第19話 第十章「朝のあと」前編
広場の宴へ残れと何人も引き止めた。
焼き茸。
朝火で温めた根酒。
登枝士の歌。
けれど、父の部屋を一人で見たかった。
玄関には、扉が二つ重なっている。
今の鉄の取っ手。
昔の木の取っ手。
朝火が戻ったため、古いほうは薄い。
それでも消えていない。
カナタは今の取っ手を握る。
「帰ったぞ」
家は返事をしない。
ただいま、とは言わなかった。
二階へ上がる。
アステルの部屋。
机の箱は開いたまま。
ルゥが借りた現標板の場所だけ空いている。
カナタは父の椅子へ座った。
大きすぎると思っていた椅子は、以前ほど大きくなかった。
自分が成長したからだ。
机の傷。
窓の景色。
どれも出発前と同じに見える。
けれど、父が死んだと知った自分は同じではない。
「てっぺんで待ってないのか」
誰へともなく言う。
胸が痛む。
泣きたくない。
もう天頂門で泣いた。
それでも涙が落ちる。
「待ってなくても、行くからな」
机へ顔を伏せる。
扉が三回叩かれた。
こん。
こん。
こん。
「父ちゃん?」
顔を上げる。
「違う」
アカリの声。
「入るよ」
「三回だった!」
「五回は場所の返事。三回は普通の戸」
「決まったのか!」
「今決めた」
アカリは食事の入った籠を持っていた。
片手に地図。
肩に薬箱。
「村長から。食べないと倒れるって」
「宴のほうが多い!」
「行けばいい」
「今はここ」
アカリは部屋へ入らず、戸口へ座った。
「父親、いた?」
「記録」
「何て?」
「行ってこい。たまには帰れ」
「帰った?」
カナタは返事に詰まる。
「村には」
「家には?」
「いる」
「同じじゃない?」
「分からん」
アカリはそれ以上聞かなかった。
籠から黒パンを一つ渡す。
カナタは冷え切ったパンへ息を吹きかける。
「熱くない」
「分かってる」
「じゃあ何で」
「今、帰る場所を決めてる」
食卓の二脚を思い出しているのだと、アカリには分かった。
「村で何があったか、聞く?」
カナタは世界の上で見た星。
逆さ滝。
父の野営地。
ザンバとの戦い。
話したいことが山ほどあった。
けれど、鐘を渡す前の約束を思い出す。
自分の話より先に、今の村を聞く。
「聞く」
アカリは地図を広げた。
フィオが誰を助けたか。
トウヤがどの橋を支えたか。
サラとビンが別々の道で何をしたか。
マツバ婆が何人へ薬を渡したか。
昔の家へ入って戻らなかった者が一人もいなかったこと。
朝火を受け取る祭壇まで、アカリが十二歩歩いたこと。
カナタは途中で何度も口を挟んだ。
「俺の道、見えた?」
「大きすぎた」
「格好よかった?」
「迷惑だった」
「でも最後は!」
「人の話を先に聞く約束」
「続けて!」
アカリが全部話し終えたころ、六つ鐘が鳴った。
カナタはまだ父の椅子に座っている。
けれど、家の中に今の村の声が増えていた。
「次、俺の話!」
「眠い」
「星を見た!」
アカリの目が開く。
「どんな?」
「小さかった!」
アカリの片方の口角だけが上がり、すぐ消えた。
「私も見たかった」
初めて、置いていかれた嫉妬を仕事の言葉へ変えずに言う。
「次は一緒に――」
カナタの右足が先に出る。
「乗るかは私が決める」
「聞く!」
「それだけ覚えて」
「それだけ?」
「遠かった!」
「次」
話は夜が終わっても続いた。
朝のない村で、初めて鐘の外側まで起きていた夜だった。
復旧には、三か月かかった。
正確には、三か月たっても終わらなかった。
南橋は以前より広くなった。
橋の中央には、昔の細い縄を一本だけ残した。
歩いてきた形を忘れないため。
家を失った三軒は、同じ場所へ戻さなかった。
一軒は中央広場の近く。
一軒は畑の上。
最後の一軒は、天頂門から来る旅人が泊まれるよう、発着場のそばへ建てた。
「旅人が来るの?」
アカリが訊くと、村長は答えた。
「道は開いた」
「出ていく道?」
「入ってくる道でもある」
それから村は、少しずつ外へ顔を向け始めた。
枝葉の一部を切り、朝火の光を集める鏡を置いた。
ハルガとルゥが設計した《朝葉機関》。
ただし二人の図面は同じではない。ハルガは「三本減らせ」と言い、ルゥは「減らすことを目的にしない」と言い返した。師は弟子の新しい重さ分散へ対抗心を燃やし、朝一番の槌をわざと一度外してから、夜中に別案を試した。正解だけを渡す師弟ではなかった。
太陽はまだ一日に三分しか見えない。
それでも、朝火を葉の裏へ反射させれば、広場だけは毎日少し明るくできる。
最初の日。
カナタが鏡の角度を勝手に変え、光を村長の寝室へ集中させた。
