第17話 第九章「朝の道」前編

朝火が祭壇へ戻ったとき、カゲノハ村の苔灯りは一つずつではなく、ばらばらに灯った。

薬場。

南橋。

機巧小屋。

家々。

今そこにいる者が、自分の灯りを受け取るように。

最後に中央祭壇の結晶が輝く。

枝全体へ金色の筋が走った。

灰色に枯れかけていた樹皮が、ゆっくり色を取り戻す。

「戻った……」

アカリは帰還路の中心で膝をついた。

地図の白札が、朝火の光に照らされている。

昔の村は消えていない。

今の村の下へ、何層もの道として静かに沈んだ。

マツバ婆の若い家。

アカリの病室。

ルゥの古い作業場。

誰かの大切だった場所。

それらを踏み潰さず、現在の印が一番上に置かれている。

「カナタは?」

ハルガが上を見る。

白路の向こう。

天頂門の光がまだ揺れている。

アカリは薬箱を五回叩いた。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

返事はすぐに来た。

かん。

かん。

かん。

かん。

かん。

今、ここ。

「生きてる」

アカリは笑った。

その場へ座り込む。

「寒い」

マツバ婆にだけ届く、一語の弱音だった。祖母は報告を一つも聞かず、まず寝台を指した。

「地図は?」

「フィオへ渡しな。今は孫の番だよ」

ようやく、膝が震えていることに気づいた。

天頂門では、帰還路の白い光糸が太くなっていた。

村が現在地を置き。

朝火が戻り。

門を支える重さが、死者一人の旗から生者たちの印へ分かれ始める。

ザンバの機巧腕へかかっていた負荷が軽くなった。

「離せるぞ!」

カナタが叫ぶ。

「言われなくても分かる」

ザンバは支柱を押し戻し、一歩下がった。

機巧腕の肘から火花。

裂けた黒旗は、竿に細い布を残すだけ。

ルゥが近づく。

「腕、見せて」

ルゥは左手で髪を結び直そうとして失敗した。指の反動痛は残っている。それでも右手の精密作業は譲らない。

「必要ない」

「落ちる」

「落ちん」

機巧腕が肩から外れかける。

「落ちてる!」

ルゥは曲がった銀鋲を一本拾い、包帯ごと肩へ打った。

《継ぎ路》

弱い光糸が腕を一時的につなぐ。

「敵を直すのか」

「今、門を支えた人を直した」

ザンバは右の機巧腕を、左の生身の手で受け止めた。敵の手当てを受け入れることは、許されたと決めることではない。その違いを言葉にできず、情報を一つ抜いたまま黙る。

「同じだ」

「違う」

ルゥは即答した。

ザンバは何も言わなかった。

朝火が戻っても、天頂門の揺れは止まらなかった。

父の旗から下へ伸びる白糸は、十年ぶんの記憶を抱えている。

今の村へつながる糸。

昔の家へつながる糸。

すでに誰も覚えていない道。

全部が門の中心へ集まり、風化した旗竿を引いていた。

みしり。

アステルの竿へ新しい亀裂。

「抜く!」

カナタが手を伸ばす。

「待って!」

ルゥが腕を掴む。

「父ちゃんの旗だ!」

「帰還路の支点!」

「持って帰る!」

「抜いたら村が落ちる!」

カナタは止まる。

目の前に父の旗。

手を伸ばせば触れられる。

十年間、家へ帰ってこなかった父の一部。

持ち帰りたい。

自分の家へ立てたい。

村人に見せたい。

「ずっと、ここへ置くのか」

「今は」

ルゥは門の構造を見る。

「村の現標が増えれば、負荷を分けられる。でも、一度に全部は移せない」

「父ちゃんを道のまま使う?」

「使うって言い方は嫌」

「じゃあ何だ」

ザンバが裂けた黒旗を支えに立つ。

「あいつが選んだ場所へ、今いる者の支えを足す」

「お前が言うのか」

「ああ」

「切ろうとした」

「ああ」

「今度は残す?」

「今はな」

カナタは父の旗を見る。

「今は、ここ」

カナタは手を引いた。

代わりに、自分の白旗を父の旗の横へ突く。

「何する気?」

「父ちゃんの負担を一歩ぶん持つ!」

「一歩だけ?」

「俺の力、それしか出ない!」

白い光板が、アステルの旗竿の下へ生まれる。

門の重さを一呼吸だけ受ける。

ルゥは父の旗と光板を銀糸でつなぐ。

「一歩が消える前に、現在路へ分ける!」

村から届く白札の光。

場所。

時刻。

持ち主。

行き先。

返事。

それぞれへ細い糸を伸ばす。

しかし、過去の糸が多すぎた。

現在の道と同じ家へつながる、古い家。

生者と同じ名を呼ぶ、死者の残照。

どれを残し、どれを消すか、ルゥには決められない。

「ザンバ!」

「俺へ切れと言うのか」

「勝手に全部は切らないで!」

「では、何を終える」

「今の返事がない道!」

ルゥは五つ目の穴が光らない糸を示す。

「帰る人も、待つ人も、今はいない。記録だけが同じ場所を回ってる道」

「誰かがあとで思い出すかもしれん」

「記録は残す。門を支える力だけ外す」

