第757話 第七章「独立車両の停車」前編
鉄道は、同じ時刻を作るために発明された。
村の正午と都市の正午。
山の夜明けと港の夜明け。
人間の腹時計と、役所の時計。
それらは本来、少しずつ違う。
列車が来る時刻を一つにするため、町が時計を合わせた。やがて人は、列車が来るから時計を合わせたのではなく、同じ時計で暮らすことが文明だと思うようになった。
時刻表は、人を運ぶ紙である。
同時に、人の暮らしを紙へ運び込む機械でもある。
中央時刻表が消えた時、列車は自由になる――というのも、遠くから眺めた者の美しい誤解である。
何時に出てよいか分からない。
どの線へ入るか分からない。
向こうから何が来るか分からない。
自由な列車は、最初に衝突する。
【現実/雷鎖環ガルド・公共救難線第六分岐/覚醒/軍事封鎖命令から三時間二分】
「私の名は、イヴァ・レイル」
車内放送は、必ずそこから始まる。
「旧主任車掌、現公共救難線運行調整。中央時刻表は停止。次の停車は、各車両で決める。保留でもいい」
『聞こえない!』
左耳側の拡声筒から声が返る。
イヴァは顔を向け、相手の口元を読む。
「もう一度」
『中央時刻表がないなら、どこへ行けばいい!』
「それを、今から聞く」
『車掌が聞くな! 決めろ!』
「車掌だから聞く」
濃紺の車掌外套は、各自治線の布で継ぎ接ぎされている。青い長三つ編みが、机の上で複数の線路図のように曲がる。
右手が震える。
改札鋏は左手。
心拍、不整一。
強雷場へ入れば二へ上がる。
列車の外では、千本の雷鎖が空を走る。
以前は中央管制塔へ全てつながっていた。
千鎖断線の後、四十八の地域小網へ分けた。
分けたから、中央が止まっても全線停止しない。
分けたから、互いの列車が見えない。
「現在走行車両」とイヴァ。
テト・ヴァンが大きすぎる車掌帽の鍔を二度叩く。
「第六分岐圏、十一編成。うち公共救難線四、自治貨物三、学校車一、工房車一、寝台二。中央時刻表は全員へ『雷都中央駅で停車』を最後に送って死んだ」
「中央駅の状態」
「不明」
「線路」
「第七鎖、切断。第四鎖、過電流。第二鎖は敵封鎖車が入ってる。第九鎖は地図にはないけど、十三番駅の旧保守線につながる」
「乗客希望」
「聞いてる途中」
「何人」
「人数じゃなくて希望?」
「両方」
「公共一号、病院へ百十二。うち意識なし十九、行き先保留二十六、家族指定二十八、本人指定三十九。公共二号、食料を小駅へ五。公共三号、学校車と連結希望。公共四号、証拠記録を中央法廷へ、ただし法廷閉鎖なら保留」
「意識なし十九の代理判断」
「サナ先生が医療上の必要だけ決める。最終目的地は決めない」
「成立」
「私の姓、ヴァン」
「今、誰も間違えていない」
「都会の放送口調になると自分でバンって言いそうだから先に」
「成立しない心配を先に停車させるな」
「停まってから考えよう」
テトは明るく答えた。
彼が明るい時、問題が軽いとは限らない。明るさは、重い荷を一人で持たないため周囲へ声を掛ける方法でもある。
中央から届いた最後の命令は、簡単だった。
全車両、雷都中央駅へ集結。
発信者欄は空白。
終了時刻なし。
異議窓口なし。
「理由は」と自治貨物の運転士。
「中央防衛、医療集約、補給統制のいずれか。複数の可能性」とイヴァ。
「中央へ行けば守られる」
「中央が生きていれば」
「死んでる証拠はない」
「生きている証拠もない」
「だから車掌が決めろ!」
イヴァは改札鋏を鳴らさない。
私情が出る時の癖。
