第16話 第八章「天頂門」後編
一度。
二度。
五度。
「ビン」
サラが板へ手を置く。
光の中に短い景色。
上層港。
雲漁船。
助けを呼ぶ夫の姿。
声は届かない。
現在地だけ。
それでも十分だった。
「上へ着いた」
サラは夫の名を呼ぼうとして喉を一度鳴らした。別々の道が別れになる恐怖は消えない。それでも、上着の留め具を回す手を止める。
「ビンは、上へ着いた」
名前で言い直してから、泣きながら笑う。
「助けを連れて戻る」
彼女の行き先は、今すぐ夫を追うことから変わった。
広場で帆を直し、戻ってくる船を受け入れる。
アカリは地図の線を更新する。
――ビン、上層港。
――サラ、発着場。
――次、再会。
一本の線へ重ねず、二本の先へ同じ印を置く。
「アカリ!」
帰還路の奥で、今の地図が剥がれかける。
ハルガ一人では押さえられない。
アカリは薬箱の紐を締め、光の流れへ入った。
「どこへ!」
マツバ婆が叫ぶ。
「朝火を受け取る場所!」
「まだ来てない!」
「来る!」
「カナタが言ったから?」
アカリは一瞬だけ止まる。
「違う」
薬箱を持ち直す。
「私が受け取るって決めたから!」
待つ側であることを、動かないことと同じにしない。アカリの嫉妬もそこにあった。カナタだけが上の空を見て、自分は地上へ残された。その怒りを、受取場所を作る仕事へ変える。
光路は天頂門へ引く。
アカリは逆らい、祭壇側へ一歩を置く。
自分の旗に標術はない。
足場も出ない。
それでも、地図へ書いた現在地が白く光り、今の床だけは消えなかった。
一歩。
次。
フィオが風を渡す。
トウヤが傾いた床を上へ押す。
セルクが距離を数える。
「祭壇まで、十二歩!」
「数えないで! 長い!」
「誰かに似た!」
アカリは十二歩を自分で進んだ。
途中、昔の祭壇が三つ重なる。
どれも朝火を抱えている。
けれど、今の祭壇だけが空だった。
白札を置く。
――アカリ。
――現在、朝火なし。
――次、受け取る。
「ここ!」
薬箱を祭壇の脇へ置く。
まだ何も来ていない空間へ、両手を差し出した。
待つことと、待っているだけは違う。
受け取る場所を作り、返事を送り、来たときに手を伸ばせるようにする。
それも一つの仕事だった。
最初に旗を上げたのは、フィオだった。
「フィオ! 中央広場の上! 次は南の迷子を迎えに行く!」
翼の紋が光る。
上へ引かれていた風が横へ分かれた。
次にトウヤ。
「トウヤ! 南橋! 次は逆さ滝の見張りだ!」
昇標の光が、天頂門ではなく橋の支柱へ向く。
マツバ婆が薬師の旗を上げる。
「マツバ! 中央薬場! 次は家で薬を煮るよ!」
鍛冶師。
畑守。
鐘番。
子どもたち。
一人ずつ。
違う言葉。
違う行き先。
同じ村だからといって、同じ一歩ではない。
白札が地図へ戻る。
上向き矢印に細い亀裂が入った。
「もっと!」
アカリは薬箱を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
「カナタ! 聞いて!」
天頂門で、白旗が震えた。
五回。
旗竿を握るカナタの手へ、村の声が流れ込む。
『中央広場!』
『南橋!』
『家へ!』
『迷子のところ!』
『逆さ滝!』
一つとして、天頂門へ来るとは言っていない。
「返事だ」
カナタは笑った。
涙で顔がぐしゃぐしゃのまま。
「何が可笑しい」
ザンバの黒い線は、父の旗の手前にある。
「俺、また聞いてなかった!」
「今さらか!」
ルゥが怒鳴る。
「今、聞いた!」
カナタは白旗を抜くのをやめた。
代わりに、旗の中央へ手を当てる。
一本の上向き矢印。
自分が全員へ押しつけた道。
「これは違う」
はっきり言う。
矢印に亀裂が走った。
一つ。
二つ。
何百もの細い線へ割れていく。
「村から、天頂門へじゃない」
カナタは目を閉じた。
フィオの行き先。
トウヤの行き先。
マツバ婆。
アカリ。
自分には見えない場所まで、返事だけは届く。
「今いるやつから、そのやつが行きたい場所へ!」
白旗が大きくはためいた。
一本の巨大な光路が砕ける。
砕けた光は消えず、村中へ降る。
一人の足元へ、一枚。
その人が向いた先へ、一歩分だけ。
フィオの前。
トウヤの前。
マツバ婆の前。
アカリの前。
誰の道も、最初から最後までは作らない。
最初の一歩だけ。
次を踏むかは、その人が決める。
《未踏路》が置けるのは、いつも一歩分だけ。今見えている場所か、今まさに返事をしている相手の手前まで。最後の一歩は本人が踏み、踏まなければ光板は消える。
「《未踏路》!」
白旗の紋が生まれた。
一本の矢印ではない。
無数の細い道。
互いを押し潰さず、端と端で手を取り合っている。
中央には、大きな空白。
これから出会う道のための場所。
ルゥの目が見開かれる。
「カナタ、旗!」
「出た!」
「喜ぶのはあと!」
村へ散った一歩は、まだばらばらだった。
橋へ届かないもの。
崩れかけた家の途中で切れるもの。
ルゥは残った銀鋲を拾う。
