第18話 第九章「朝の道」後編

無数の道が手を取り合う金色の紋。

中央の空白。

「これ、何ていう標術だ」

ルゥが訊く。

《未踏路》

「前と同じ?」

「一歩しか出ないのも同じ!」

「成長してないみたいに言わないで」

「でも、誰の一歩か聞くようになった」

「そこは成長」

ザンバが裂けた黒旗を拾う。

「帰るぞ」

カナタが振り向く。

「お前も?」

「朝火を奪い、村を落としかけた」

「うん」

「弁償する」

「いくら?」

「知らん」

「アカリが数えてる」

「誰だ」

「薬を待ってた子。今は配達するほう」

「そうか」

ザンバは足元に落ちていた普通の石を左手で拾い、しばらく見てからカナタへ渡した。

「門の石だ」

「何でもない石だぞ」

「だから持て」

カナタは四つ目の石として上着へ入れた。誰と拾ったかで覚えるものが、また一つ増える。

ザンバは天頂門を一度だけ見上げる。

門の向こう。

深い青の空。

二十年追い続けた景色。

今は、くぐらなかった。

「見なくていいのか」

カナタが訊く。

「今は、帰る」

「帰る場所ある?」

「ない」

「じゃあ、村へ来い!」

「お前が決めるな」

「弁償先!」

「それなら仕方ない」

ルゥがため息をつく。

「先に機巧腕を直す。途中で落とされたら、弁償する人が減る」

「減らない。腕の弁償が増える」

「厳しいな」

三人は帰還路へ向いた。

今度の道には、昔の景色と一緒に、現在の白札が立っている。

――カゲノハ村、中央広場。

――朝火、帰還済み。

――待機者、百八十二名。

――次の行き先、各自。

「読める?」

ルゥが訊く。

「数字が多い!」

「最後は?」

「各自!」

「そこだけ?」

「大事そうだ!」

三人は同じ道へ一歩を置いた。

けれど、それぞれの帰る理由は違っていた。

帰還路を下りきったとき、カゲノハ村には朝があった。

本物の太陽ではない。

祭壇へ戻った朝火が、枝葉の隙間へ金色の光を送っている。

苔灯りより温かく。

いつもの鐘より少し早く、人々の顔を照らす光。

中央広場には、村中の者が集まっていた。

光路の出口から最初に出たのは、カナタだった。

赤い上着は裂け。

顔は煤と涙の跡だらけ。

白旗には、今までなかった金色の紋。

「カナタ!」

歓声が上がる。

子どもたちが走る。

大人も。

マツバ婆は杖を忘れている。

村長が一歩前へ出た。

「おかえり」

広場のあちこちから、同じ言葉。

「おかえり!」

「よく戻った!」

「朝を持ってきた!」

カナタは口を開いた。

ただいま。

言えばいい。

けれど、胸の中に父の声が残っている。

今見えている村と、記憶の村がまだ完全には分かれていない。

自分がどこへ帰ったのか、言葉にするには少し早かった。

白旗の中央ではなく、端をつまんでいる。帰る場所が変わっていることを受け入れるには、まだ布一枚ぶんの距離が要った。

代わりに、朝火を高く指さした。

「朝、持って帰ったぞ!」

歓声がさらに大きくなる。

誰も気にしなかった。

アカリだけが、少し離れた場所で聞いていた。

薬箱を抱え。

胸の前に、紙の白旗。

カナタと目が合う。

「着いたって言って」

「着いた!」

「どこに?」

「カゲノハ村!」

「帰還路で見えた村と、同じ?」

カナタは広場を見る。

昔にはなかった白札。

崩れた南橋。

朝火を受けるため作られた仮設台。

薬を待っていた少女が、配達人のように立っている。

「分からん」

正直に答えた。

「でも、ここにはお前がいる」

「今いる場所の返事としては、合格」

アカリは笑った。

まだ「ただいま」を求めなかった。

帰還路が何を見せるのか、二人ともまだ知らなかった。

ルゥが帰還路から出る。

ハルガは弟子の姿を見るなり、両腕を広げた。

ルゥも一歩走る。

ハルガは両腕の焼け跡で工具を呼び分ける師匠らしく、抱きしめるより先に弟子の指へ視線を落とした。銀鋲の残りは一本。左手は髪を結べない。

抱きつくかと思われた。

次の瞬間、師匠の頭を工具箱で叩いた。

「作業場を昔の形へ戻しかけたでしょ!」

「帰って最初がそれか!」

「私の新しい棚が消えてた!」

「朝火がなかったんだ!」

「固定札を増やして!」

「もう増やした!」

「どこ!」

「設計台の下!」

「見えない!」

「見える場所だとカナタが抜く!」

「正しい!」

「俺、何もしてない!」

最後にザンバが現れた。

広場の声が止まる。

裂けた黒旗。

壊れかけた機巧腕。

朝火を奪った男。

村を落とそうとした者。

誰かが石を拾った。

別の者が鍬を構える。

ザンバは抵抗しなかった。

広場の中央へ進み、裂けた旗を地面へ置く。

「朝火を奪った」

短く言う。

「ミチバミを連れ込み、道を切り、村を落としかけた」

「知ってる!」

