第23話 第十二章「最初の旗」前編
カナタは白旗を突いた。
「朝見台の手前!」
一歩分の光板。
帰還路ではない。
目に見える枝へ向かう、ただの一歩。
第一歩号が乗り上げる。
船体が大きく跳ねた。
錨が張る。
朝見台の外側へ、もう一度横づけされた。
三人はしばらく何も言わなかった。
右の空には父もいない。
左に古い机もない。
野営地の焚き火もない。
あるのは太陽。
崩れた日時計。
青い胞子。
試験前と同じ朝見台。
「失敗?」
カナタが訊く。
「帰還路で村へ戻る試験は失敗」
ルゥは現標板へ書く。
――帰路、三分岐。
――乗員ごとに異なる帰着像。
――村側らしい五打、受信一瞬。
――帰着先の切替、不能。
――通常航路へ変更。
「でも、分かった」
「何が?」
「帰還路は、場所の記録だけを読んでない。帰る人の記憶を足場に混ぜる」
ルゥは五つ目の穴を指で叩く。
「それから、村側から何か返さないと、今の場所を区別できないらしい」
「返したら帰れる?」
「今日の返事では帰れなかった」
「もっと大きく!」
「大きさの問題かも分からない」
ザンバは野営地があった空を見る。
「記憶を切るだけでは、帰路にならん」
「お前が切らなかったの、珍しいな」
「試験結果を残した」
「会いたかった?」
「答える必要はない」
「顔で分かる!」
「分かっていない顔だ」
第一歩号は帰還路を使わなかった。
太陽の位置。
天頂門の白い環。
セリが上げた格子旗。
目で確認できる通常航路を、一つずつ下った。
帰着予定は一つ鐘後。
実際に発着場へ着いたのは、二つ鐘と半刻後だった。
途中、船尾へ引いていた洗濯物九枚を逆さ滝へ落とし。
天頂門で三枚を回収し。
残り六枚はセリが翌日の便で返すことになった。
「配達未了!」
「船は無事!」
「両方、試験結果!」
発着場が見える。
朝葉機関の鏡。
広くなった南橋。
旅人宿の赤い屋根。
今見えている村。
第一歩号は帰還路に乗らず、普通の風を受けて近づいた。
「右!」とルゥ。
「右に旗索!」
「左!」
「左に鐘塔!」
「下!」
「発着場!」
「そこへ!」
「最後に前を禁止した!」
第一歩号は仮設台へ降りた。
船首の鍋蓋が、洗濯籠を一つだけ押した。
倒れない。
「着地成功!」
「籠を動かした!」
「壊してない!」
「珍しく!」
アカリが走ってくる。
最初に船腹を五回叩く。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
カナタが五回返す。
「今、ここ!」
「見えてる」
「でも返事!」
「試験は?」
ルゥが現標板を渡した。
「失敗」
アカリは板を読む。
字の多いところはセルクへ渡した。
「五回、届いた?」
「一瞬だけ。朝葉機関みたいな音と、金槌と、薬箱」
「私の箱?」
「分からない」
「道は変わった?」
「変わらなかった」
アカリは自分の返事板を見る。
――一回目、旧柵へ誤配。
――二回目、南橋へ誤配。
――三回目、船側らしい震え。相手未確認。
「次は、もっと今の村を知らせる」
「知らせるだけで足りるか分からない」
ルゥは即座に返した。
「人の名前?」
「多いほど記憶と混ざるかもしれない」
「音?」
「同じ音を昔も聞いてたら?」
「今日の日付?」
「帰還路が日付を読めるか分からない」
「じゃあ、全部試す」
「一つずつ」
アカリは現標板へ新しい札を差した。
――帰着先、カゲノハ村。
――帰路詳細、未確認。
――次回試験、方法未定。
「未定が多い!」
「本当のこと」
カナタは父のいた古い発着場を思い出した。
行けば会えたかもしれない道。
ルゥは、誰にも使われていない机を思い出した。
ザンバは、別れる前の野営地を思い出していた。
どれも嘘だとは言い切れない。
どれも、今日の発着場そのものではなかった。
「出航、やめる?」
アカリが訊く。
カナタの答えは早かった。
「行く!」
「帰り方、分からないのに?」
「だから、道を探す!」
「帰る道も?」
「世界の果てへ行く道も!」
ルゥがため息をつく。
「問題を二つに増やした」
「最初から二つあった!」
「気づいてなかっただけ」
ザンバは灰旗を船尾へ戻す。
「帰路を知らない船ほど、現在地を失うな」
「お前、監視役らしいこと言った!」
「今だけだ」
夕方。
アカリは発着場の床へ座り、試航の記録を三つに分けた。
赤い糸で囲ったのは、誤りではなく《引かれた記憶》。カナタ、ルゥ、ザンバで糸の色を変え、一枚へ重ねない。自分だけが正しい管理者にならないため、判断保留の空白も残した。
カナタが見た村。
ルゥが見た作業小屋。
ザンバが見た野営地。
一枚へ重ねない。
その横へ、今日のカゲノハ村の地図を置く。