「私は十三歳の時、二駅から同時に救難要請を受け、一方を選んだ」
車内が静かになる。
「もう一方で死者が出た。だから今、二つを選べないと言っているのではない。私一人へ全列車の目的地を集める仕組みを、もう作らないと言っている」
「責任逃れだ」と運転士。
「そう見える」
「認める?」
「見え方を否定しても、責任は減らない」
「じゃあどうする」
「車両ごとに、行き先ではなく停車条件を決める」
イヴァは、穴の開いた銅券を机へ置く。
故郷側の航路札。
線路が増えるたび穴も増え、最初の駅名は読めない。
その隣へ、七枚の分割切符を置く。
地域ごとに条件を刻む切符〈スプリット・パス〉。
「公共一号。患者の生命維持が続き、医療設備がある駅へ。駅名は固定しない」
「公共二号。食料不足が二日未満の小駅へ。中央優先なし」
「公共三号。学校車と合流でき、避難児童が降り先を選べる場所」
「公共四号。証拠を消失させず、公開審理か分散保管へ渡せる場所」
「貨物車は」
「各運転士が条件を出す」
「寝台車」
「乗客へ聞く」
「全員に?」
「全員へ同じ質問はしない。話せない、聞けない、決めたくない者もいる」
「時間がかかる!」
「かかる」
「雷鎖が落ちる!」
「だから、決める範囲を小さくする」
遠い学院で同じ結論へ届いたことを、イヴァは知らない。
中央を失った者たちは、互いへ教わらずとも、全体を一度に決めない方法へ近づく。
旧駅鐘が七回鳴った。
一。
二。
三。
四。
五。
六。
七。
八つ目が鳴らない。
テトが顔を上げる。
「故郷の停車灯礼と似てる」
「誰の合図」
「分からない」
「偽造可能」
「可能」
「採用する?」
「そのままは使わない」
イヴァは銅券の穴を指でなぞる。
色だけでは読まない。
光だけでも読まない。
穴の形、間隔、鋏音。
「七拍動く。八拍目、全車両は動かない」
「停車命令?」
「違う」
「動かないって命令じゃ」
「八拍目に限り、進路変更をしない。加速しない。分岐へ入らない。必要なら制動は各車両判断」
「衝突回避のための空白」
「そう」
「止まってから考えよう、が制度になった!」
「調子に乗るな」
「師匠が採用した!」
「師匠と呼ぶな」
「イヴァ」
怒ると人名を直接呼ぶ彼女に合わせ、テトも直接呼ぶ。
イヴァは左耳を彼へ向けた。
信頼の姿勢。
「全車へ伝える。発信者、イヴァ・レイル。対象、第六分岐圏。期限、次の三周期。異議は各車掌。八拍目を停止ではなく、進路未決定の拍として使う」
「中央駅命令は」
「拒否する車両は、拒否を記録。従う車両は従える」
「全部、中央へ行ったら」
「それも選択。ただし中央の状態不明を表示」
「師匠はどこへ」
「私は公共一号へ」
「患者を優先?」
「乗務員不足。右手の震えを補助できる運転士がいる」
「優先じゃなく条件」
「そう」
【現実/公共救難線一号・第六分岐進入/覚醒/局地七拍開始】
列車は、雷雲の上を走る。
線路は地面へ敷かれていない。
千本の雷鎖が空中に張られ、その上を車輪が電光の溝として進む。
公共一号、七両。
一両目、機関。
二両目、重症。
三両目、感染隔離。
四両目、意識なし。
五両目、家族同伴。
六両目、目的地保留。
七両目、医療物資。
中央時刻表なら、全て一編成として一つの駅へ行く。
今は、各両が切り離せる。
切り離せることは、捨てられることでもある。
「四両目を中央医療へ」と運行補助。
「中央医療の稼働確認なし」とイヴァ。
「意識なしを保留車へ置けない」
「医療上の移送先をサナが決める。生活上の目的地は保留」