「朝を早く届けた!」
「窓が燃えた!」
「明るかっただろ!」
「弁償!」
アカリの板へ一行増えた。
帰還路の入口には、アステルの試作品《現標》を実用向けに作り直した白い札が立つようになった。村では、そのまま現標札と呼んだ。
家の場所。
道の状態。
住んでいる者。
札は毎月書き換える。
アカリが紙札へ日付を残し、セルクが更新の規則を作り、オウギとハルガが白杭を固定した。
消した文字は捨てず、裏へ日付を入れて残す。
「昔の札を捨てたら、どこで間違えたか分からなくなる」
南橋へ誤って置いた札も、赤線を引いたまま保管棚に残った。
彼女はマツバ婆の薬を運ぶだけでなく、村中の便りを届けるようになった。
朝は薬場。
昼は南橋。
夕方は発着場。
紙の白旗を薬箱へ差し、道のないところはカナタの真似をして跳んだ。
最初の一度で屋根から落ちた。
フィオが受け止めた。
「鍋蓋を使えばよかった?」
「それだけはやめて」と村中から止められた。
ルゥが機巧小屋へ戻ると、古い作業机にはハルガの新しい弟子が座り、引き出しと工具穴を勝手に増やしていた。
「私の机!」
「使っていいって師匠が!」
ルゥは穴を確かめた。
「いい穴ね。怒るけど」
机は取り返さず、隣へ自分の作業台を作った。壁には逆さ銀樹の絵と、まだ形の定まらない第一歩号の設計図を貼る。カナタが鍋蓋を描き足すたびに消したが、翌日にはまた増えていた。
「空白だから何にでもなる!」
「設計図の空白は、鍋を描く場所じゃない!」
ザンバは拘束を解かれたあとも、毎朝セルクの監視を受けた。
作業場では椅子を必ず壁へ背を向けない位置に置く。甘い樹液菓子を渡されると、毒でも疑うように匂いを嗅いでから食べる。子どもたちは最初それを怖がり、三日目には同じ真似をして笑った。ザンバは笑わず、椅子の脚を半指だけずらした。
南橋の修理。
ミチバミが食った道の調査。
天頂門の支柱補強。
黒旗の《終点》は、布が裂けてからほとんど使えない。
それでも剣技と登枝の知識だけで、村の誰より高い場所へ登った。
子どもたちは遠巻きに見る。
十九人のうち、一人が近づいた。
「黒旗」
「もう黒くない」
裂けた布は、ルゥが灰色の糸で縫っていた。
「じゃあ灰旗」
「好きに呼べ」
「ミチバミ、友達?」
「違う」
「カナタは友達になるって」
「そのうち食われる」
「腹の中から登るって」
「似た親子だ」
ザンバはため息をついた。
子どもは弁償板の端へ、小さな丸を一つ書いた。
「何だ」
「今日、泣かなかった印」
「そうか」
十九人の欄から、一つだけ数字が減った。
全部が消える日が来るかは分からない。
アカリは減らすたび、元の数を裏へ残した。
復旧の十五日目、ユワとククリは南橋の索を張り直した。
今度はユワが移動側へ出る。
「三つで。先に行く」
「行ける――いや、現在地、北端。固定輪、二本」
ククリは声では姉を送り出しながら、縄を必要以上に短く持った。掌が焼ける前にフィオが手を添える。
「支えるのは、止めることじゃない」
ユワが最後の板へ着き、初めて弟へ固定側の手袋を投げ返した。
二人の役目は、事故前と同じ一枚へ戻らなかった。
第一歩号を造る話は、復旧二十日目に始まった。
きっかけは、上層港から来た救援船の一隻が、帰りの風路で船腹を割ったことだった。
船は小さな貨物艇。
朝火炉は古い。
帆柱は一本傾き。
船首には、前の持ち主が何度もぶつけたへこみ。
「俺の船に似てる!」
「まだあんたの船じゃない」
ルゥは船腹へ頭を入れたまま答える。
「直せば飛ぶ」
「じゃあ俺の船!」
「持ち主に聞いて!」
持ち主の雲運び商人は、修理代を払えなかった。
代わりに、船体を村へ置いていくと言った。
「上で新しい船を買う。これは下枝へ物を運ぶには重すぎる」
「世界の果てへ行くには?」
カナタが訊く。
「もっと向かない」
「ちょうどいい!」
「何が!?」とルゥ。
「直す場所がいっぱいある!」
「船は修行道具じゃない!」
ハルガは船体を一周し、樹皮へ数字を書いた。
「村の復旧材を優先する。余った部品だけで組む」
「余りで世界の果てへ行く!」
「格好よく言うな」
船には、村中から余り物と技術が集まった。
ダンは留め具を「次に鳴る音が静かな順」へ並べ、ラドは妹を家守と呼びながら船腹の梯子を組んだ。トノ爺は屋根を削られた借りだと干し茸棚の古板を差し出し、ネルカは薬棚を一つ増やす条件で救護布を積んだ。
「村の席を守るんじゃない」
ダンは二つ目の作業椅子を船内へ打ちつけた。
「隣へ、新しい席を作る」
ただし、何を載せるかで三人は毎日ぶつかった。