第22話 第十一章「返事の鐘」後編

四歩目で、鍋蓋が発着場の旗索を引っかけた。

村中の洗濯物が一斉に空へ上がる。

「壊してない!」

「持っていってる!」

アカリは弁償板へ書く。

――洗濯物、二十七枚。帰着時に返すこと。

第一歩号は、白い布を尾のように引きながら上昇した。

朝見台は、天頂門を越えた先にある小さな観測枝だった。

昔、カゲノハ村へ一日に三分だけ差し込む太陽を測るために使われていた場所。

枝葉が伸び、空が塞がってからは放置されている。

アステルの帰還路が天頂門へ残ったあとも、誰も直しに行かなかった。

第一歩号は逆さ滝を避け、ルゥが選んだ緩い風路を上った。

「遅い!」

「安全!」

「逆さ滝なら一刻!」

「昨日、アカリが配達で使った道を試航に使う意味がない!」

「競争できる!」

「誰と!」

「昨日のアカリ!」

「時間を相手にしないで!」

天頂門では、オウギとセリが保守索を上げた。

五回、白杭を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

船の鐘が微かに震えた。

「返事!」

カナタが腰へ手を当てる。

「今は近いから」とルゥ。

「遠くても返る!」

「今朝、発着場から船へ届かなかったでしょ」

「柵には届いた!」

「柵を乗員にしないで!」

ザンバは門の脇を通るとき、アステルの旗へ目を向けた。

門を支える光糸は、以前より細い。

代わりに、何本もの新しい保守杭へ荷重が分けられている。

「一人の旗ではなくなったな」

「父ちゃんの旗だぞ」とカナタ。

「だからこそだ」

ザンバはそれ以上言わなかった。

門を越える。

空が広がった。

カゲノハ村では一日に三分しか見えない太陽が、そこには当たり前のようにあった。

第一歩号のつぎはぎへ光が落ちる。

赤。

青。

古い木。

新しい銀糸。

違うものが、初めて同じ昼の下に見えた。

カナタは船首へ立ち、口を開けたまま空を見る。

「大きい」

「太陽が?」

「空が」

世界の果ては、まだ見えない。

けれど、見えないものがあると分かるだけの広さがあった。

「試航が終わったら、こっちへ行く」

「どっち」とルゥ。

「全部!」

「方角を聞いた!」

朝見台は、門から四十分ほどの枝陰にあった。

石の床は半分崩れ。

古い日時計には苔。

見張り小屋の屋根は、太陽を知らない茸に持ち上げられている。

第一歩号は三度旋回した。

「着ける場所がない!」とカナタ。

「壊れてるから!」

「作る!」

「今日は標力を帰りに残す!」

ルゥは船首の鍋蓋を、低速用の重舵として開いた。

二枚が風を受ける。

船体が激しく揺れる。

「働いた!」

「揺れ方で風向きが分かる!」

「役に立った!」

「設計した役目ではない!」

ザンバが船尾から錨を投げた。

古い石柱へ巻く。

第一歩号は朝見台の外側へ横づけされた。

カナタが最初に飛び降りようとする。

「待って」

ルゥが白札を渡す。

「何」

「現在地」

「着いてから書く!」

「踏む前に、どこへ踏むか決める」

札の表には、崩れた日時計と三本の石柱、茸に持ち上げられた屋根。裏には、無傷だった昔の朝見台が描かれていた。

「表の、今見えてる朝見台へ降りて」

「分かった!」

カナタは表の札を白旗へ巻いた。

「この朝見台へ!」

一歩分の光板。

船と枝の間。

最後の半歩は空いている。

カナタは自分で跳んだ。

石床へ着地する。

「到着!」

「返事を待って!」

船の鐘を五回叩く。

少し遅れて、掌へ弱い震え。

門。

その下。

村の方向。

一本ではない何かが、途中で五回ずつ返している。

「今、ここ」

カナタは笑った。

三人で朝見台を直した。

正確には、ルゥは工具箱を三度叩き、壊れた日時計を調べ。

ザンバは右の機巧腕で屋根を持ち上げ、左手で落ちてきた釘を一本ずつ受け取り。

カナタが茸を引き抜こうとして、胞子を全部浴びた。

「俺だけ青い!」

「作業内容が違う!」

白札を石柱へ立てる。

――朝見台。

――日時計、故障。

――屋根、仮補修。

――滞在者、三名。

――次の更新、七日後。

カナタは最後の行へ指を置いた。

「次は誰が来る?」

「村から交代で。現標札は、あんた一人の旗じゃない」

「最初に立てたのは俺!」

「札を書いたのは私」

「石柱を起こしたのは俺だ」とザンバ。

帰着予定まで、あと半刻。

第一歩号へ戻る。

ルゥが現標板を更新した。

――現在地、朝見台。

――次の行き先、カゲノハ村。

――返事、微弱。宛先、未確認。

「帰るぞ!」

カナタが操舵輪へ手を伸ばす。

ルゥが先に叩いた。

「触らない!」

「帰り道は知ってる!」

「知ってるから試すの!」

天頂門から、細い金色の糸が朝見台まで伸びていた。

船に埋めた白杭と、アステルの旗が呼び合っている。