「区別してる間に死ぬ!」
救護医サナが手袋を交換しながら言う。
「呼吸器は二時間。薬は三時間。医療判断は今できる。本人の最終居住は今決めなくていい」
「どこへ運ぶ」
「雷都中央か、小駅ノルンか、工房駅の仮病床。設備比較」
「中央が最大」
「稼働していれば」
「またそれか!」
「不明を不利へ数えるのではなく、不明のまま置く」イヴァ。
第一拍。
列車が加速する。
第二拍。
右前方、貨物車の影。
第三拍。
信号灯は赤。
テトには赤と緑を色だけで見分けない。形を見る。
「三角点滅、進入禁止!」
第四拍。
中央網から古い青信号が上書きされる。
「色は進行、形は禁止!」運転士。
「形を採用!」イヴァ。
第五拍。
貨物車が同じ分岐へ入る。
第六拍。
互いの制動距離、足りない。
「八拍目まで待てない!」
「七拍目、局地制動!」
イヴァが穿票鋏を床へ打つ。
次の停車位置を足元へ示す標が、短い光として走る。
万能停止ではない。
列車を止める力ではない。
この速度、この荷重、この線路なら、どこから制動すれば止まれるかを示すだけ。
右手ではなく左手で鋏を切る。
七拍。
公共一号、制動開始。
貨物車も自分の判断で制動。
八拍目。
進路変更しない。
分岐器を動かさない。
中央青信号を採用しない。
二編成が、同じ分岐の手前で止まる。
距離、車輪一個半。
「近い!」テト。
「止まった」とイヴァ。
「近いけど止まった!」
「感想を二回放送するな」
「大事!」
貨物車の運転士が窓から怒鳴る。
「そっちが中央指示へ従えば先に抜けた!」
「こちらの停車条件は医療」とイヴァ。
「こっちは食料だ!」
「どこへ」
「小駅五つ!」
「中央命令は」
「無視した!」
「なら同じだ」
「一緒にするな!」
「同じ命令を拒否した。目的は違う」
「だからどっちが先!」
「八拍目に決める」
運転士が罵声を上げる。
テトは分岐器へ降りる。
「次は――どっち?」
「質問をそのまま言うな!」
「貨物、食料不足まで何時間!」
「最短駅、十一時間!」
「公共一号、呼吸器二時間、薬三時間!」
「なら病院が先だろ!」
「病院がどこか未確認!」
「食料駅は確認済み!」
二つの正しさ。
イヴァは、自分一人で優先を決められる。
決めれば速い。
「貨物車、分岐右。公共一号、左。左右の鎖電力」
「右は一編成、左は七両」とテト。
「同時進入で過電流」
「なら一つずつ」
「どちらが先」
また戻る。
サナが四両目から来る。
「患者十九人のうち、今すぐ高度設備が必要なのは四。残り十五は三時間。公共一号全体を先にする必要はない」
「四両目だけ切り離す?」運転士。
「切り離せば機関がない」とテト。
「貨物機関へ連結」イヴァ。
「食料が遅れる!」
「四人ぶんの医療両だけ、貨物へ。公共一号残りは待つ。食料車は最短駅を先に一つ。戻って残りを運ぶ」
「貨物側の同意」
運転士が黙る。
沈黙を同意へ数えない。
「八拍」とイヴァ。
一拍。
貨物運転士が食料箱を見る。
二拍。
四両目の呼吸器音。
三拍。
雷鎖が青く震える。
四拍。
テトが帽子の鍔を二度叩く。
五拍。
サナが手袋を替える。
六拍。
イヴァの心拍が一度飛ぶ。
七拍。
八拍目。
「四両目、受ける」と貨物運転士。
「条件」
「医療駅まで。戻りの電力を公共線が負担。食料遅延を全駅へ公開」
「成立」
「契約じゃねえ」
「運行条件」
「言葉遊びか」
「言葉を分けないと、救命費が食料を受ける村の借金になる」
貨物運転士は鼻を鳴らす。
「成立でいい」