トウヤが叫ぶ。

「それで?」

「弁償する」

アカリが前へ出た。

薬箱から細長い板を取り出す。

すでに数字が何列も書かれていた。

「朝火一個」

「戻した」

「盗んだことは消えない」

「そうか」

「南橋、十二歩ぶん」

「直す」

「家、三軒」

「直す」

「苔玉、二十四個」

「直す」

「泣いた子ども、十九人」

ザンバが初めて困った顔をした。

「どう直す」

「自分で考えて」

「難しいな」

「それから、死んだと思った人、村中」

板の最後に、大きな空白。

「これは数字にできない」

「分かった」

「分かっただけじゃ消えない」

「ああ」

アカリは板をザンバへ渡す。

「だから、持ってて」

「許すのか」

「許すって書いてない」

「厳しいな」

「弁償」

ザンバは右の機巧腕ではなく、左の手で板を受け取った。名前のない損害へ逃げず、誰が泣いたかをあとで一人ずつ聞くためだ。

ザンバは板を受け取った。

マツバ婆が人垣から出て、ザンバの機巧腕の接続部をいきなり嗅いだ。

「焦げとる。座りな」

「拘束前だ」

「患者が先だよ、ザンバ」

敬語も英雄扱いもない。罪人ではなく、痛みを隠す一人として呼ばれ、ザンバは一瞬だけ返事を失った。

村長が村人たちを見回す。

「拘束し、監視下に置く。傷の手当てはする。働けるようになれば、復旧へ使う」

「使うって言い方!」とルゥ。

「本人が弁償すると言った」

「そうだけど!」

ザンバは両手を差し出した。

セルクが標具の縄を巻く。

「逃げるか」

「逃げる道は、今の俺にはない」

嘘ではない。ただ、自分一人なら天頂門へ戻れる保守路を知っていることは言わなかった。逃げないという選択を、道がないせいにした。

カナタが横から言う。

「作ればいい」

「作るな」

「じゃあ残る?」

「お前が決めるな」

「弁償がある!」

「それは残る理由になる」

広場の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。

朝火が枝の上で脈打つ。

光を受け、白札の文字が一枚ずつ鮮明になった。

村長はそれを見上げる。

「今日の六つ鐘は、まだ鳴らさん」

「もう朝なのに?」とカナタ。

「数え直す」

村長は朝火を指した。

「この村の一日は、今からだ」

村の一日を数え直した最初の音は、鐘ではなかった。

空から来た帆の音だった。

ばさり。

ばさり。

枝葉の上で、何枚もの大帆が風を受ける。

「船!」

見張りが叫ぶ。

村人たちが身構える。

ザンバの仲間か。

ミチバミが戻ったのか。

枝葉を押し分けて現れたのは、青い雲漁船だった。

船首に、ビンが立っている。

黒い足場を上へ進み、上層港へ助けを呼びに行った男。

その後ろに、二隻。

三隻。

朝火の予備片、支柱材、薬、水を積んだ小型船が続く。

「カゲノハ村!」

ビンが旗を振る。

「返事を受け取った! 着港場所はどこだ!」

村人たちは顔を見合わせた。

これまで、外から来る船を受け入れる港などなかった。

発着場は、村人が上枝へ作業へ出るための小さな台。

三隻を並べる幅はない。

「今作る!」

カナタが白旗を抜く。

「休んで!」とルゥ。

「一歩だけ!」

「標力が空!」

白旗を振る。

何も出ない。

「本当に空!」

「だから言った!」

ハルガが南橋の余り板を指す。

「一隻ずつ、橋へ横づけ! トウヤ、船底を上げろ! フィオ、帆を絞る風!」

「俺たちで?」とトウヤ。

「ほかに誰がいる!」

トウヤの昇標が船底を支える。

フィオの翼風が速度を落とす。

サラは夫の船へ青い索を投げる。

ビンが受け取る。

別々の道へ分かれた二人の手が、村の上でつながった。

最初の一隻が南橋へ着く。

橋は大きく沈んだ。

壊れなかった。

「着港!」

カナタが叫ぶ。

「橋よ!」とルゥ。

「今から港!」

村長が沈む板を見た。

「補強すれば、使える」

「本当に港にするの?」

アカリが訊く。

「外から来た者が、もういる」

村長は三隻の船を見る。

「道が開いたなら、入口も要る」

上層の船員たちが村へ降りる。

彼らの多くは、カゲノハ村を知らなかった。

「こんな下枝に村が?」

「天頂門の帰還路は、ここへつながっていたのか」

「朝火の匂いが違う」

村人たちも、上層の装備を珍しそうに見る。

同じ天樹に生きながら、知らない言葉。

違う旗の形。

村が世界の端ではなく、一つの途中になる瞬間だった。

アカリは薬箱を持って、船員へ一人ずつ訊く。

「名前。船。今いる場所。次の行き先」

「何の受付?」

「迷子にならないため」

「この村で?」

「村が変わるから」

船員は首を傾げながらも答えた。

アカリの地図へ、初めて村の外から来た名前が入る。

その日の終わり。

六つ鐘を鳴らす前に、カナタは自分の家へ戻った。