「一呼吸だけ乗る。変だと思ったら、すぐ外す」

「村まで行けば早い!」

「試験は、帰ることより止められることが先」

ザンバが灰旗の石突を、試験索へ当てた。

「終える場所は、この朝見台だ。先の記憶には触れん」

ルゥは銀鋲を現標板へ一本打つ。

「現在札を離さないで。見えたものへ勝手に飛ばない」

「父ちゃんがいても?」

「特に」

「難しい!」

「だから試験!」

カナタは白旗を掲げた。

「カゲノハ村へ!」

帰還路が光った。

第一歩号の前に、金色の道が開く。

まっすぐ。

村へ向いているように見えた。

「簡単!」

船が光路へ乗る。

一歩。

二歩。

三歩目で、道が三つに分かれた。

「簡単じゃない!」

右の道には、カナタの家。

玄関に、昔の木の取っ手。

発着場には父アステルが立っている。

白い旗を肩へ担ぎ、笑っている。

右手を上げる。

一度。

少し間を置いて、また同じ角度。

生きた返事ではない。十年前の身振りが、同じ速さで繰り返されている。

「父ちゃん」

カナタの声が低くなり、右足が半歩出る。父は同じ角度で手を上げ続け、問いを変えても身振りを変えない。記録だと分かっているからこそ、今の父へ返事をもらえない痛みが残る。

左の道には、ルゥの機巧小屋。

古い作業机。

見習いの少年が開けた穴はなく。

銀枝の絵もない。

旅へ出る前の道具が、一本も動かず並んでいる。

『戻せる』

誰かの声。

『出る前と同じに』

ルゥの手が、工具帯の古い鍵へ伸びかける。

指の痛みも、後輩が増やした穴もない机。自分がいなくても進んでいた工房を、出発前へ戻せる誘惑だった。

けれど、痛みのない手は自分の手に見えなかった。

中央の道には、天頂門の野営地。

ノマ。

ゴウ。

イサ。

バスク。

若いころのザンバが、焚き火の前で黒旗を磨いている。

『今度は、誰も分かれない』

ザンバの片目が細くなる。

椅子の脚を半指だけずらす代わりに、船尾の床へ左足を置き直した。怖いときほど動かない男が、今は自分から現在へ一歩を返す。

三本の光路が、第一歩号を別々へ引いた。

右舷の板が軋む。

左の帆が逆向きへ膨らむ。

船尾が中央へ沈む。

「帰る場所が三つ!?」

「場所の名前は一つ!」

ルゥは銀糸を三本へ伸ばす。

触れた瞬間、別々の記憶が指へ流れた。

「帰還路が読んでるのは、地図だけじゃない。乗ってる人が帰りたい形!」

「現在札!」

カナタは朝見台の白札を握る。

今見た日時計。

茸の屋根。

青い胞子まみれの自分。

けれど、札は朝見台の現在地を示すだけだった。

その先の村を、どの形へ結ぶかまでは決めない。

「村の鐘!」

カナタが腰の鐘を五回叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

返らない。

「途中の杭!」

「三本の記憶へ震えが分かれてる!」

ルゥは銀鋲を鐘へ打った。

《継ぎ路》!」

銀糸が金色の帰還路へ伸びる。

一つ目は、昔の家へ。

二つ目は、古い作業小屋へ。

三つ目は、野営地へ。

どれも五つ目の穴を、自分の返事だと主張するように震えた。

「つながらない!」

「全部、向こう側があるぞ!」

「記憶の向こう側!」

ザンバの声が飛ぶ。

「今の者が返している証にはならん」

灰旗を抜く。

「切る?」

カナタが訊く。

ザンバは父の姿を見る。

古い机。

死んだ仲間。

「記憶を消せば、試験結果まで消える」

「じゃあ、どうする!」

「試験を終える」

船腹の緊急板が赤く光った。

残り十呼吸。

ルゥが操舵輪を片手で押さえる。

「一人ずつ、今いる場所!」

この船には、返事を聞き分ける専任者がまだいない。だから点呼は三人と一隻から始まり、聞く役も一人へ固定しない。今はルゥが問い、次はカナタが問い、ザンバも返事を省かない。

「第一歩号の船首!」とカナタ。

「操舵輪!」とルゥ。

「船尾」とザンバ。

「行き先!」

「朝見台へ戻る!」

三人の答えが初めてそろった。

帰る村ではない。

自分たちが今、目で確認できる最後の場所。

ルゥは現標板から朝見台の札を抜き、試験索へ巻いた。

《継ぎ路》! 船と朝見台の錨だけ残す!」

銀糸が一本になる。

三つの記憶は消えない。

父も。

机も。

野営地も。

ただ、第一歩号を引く試験索から外れる。

「ザンバ!」

「ここまでだ」

灰旗の黒い点から、短い線が一つ伸びた。

標術――《終点》

切ったのは、アステルの帰還路ではない。

朝見台で始めた試験の接続だけ。

金色の道が船の前で閉じる。

第一歩号は足場を失った。

「落ちる!」

「普通の空へ戻っただけ!」

「空には床がない!」

「だから飛空艇なの!」

ルゥが朝火炉を吹かす。

透明羽根が重さを拾う。

ザンバが錨を朝見台の石柱へ投げる。