どの紙にも、正解とは書かなかった。
「次に使う?」
カナタが訊く。
「比較する」
「帰るため?」
「何が違うか知るため」
アカリは薬箱を閉じた。
蓋のへこみが、夕方の光を受ける。
「次は、間違えた橋の位置も持っていく」
「間違いを?」
「どの記憶に引かれたか分かるかもしれない」
「失敗が役に立つ!」
「だからって増やさないで」
カナタは現標板へ、自分の名と《現在地、カゲノハ村》を書いた。
次の行き先は空ける。
「明日の一歩は、乗ってる人たちに聞いて決めて」
「分かってる!」
少し間を置き、カナタはアカリを見る。
「本当に乗らない?」
「乗らない。私は、こっちから返す方法を試す」
カナタは彼女の手を引かなかった。
鐘を一度叩く。
アカリも一度返した。
その一音は、今度は間違えず、目の前の相手へ届いた。
三か月と二日目の朝。
出航前の食卓で、カナタはまた二脚の間に立って黒パンを食べた。
父の椅子へ座るか、自分の椅子へ座るかではない。今日は船へ行く席を自分で増やす日だと気づき、窓辺の普通の石を三つ選んだ。
一つはアカリに投げられた試験場の石。
一つは天頂門でザンバから受け取った石。
一つは父がいなくなった翌朝の石。
残りは家へ置く。全部持っていけば、帰る場所を持ち去ることになる気がした。
カゲノハ村に、出航の鐘が鳴った。
ごおん。
いつもの一つ鐘とは違う。
村の外へ行く者と、村に残る者が同時に数え始めるための、新しい音。
鐘の下には、二枚の現標板が並んでいた。
一枚は村。
一枚は船。
村の板には、今日のカゲノハ村が書かれている。
朝葉機関、稼働。
南橋、通行可。
旅人宿、二室空き。
天頂門保守所、セリとオウギ。
発着場、第一歩号、出航準備中。
船の板には、三人の名。
カナタ。
ルゥ。
ザンバ。
四人目の欄には、乗員ではなく《地上連絡・アカリ》とある。
「消すなよ!」
カナタが言う。
「船に乗ってない人が乗員欄にいる!」
「乗員欄の外」
アカリは板の縁を指す。
「道の外じゃない」
「近い!」
「違う」
ルゥは船側の板を一度外し、全員が見える高さへ置いた。
髪の銀鋲は十本ではなく八本。二本は第一歩号の機関へ使い、戻ってきたら別の誰かに改造される余地として残した。
「昨日の規則。出る前に、次の一歩を全員で決める」
「世界の果て!」
「長い行き先は聞いてない」
「逆さ銀樹」とルゥ。
「自分も長い!」
「だから、今日の一歩を別に決める」
航路図を広げる。
天頂門の外。
東へ流れる交易風路。
その先に、小さな中継港の印がある。
「まず、東風路の交換点。そこで水と食料を補給して、外海の地図を買う」
「地図なしで行けば、新しい道を見つけられる!」
「地図があっても新しい道はある!」
「俺の行き先は、そこから世界の果て!」
「私は、逆さ銀樹へつながる機巧航路を探す」
二人がザンバを見る。
「お前は?」
男は灰旗を肩へ担ぐ。
「今日の行き先は、お前たちと同じ交換点だ」
ザンバは椅子を船尾の壁へ背を向けない位置へ固定し、弁償板を左手で確かめた。許されたから乗るのではない。反対されながら翌日の仕事を渡された、その日常へ入るために乗る。
「その先」
「決めていない」
「世界の果てへ行かない?」
「お前の果てと、俺の果てが同じとは限らん」
カナタの眉が動く。
以前なら、同じ船に乗るなら同じ場所へ行くと言っていた。
今は、少し考える。
「途中で分かれる?」
「必要なら」
「戻る?」
「弁償板が残っている」
「じゃあ、また会う」
「勝手に決めるな」
「会いたくなかったら?」
「そのとき言う」
「聞く!」
ルゥが現標板へ書く。
――最初の行き先、東風路交換点。
――長い行き先、未定。乗員ごとに別記。
その下へ三つの小札。
カナタ――世界の果て。
ルゥ――逆さ銀樹。
ザンバ――空白。
「俺と同じ!」
「お前の空白は、行く場所が多すぎる空白だ」とザンバ。
「俺のは、まだ選んでいない空白」
「どっちもこれから描く!」
「一緒にするな」
最後に、帰着欄。
アカリがカナタへ筆を渡した。
「書いて」
「字が多い」
「村の名前」
「カゲノハは難しい!」
「じゃあ、絵」
カナタは板へ描く。
大きな枝。
その上に家。
広い南橋。
朝葉機関らしい四角。
旅人宿の屋根。
最後に、へこんだ箱を背負う人。
「私?」
「村!」
「私が村なの?」
「今いるから!」
「明日、配達でいなかったら?」
「書き直す!」
アカリは絵の横へ小さく添えた。
――帰着先、カゲノハ村。帰路詳細、未確認。
板の五つ目の穴が、弱く震えた。
遠く。
南橋。
逆さ滝。
天頂門。
セリとオウギが、出航の合図を五回ずつ返している。