曲がったもの。
折れたもの。
一本ずつ、光路へ投げた。
「標術――《継ぎ路》!」
銀糸が走る。
フィオの道を、迷子のいる屋根へ。
トウヤの道を、逆さ滝の見張り台へ。
マツバ婆の道を、自宅の薬炉へ。
同じ一本にはしない。
違う行き先のまま、必要なところだけつなぐ。
「道は一本じゃなくても、村はばらばらにならない!」
天頂門から下方へ、無数の細い光が広がった。
巨大な樹の枝のように。
あるいは、村から世界へ伸びる根のように。
ザンバの黒い線が揺れる。
「混乱だ」
「違う!」
カナタは答える。
「みんなが自分で決めてる!」
「終わりのない道が増えるだけだ!」
ザンバは黒旗を振り下ろした。
《万路終断》の刃が、何百本もの細道へ落ちる。
一本目を切る。
フィオが次の一歩を踏む。
別の位置へ道が生まれる。
二本目。
トウヤが踏み直す。
三本目。
マツバ婆が杖を置く。
終点の先へ、生きている者が次を選ぶ。
切っても。
切っても。
道は同じ場所には戻らない。
黒い刃に亀裂が入った。
「なぜ終わらん!」
「歩いてるやつが、まだ終わりって言ってない!」
カナタはザンバへ向かって走る。
一歩。
黒線が切る。
次の一歩。
ルゥの銀糸がつなぐ。
三歩目は、ザンバの正面ではなかった。
その右。
黒旗を持つ機巧腕の外側。
ザンバが振り向く。
「相手にも一歩踏ませると言ったな」
「ああ!」
「俺は踏まん」
「じゃあ、選べ!」
カナタは白旗を、ザンバの足元へ突く。
二枚の光板が生まれた。
一枚は天頂門。
父の旗を切る道。
もう一枚は、崩れかけた門の支柱。
今にも落ちる石環を支える場所。
「どっちへ行くかは、お前が決めろ!」
ザンバの片目が揺れた。
十年前。
門。
アステル。
切ろうとした旗。
失った右腕。
同じ選択に見えて、同じではない。
今度は、目の前に生きている者たちがいる。
「選べると思うか」
「俺は決めない!」
その瞬間、天頂門の下からミチバミが飛び出した。
裂け目を砕き。
無数の光路へ牙を立てる。
操具を失っても、道を食う本能は残っている。
巨大な一本路が消え、細道が増えたことで、どれを食うか迷うように頭を振る。
最後に、最も強い道を見つけた。
朝火を抱えた黒旗。
「ザンバ!」
ミチバミが口を開く。
無数の細道を前に、尾が左へ何度も円を描く。一本道なら終点まで食べずにいられない獣が、誰のものとも決められない分岐の数に初めて迷っていた。
ザンバは父の旗ではなく、支柱側の光板を踏んだ。
機巧腕で崩れる石環を受ける。
「門を支えろ!」
カナタが叫ぶ。
「命令するな!」
「頼む!」
「もっと早く言え!」
黒旗を竜へ向ける。
「《終点》!」
ミチバミと朝火の間に、黒い線。
竜の進路が一歩ぶん消える。
牙が空を噛む。
朝火が黒旗の石突から外れた。
金色の結晶が宙へ飛ぶ。
「取る!」
カナタが白旗を突く。
「朝火の手前!」
一歩分の光板。
踏む。
あと一歩。
朝火は落ちる。
天頂門の下。
底のない空。
「最後は自分で!」
ルゥが叫ぶ。
「おう!」
カナタは光板から跳んだ。
指が朝火へ届く。
掴む。
同時に、ミチバミの尾が横から迫る。
ルゥには銀鋲がない。
ザンバは門を支えている。
下から、白い光が一本押し返された。
アカリが札で示した受取場所。
フィオが渡した風。
トウヤが支えた床。
ハルガとオウギが固定した現標。
村人たちが一歩ずつ受け渡した道が、帰還路を通ってカナタの足元へ一枚だけ現れる。
誰か一人の標術ではない。
カナタが置いた最初の一歩へ、村から返された二歩目だった。
「アカリ!」
踏む。
体が尾の上へ跳ぶ。
カナタはミチバミの背へ着地した。
「朝火、帰すぞ!」
竜の首を走る。
白旗を突く。
「帰還路の入口!」
一歩分の光板。
ルゥが両手で最後の銀糸を引く。
自分の髪に挿していた、最も短い一本。
「《継ぎ路》!」
朝火と、下方へ伸びる白路がつながる。
金色の光が道へ乗った。
「村まで全部作るな!」
「最初だけ!」
カナタは朝火を光板へ置く。
一歩。
結晶が進む。
その先は、村から伸びた何百本もの返事が受け取った。
人から人へ。
橋から橋へ。
今いる場所を確かめながら、朝火が下っていく。
ミチバミが追おうとする。
ザンバは支柱を片腕で支えたまま、折れかけた黒旗を振る。
「その道は終わりだ」
黒い線が、竜の足元だけを切った。
ミチバミは空中で体勢を失う。
長い胴が門の外周へ巻きつき、そのまま逆さ滝の裂け目へ落ちていった。
遠くで怒った咆哮。
「死んだ?」
カナタが訊く。
「道を食って戻るだろう」
「よかった!」
「村を壊した獣だぞ」
「操ったお前が言うな!」
「それはそうだ」
ザンバが認めた瞬間。
黒旗が中央から裂けた。
朝火を失った布は、夜色を保てない。
割れた羅針盤の紋が崩れ、細い破片になって風へ散る。
門を支える機巧腕も軋む。
「ザンバ!」
「先に村を見ろ」
下方。
金色の光がカゲノハ村へ届いた。