第755話 第六章「拒否したまま共有する」前編
映像は、嘘より強い。
嘘は、疑われることを知っている。
映像は、自分が見られた時点で半分信じられたと勘違いする。
見た。
だからある。
人間の目は、その短い推論を好む。
しかし鏡は、存在するものだけを映さない。
存在した光を映す。
届くまでの時間、反射した回数、鏡面の向き、見る者の立ち位置。その全てが違えば、同じ景色は別の真実になる。
だから鏡砂の民は、映像を信じない――というのは外部の者が好む美しい誤解である。
彼らは映像を信じる。
信じるからこそ、誰が、いつ、どこから、何度反射させたかを執拗に問う。
信じない社会より、信じ方を表示する社会の方が、手間がかかる。
【現実/鏡砂環サリフ・七面王都西反射区/覚醒/軍事封鎖命令から二時間四十二分】
王宮が燃えていた。
同時に、燃えていなかった。
空中の巨大鏡には、白い尖塔から炎が上がっている。
地上の窓には、尖塔が無傷で映る。
足元の鏡砂には、まだ煙だけが到着している。
「どれが現在!」
住民が叫ぶ。
「その問いが不正確です」とユノ・ヴァレント。
「王子様、火事の時に言葉を直すな!」
「正確に言わなければ、別の火事へ走ります」
銀白の髪が、反射光で七色へ分かれる。
右の瞳は紫。
左は金。
白いヴァイオリン、アルマを左肩へ置く。
慢性耳鳴り。
右手薬指の腱、痛み二。
弓を深く握らない。
「上空鏡。敵側投射。作成時刻、未確認。反射回数、最低五。王宮炎上の確度、現時点で二割以下」
弓を一度。
燃える王宮像の周囲へ、白い縁が付く。
白は「真実」ではない。
出典と確度が付いている印である。
「地上窓。王宮北面を現在観測。時刻、三十八秒前。炎、未確認」
別の白縁。
「足元鏡砂。煙の反射。発生源は王宮とは限らない。風向き南東」
三つ目。
「全部白!」住民。
「全部、何を知っていて何を知らないか表示しました」
「どれを信じれば!」
「避難判断には、尖塔の炎上より南東風と、上空鏡の投射元を使ってください」
「王宮は!」
「今は分かりません」
王族が王宮の安否を「分からない」と言う。
平時なら弱さに見える。
戦時には、分からないものを分かったことにしない方が強い場合がある。
ただし、強いからといって好かれるわけではない。
「分からない王子に何ができる!」
「分からない範囲を狭くする」
「地味!」
「王家の仕事は本来地味です。派手に見える時は、誰かが被害を演出しています」
「あなたが言う?」
「僕が言うから嫌味になる」
ユノは微笑む。
丁寧な笑み。
相手が怒るほど優雅になる。
嘘をつく時だけ正面へ近づくミラとは逆に、ユノは本気で困るほど美しく振る舞う。
「兄さま」
リゼ・ヴァレントが薄い面布を下ろす。
銀黒の短髪。
紫の瞳には金の輪。
強い光を避けるため、片手に空の額縁を持つ。
「今の三枚、全部あなたの説明を通した」
「必要な編集です」
「編集者名を表示」
「僕の顔がある」
「顔は出典じゃない」
「王族の顔は歴史上、出典として――」
「役に立たなかった」
「はい」
白縁へ、細い文字が増える。
編集、ユノ・ヴァレント。
確度分類、暫定。
拒否可能。
「最後」とリゼ。
「何を」
「見ない人の出口」
ユノは住民の後ろを見る。
西反射区の家々は、鏡戸を閉じている。
敵映像だけではない。
王家の防災像も、同盟側の予測も、全て拒否している。
閉じた鏡戸には、黒布。
見ない。
王都が百方向へ裂けた災害の後、住民は情報の受信を選べるようになった。
だが「見ない権利」は、戦時になると最初に疑われる。
危険を知らせられない。
敵へ協力しているかもしれない。
全体行動を乱す。
理由は、どれも現実的である。
現実的な理由が権利を消す時、権利は平時の飾りだったことになる。
「西端市、同盟映像の受信を拒否」と門守が報告する。
「敵映像も?」ユノ。
「全て」
「避難像も」
「全て」
「理由」
「理由の公開も拒否」
「見事」とユノ。
「褒める場面?」リゼ。
「拒否の設計が徹底している」
「兄さまの悪い癖。自分に効く反対だけ美しいと思う」
「では、腹立たしい」
「本音?」
「半分」
「白縁を」
ユノは自分の胸へ指で四角を描く。
「腹立たしさ、五割。尊敬、三割。困惑、二割」
「感情を小数にするとミラに怒られる」
「彼女はもっと細かい」
七面王都へ届く映像は、全て偽物ではなかった。
それが問題だった。
北門崩落。
東水路逆流。
南避難所炎上。
西鏡塔倒壊。
四つの映像のうち、二つはまだ起きていない。
一つは別の都市。
一つは現在進行中。
敵の投射網は、過去映像、現在映像、危機予測を同じ画質で流している。
嘘を混ぜるより効率がよい。
全部が条件付きで真実になり得るからである。
「北門へ人が集まれば、荷重で北門が崩れる」とリゼ。
「東水路を止めれば、南避難所へ熱が流れて燃える」とユノ。
「西鏡塔を守れば、他の三つが起きる」
「映像を見た行動が、映像を現実へ近づける」
「夢灯都市で全市民が見た殺人夢と似ている?」門守。
