「王家の肩幅が邪魔!」
「お前が細すぎる!」
「セレナ」
「右手首で這行は不可。入口から証羽を送ります」
「エリア」
「入れる。ただし踵で蹴れない。戻り索を持つ」
アムナが先へ行くと言う。
「空白枠だから?」ハル。
「小さいから」
「理由が物理!」
「物理を軽く見ると、頭をぶつける」
実際、ハルは入口で頭をぶつけた。
「痛み」とセレナ。
「誇り四、頭一」
「誇りは医療欄外」
進入は二人。
アムナが先。
ハルが後。
エリアは入口で二本の索を別々に持つ。
一つへまとめない。
片方が引かれても、もう片方が判断できる。
「合図」とエリア。
「索を一度、停止。二度、進む。三度、戻る」とハル。
「四度以上は」
「事故」
「事故時は?」
「声で確認。声がなければセレナと相談して二人以上で救助」
「一人で来ない?」
「来ない」
「今の、記録」
「いちいち成長を証拠化するな!」
アムナは笑わない。
「言ってくれた方がいい」
「何が」
「私が先へ行くと、あなたは一人で来そうだから」
「来ないって」
「今は信じる。次も確認する」
信頼を永久許可にしない。
二人は這う。
最初の三間、床は金属。
次の二間、木。
その先は、古い布が敷かれている。
膝を守るため。
子供の掌ほどの補修布。
「これ、後から」とハル。
「素材が七室より新しい」とアムナ。「でも、今の施設より古い」
「年代」
「ここでは広すぎる。採取しない」
壁の低い位置へ、炭の点。
一つ。
二つ。
三つ。
危険な跳躍の数ではない。
迷子が帰り道へ付ける印のように見える。
ハルの喉が乾く。
「俺、子供の頃、配達店の倉庫で同じことした」
「同じ点?」
「三つ。母さんに壁へ書くなって叱られた」
「似ている」
「断定しない」
「ハルが先に言った」
「慣れたくないけど、慣れた」
低い路は、途中で二つに分かれる。
左から、父の声。
『ハル、こっちだ』
右から、風。
ハルの身体が左へ向く。
声は、記憶井の残響かもしれない。
本人の声かもしれない。
施設が作った誘導かもしれない。
「人数」とアムナ。
彼女が、第一章でハルがした問いを返す。
「返事なし」
「匂い」
「左、古い油。右、埃と木」
「足跡」
「右」
「じゃあ、右を調べる」
「声を無視する?」
「無視じゃない。音源不明として残す」
ハルは左へ赤い糸を一本結ぶ。
後で調べるため。
今、父の声だからと一人で行かないため。
右へ進む。
左肩が布へ擦れる。
「痛み三」
「戻る?」
「進める。でも、俺が決めない。残り距離」
「四歩くらい。戻りは今より肩へ負担」
「進んで、室で休む」
「私も同意」
四歩。
子供の歩幅なら八歩。
その先で、天井が少し高くなった。
小さな室は、秘密基地に似ていた。
王家の秘密室ではない。
設計者の中枢でもない。
子供が大人の椅子を嫌い、床へ座るために作ったような場所。
円形の床。
低い棚。
水の跡。
折れた炭。
針金。
瓶の蓋。
木片。
壁には、七つの証言室を外側から見た絵。
橋の二人。
塔の二人。
機関の二人。
盾の二人。
証拠の二人。
檻の二つ。
井戸の二人。
その外へ、小さな丸が一つ。
「八番目」とハル。
「部屋じゃなく、見てる人」とアムナ。
丸には名前がない。
床の灰に、足形が残る。
一組だけではない。
同じ大きさの足が、室内を何度も往復している。
右足が外向き。
踵の減りが強い。
入口から壁画へ。
壁画から棚へ。
棚から中央へ。
もう一つ、大人らしい跡があるようにも見える。
しかし輪郭が崩れ、工具箱か、膝をついた跡か、人間の足か判別できない。
「誰か一緒だった?」ハル。
「分からない」
「一人だった?」
「分からない」
「俺だった?」
アムナは答えない。
「分からない」と自分で言う。
ハルは笑おうとする。
「分からない三連発。謎解き小説としてどうなんだ」
声が軽すぎる。
恐怖が増えている。
アムナは、慰めるために名前を二度呼ばない。
「ハル」
一度。
まだ確認が終わっていないという、前章で一度だけ使った合図ではない。
もう合図は破棄した。
ただ、ここにいる本人を呼ぶ一度。
「いる」とハル。