「違いは」

「道として動かすのを終える。覚えていたことは消さない」

ザンバは黒旗の残りを見る。

「できるか分からん」

「やる前から言うな!」とカナタ。

「お前にだけは言われたくない」

ザンバは一本の古い糸へ旗先を当てる。

景色が浮かぶ。

三百回、同じ戸口へ帰る男。

家はもうない。

待つ人もいない。

それでも記憶だけが『ただいま』を繰り返している。

「終えるぞ」

誰へともなく言う。

返事はない。

黒い線を、糸の途中ではなく、門を支える接続部へ置く。

《終点》

光の男は消えなかった。

一度だけ戸口へ着き。

『ただいま』

景色として白い布の奥へ収まる。

門を引く力だけがほどけた。

「できた!」

「一つだ」

「次!」

「命令するな」

「頼む!」

「遅い」

ザンバは二本目へ。

三本目。

ルゥが現在の返事を確かめ。

カナタが一歩分の支えを出し。

ザンバが、役目を終えた糸だけを道から外す。

三人の作業は遅かった。

朝火が村へ着いても、数十本しか終えられない。

けれど、父の旗竿の亀裂は広がらなくなった。

「全部、今日やる?」

カナタが息を切らす。

「無理」とルゥ。

「できるまで!」

「村へ帰るのが先!」

「じゃあ、続きは?」

ルゥは父の旗の横へ、小さな現標杭を立てた。

――保守途中。

――次の作業者へ。

「残す」

「途中で?」

「途中だから」

カナタは白杭を見る。続きを次の作業者へ渡す札だった。

「分かった」

「本当に?」

「分からないけど、札がある!」

「少し違う!」

門の重さが静まった。

そのとき、天頂門の中心で、アステルの旗が内側から光った。

風化した布から、白い粒がこぼれた。

人の形になる。

ぼさぼさの黒髪。

赤い上着。

笑うと片方だけ上がる眉。

「父ちゃん」

カナタは一歩近づく。

光のアステルは、こちらを見ているようで見ていない。

十年前に残された記録。

決められた順に、声が流れる。

『これを見てるなら、門まで来たか』

「来た!」

返事は待たない。

『来たのがカナタじゃなかったら、すまん。次のやつへ伝えてくれ』

「俺だ!」

「記録よ」とルゥが小さく言う。

「分かってる!」

分かっていても答える。

アステルは旗の根元へ手を置く。

『帰還路は、帰るやつの記憶を足場にする』

光の背後に、いくつものカゲノハ村が浮かぶ。

『だから、道だけ残すと、いつか昔の村が今の村を押す』

カナタとルゥが顔を見合わせる。

『今いるやつが、今の印を足せ』

アステルは笑った。

『昔の印だけでは、今の村を見失う』

カナタの胸が強く痛む。

父は自分が帰れないことを知っていた。

それでも、村が変わることまで止めようとはしなかった。

『道は、一人で完成させるな』

白い旗の中央へ、何もない空間を示す。

『俺が足りなかったところは、そのとき生きてるやつに任せる』

記録が一度乱れた。

光のアステルが別の方角を向く。

『ザンバ』

男の肩が動く。

『お前がこれを見てるなら、まだ怒ってるな』

「……勝手に決めるな」

『二十年ぶん怒ってから、続きを選べ』

「十年だ」

『俺の分まで門を見ろ、とは言わない』

アステルの声が少しだけ低くなる。

『お前の行き先は、お前が決めろ』

ザンバは顔を背けた。

片目の下に流れたものを、誰も指摘しなかった。

記録は最後に、カナタのほうへ向く。

『カナタ』

名前を呼ばれた。

光のアステルは、同じ角度で右の犬歯を見せ、同じところで息を吸う。今の問いへ答える父ではない。それでも、生前に一度はこの言葉を選んだ父の記録ではある。

たったそれだけで、十四年間こらえていたものが崩れた。

「父ちゃん」

『お前がどこへ行きたいか、俺には決められない』

「世界の果て」

『道がなかったら、自分で一歩置け』

「置いた!」

『でも、二歩目を誰かが踏むまで、道になったと思うな』

ルゥが鼻をすすった。

「今それを言う?」

『それから――』

光が薄くなる。

カナタは手を伸ばす。

指は父の肩を通り抜けた。

『行ってこい』

「……おう」

『たまには帰れ』

その言葉の元が、幼いカナタの冗談だったかもしれないことを、記録は教えない。父は現在の問いへ新しく答えず、同じ句を残すだけだった。

カナタは唇を噛む。

帰る。

どこへ。

父のいる昔ではない。

今いる人たちが変えていく村へ。

まだ、その言葉をうまく言えない。

だから、出発の言葉だけを返した。

「行ってきます!」

アステルは笑った。

光の粒へほどける。

父の旗へ戻る。

白い布は門に残った。

道も残る。

ただし、その下方には、村人たちが置いた現在地の光がいくつも輝いている。

もう一人の死者だけが支える道ではない。

カナタは自分の白旗を見た。