「似ているが同じではない」とユノ。「夢は役割と場所を人へ植えた。今回は、複数の条件付き未来を同じ現在として並べ、選択を一方向へ偏らせる」
「犯人は投射者?」
「投射は攻撃。ただし北門の荷重設計、東水路の連結、南避難所の熱管は王都側の構造です。映像を止めても危険は残る」
「じゃあ全部消す」
「消すと、現在起きている一つも見えなくなる」
「どれ」
「分からない」
「また!」
「分からないことへ怒っても、分かる方へは進みません」
ユノは七枚の透明板を床へ置く。
一枚目、観測時刻。
二枚目、投射元。
三枚目、反射回数。
四枚目、現実の構造条件。
五枚目、人流。
六枚目、選択による変化。
七枚目、見たくない者へ送らない範囲。
八枚目はない。
「空白が足りない」とリゼ。
「七枚でも多いのに」
「選ばない人の板」
「板を置くと、選ばないことを表示する」
「表示されたくない人もいる」
「空の額縁?」
リゼが持つ額縁。
中に何もない。
ラベルもない。
「これを置けば、ここに何かあると分かる」とユノ。
「そう。完全には隠せない」
「ではどうする」
「聞く」
「西端市へ?」
「映像を送らずに」
ユノの耳鳴りが強くなる。
音のない鏡片を手に取る。
故郷側の航路札。
裏には、リゼが「見ない」と選んだ資料の封印印。
旧反射塔が、七回光る。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目、暗い。
「遠い合図」と門守。
「誰から?」
「分からない」ユノ。
「敵かも」
「そう」
「ならどうする」
「従わない」
「無視?」
「使う」
鏡砂環でも、同じ問答が起きる。
遠く離れた仲間が、互いの台詞を知らずに似た言葉へ届く。これは運命ではない。同じ問題へ、異なる場所で本気で向き合った結果である。
「七拍後の空白を、映像更新停止へ使う」とユノ。
「全員へ?」
「受信希望者だけ」
「西端市は」
「別の方法を聞く」
【現実/七面王都・西端市境界/覚醒/同盟映像拒否から二十一分】
西端市は、鏡を閉じていた。
家の壁。
路面。
水路。
店の皿。
鏡砂環では、鏡でない物を探す方が難しい。
それらを全部、布、泥、木板で覆っている。
都市は急に暗い。
暗いが、静かではない。
パンを焼く音。
水桶を運ぶ音。
子どもが木片を数える音。
見ない人々は、生活を止めていない。
「王家の者を入れない」と境界番。
ユノは王家印を外す。
「ユノ・ヴァレント個人として」
「顔が王家」
「外せない」
「幻で変えられる」
「それをしたら、入れてもらうための偽装です」
「分かってるなら帰れ」
「危険情報を共有したい」
「映像は見ない」
「映像を使わない」
「音も、王家の曲なら聞かない」
ユノはヴァイオリンを背へ戻す。
「触覚は」
「何をする」
「路面へ凹凸。熱板。風向き布。危険の種類だけ」
「出典は」
「板の裏へ刻む。見たい人だけ裏返す」
「確度」
「凹凸の数」
「王家命令」
「付けない」
「同盟参加」
「求めない」
境界番は答えない。
沈黙を同意にしない。
「返事を待つ」とユノ。
「いつまで」リゼが隣から聞く。
「八拍」
「短い」
「危険が近い」
「八拍後に返事がなければ」
「帰る。板だけ境界へ置く許可を別に聞く」
八拍。
一拍目、境界番は腕を組む。
二拍目、背後でパン窯の蓋が鳴る。
三拍目、子どもが木片を落とす。
四拍目、南東から熱風。
五拍目、ユノの右耳で耳鳴り。
六拍目、右手薬指が震える。
七拍目、リゼが面布を下げる。
八拍目。
誰も喋らない。
境界番が、足元へ木板を一枚置く。
許可。
言葉ではない。
「同意?」ユノ。
境界番が睨む。
「板一枚を置く許可。それ以外へ広げるな」
「承知」
ユノたちは、危険板を作る。
北門荷重――太い横溝二本。
東水路逆流――波溝三本。
南避難所熱管――点の集まり。
西鏡塔倒壊――斜線一本。
確度。
観測時刻。
更新停止の八拍。
板の裏に出典。
表だけ見れば、危険の種類と方向だけ。
裏返さなければ映像も予測も見ない。
「不足」とリゼ。
「何が」
「避難路」
「王都側の候補を三つ」
「西端市が選んでない」
境界番が、木板へ新しい溝を刻む。
王都中央へ向かわない道。
外周の古い水路。
「そこは崩落予測が」と門守。
「映像では」と境界番。
「構造計算でも危険」ユノ。
「確度」
「六割」
「中央路は」
「敵投射により人流集中。七割」
「なら外周」
「同盟案と違う」門守。
「同盟へ参加していない」
「危険だ!」
「危険を選ぶ権利もある、とは言わない」とユノ。
境界番を見る。
「ただし、こちらの構造記録を渡す。あなたたちの地元記録と重ねてください。六割が変わる可能性」
「こちらの記録は公開しない」
「結論だけ返してください。理由の非公開も記録する」
「王家が信用できない」
「同意します」
「王家が言うな」
「王家だから言います」
境界番の口元が少しだけ動く。
笑いではない。
怒りが一段下がっただけである。