棚の上に、小さな方位具がある。
瓶の蓋を水皿にしたもの。
薄い木片。
磁化した縫い針。
赤い糸。
地球の小学校で作る方位磁針に似ている。
完成度は低い。
針の中心がずれ、木片は片側へ沈む。
瓶の蓋に錆。
赤い糸は、長く触られて色が薄い。
ハルの指が伸びる。
途中で止まる。
「触らない」
「うん」
「セレナを呼ぶ」
「うん」
索を二度引く。
進む合図は破棄した後である。
「今の二度、何の意味」と入口のエリア。
「声をつなぐ。証拠発見。セレナを」
「新しい意味を勝手に固定しない」
「ごめん。今だけ、証拠発見で使っていい?」
「同意。今回だけ」
セレナの声が索管から届く。
「対象へ触れず、周囲から。位置、方角、支持面、空気流」
ハルが答える。
「室中央の低い棚。入口から右へ四歩。木片の上に縫い針。瓶蓋の内側。赤い糸」
「文字」
「まだ見てない」
「先に全体」
アムナが室内を記憶する。
ただし、全部を自分だけへ預けない。
「壁画はエリアへ。素材はロロへ。位置と形はセレナへ。私は、呼んでよい名があるかだけ見る」
「承知」とハル。
証羽が細い保守路を通って一枚だけ入る。
セレナは自分で入れない。
羽へ直前の形と位置だけを写す。
ハルは羽を棚の横へ置く。
「裏」とセレナの声。
瓶蓋の裏。
方位具を持ち上げなければ見えない。
ロロが細い鏡板を送る。
「焦げパン二号!」
「鏡にも食べ物名!」ハル。
「今付けた!」
鏡板を棚の下へ滑らせる。
反射。
ひらがな。
不格好な二文字。
はる。
ハルの呼吸が止まる。
右眉の古傷ができた頃、彼は自分の名を丸く書いた。
母は「る」の最後が長すぎると笑った。
瓶蓋の「る」も、最後が長い。
「似てる」とハル。
「何に」とセレナ。
「俺の字。七歳くらいの」
「比較資料」
「母さんの配送伝票。地球にある」
「現在は照合不能」
「分かってる」
分かっていると言いながら、分かりたくない。
ここへ来たのか。
なぜ忘れた。
ソウジと一緒だったのか。
誰かに連れてこられたのか。
自分で来たのか。
質問が、答えより速く増える。
零星針の蓋へ親指が行く。
一回。
二回。
三回。
四回目。
エリアが索を一度引く。
「肩」
問いの代わりに身体を聞く。
「三」
「呼吸」
「分からない」
「ゆっくり」
ハルは息を吐く。
零星針を使わない。
何を探すかを問えば、針は何かを指すかもしれない。
だが、指したものが誰を連れてきたかの証明になるとは限らない。
今は、証拠を動かす理由にしかならない。
「年代」とセレナ。
アムナが油膜、炭、錆、布の層を読む。
「広い。八年前の前後。父が消えた頃と重なる。でも、一年単位では絞れない」
「父失踪前か後か」
「分からない」
「誰がここへ入れたか」
「分からない」
「施設が作った偽物」
「可能性はある。けど、瓶蓋の金属は地球由来に似る。断定はできない」
セレナが言う。
「足形と方位具を同一人物のものと結びつける証拠も、現在はありません」
「名前が書いてある」
「作成者名とは限りません。贈り先、観察対象、後日の追記」
「分かってる」
「繰り返します。あなたが今、分かっていると言える状態か確認しています」
ハルは目を閉じる。
「分かってない。分かりたいだけ」
「記録します」
その告白は、証拠ではない。
だが、証拠を扱う本人の状態として必要だった。
アムナは方位具のそばへ、自分の炭を置かない。
名も足さない。
「持ち出す?」
「今は位置を固定。透明箱をここへ運ぶ」とセレナ。
「俺が持つ」
「三者で」
「誰」
「現地住民、外部記録者、あなた。ただし所有者とはしない」
「承知」
ハルは手を引く。
過去の彼なら、拾っていた。
見つけた物を持ち主へ返すため、まず自分の手に取った。
今は、自分の名前が書かれた物を、自分の記憶へ独占しない。
七つしかない八室で、八番目は答えを言わなかった。
空席は、ハルの過去を座らせるために空いていたのではない。
分からないものへ、分からないまま参加するために空いていた。
その床へ、幼い足形。
その棚へ、北を指さない手作り方位具。
針は、どの空も選ばず揺れている。