第24話 第十二章「最初の旗」後編
まだ音にはならない。
途中の誰かの手を通り、発着場の白杭へ細い振動だけが届く。
「返事試験、第一便」
アカリが言う。
「もう始まってる!」
カナタが鐘を五回返す。
「まだ村にいる」とルゥ。
「今、ここ!」
「正しいけど近い!」
発着場の人々も、足元を五回叩いた。
船に乗る者も、残る者も、門にいる者も、出航前に互いの現在地を数えた。
発着場には、村の古木、南橋の余り板、天頂門の白杭をつないだ小型飛空艇《第一歩号》が浮いていた。左右の帆は色違いで、船首には飛行性能にほとんど貢献しない鍋蓋が二枚。
「ほとんどってことは、少しは貢献する!」
カナタが胸を張る。
「風を受けて船を揺らす」とルゥ。
「働いてる!」
「悪い方向に!」
ルゥは工具帯と自分の旗を背負い、船内の作業台には逆さ銀樹の絵を貼っていた。
ザンバは船尾に立っていた。
灰色に縫われた旗。
黒い布は細く残り、割れた羅針盤の紋は消えている。
代わりに、中央へ小さな黒い点。
そこから、まだ一本も線は伸びていない。
「監視役!」
村長が呼ぶ。
「船長が進路を誤ったら止めろ」
「善処する」
「止められる?」とルゥ。
「無理なら落とす」
「俺を!?」
「船長だけだ」
「船は守るのか!」
「弁償中だ」
アカリは発着場の端に立っていた。
薬箱は、もう薬だけの箱ではない。
便り。
現在地の札。
小さな工具。
村側の返事の鐘。
蓋のへこみは直していない。
カナタが最初に薬を届けた日の跡。
彼女は一枚の板を差し出した。
「今日のカゲノハ村」
新しい地図。
朝葉機関。
旅人宿。
広くなった南橋。
天頂門へ続く階段。
以前の地図とは、もうかなり違う。
「持っていって」
「帰り道?」
「帰還路が何を出すか分からないから、今の地図も持っていく」
「住所?」
「試航で見えた三つの景色と比べる」
「もっと変わったら?」
「新しいのを送る」
「どうやって?」
「考える」
「気合い?」
「最後」
「使うんだ!」
カナタは地図を受け取った。
読める文字は少ない。
それでも、中央に大きく書かれた三文字は分かる。
カ。
ナ。
タ。
その横に、小さな印。
――出航中。
「俺、地図にいる!」
「今は発着場にいるから」
「出たら?」
「船の鐘を五回叩いて、自分で場所を教えて」
「分からなかったら?」
「迷子って書く」
「冒険中!」
「迷子」
「広く探してる!」
「迷子」
「ルゥ!」
「迷子」
「ザンバ!」
「遭難だ」
「ひどい!」
村人たちが笑う。
村長が白い布を一枚、カナタへ渡した。
登枝士の仮証。
本来なら紋章と番号が入る。
今は、金色の一歩だけ。
「選抜試験は中止になった」
「受かってない!?」
「試験場を壊した者がいた」
「ザンバ!」
「主に竜だ」
「俺じゃない!」
「だが、天頂門へ至り、村へ道を戻した」
村長は仮証をカナタの上着へ留める。
「正式な等級は、次の試験所で決めてもらえ」
「何て名乗ればいい?」
「自分で決めろ」
カナタは白旗を高く掲げた。
無数の道が手を取り合う紋。
中央の空白。
「《未踏路士》カナタ!」
「そのまま!」
「分かりやすい!」
「珍しく!」
ユワとククリが二色縄を外し、発着索の両端へ立った。
「固定、私」
「移動、俺――じゃない。今日は船が移動」
「次は入れ替える」
二人は同じ結論へ同時にそろえず、それでも一本の縄を渡した。
ルゥの古い作業机を使っている見習いの少年が、工具箱を抱えて前へ出た。
「これ」
渡したのは、小さなねじだった。
頭の溝が斜めに切られ、普通の工具では回しにくい。
「失敗作?」とルゥ。
「新しい留め具。揺れると締まるはずだった」
「だった?」
「昨日の試航で一個、緩んだ」
「失敗ね」
少年の肩が落ちる。
ルゥはねじを工具帯へ入れた。
「だから持っていく」
「使うの?」
「直す。どこで緩んだか、船の傷が覚えてる」
「机は?」
「使っていい。でも、変えた場所に日付を書いて」
「元へ戻さなくていい?」
「戻したいところは戻す。残したいところは残す。私が帰ったとき、一緒に決める」
少年は頷き、古い机の鍵を自分の胸へ戻した。
ルゥは取り上げなかった。
ザンバの前には、泣いた子ども十九人のうち、最初に近づいた子が立った。
弁償板へ、今日の小さな丸を一つ書く。
「今日は?」とザンバ。
「泣いてない」
「そうか」
「でも、許してない」
「ああ」
「帰ってきたら、また数える」
「帰らなければ」
「アカリが探す」
「俺まで配達物か」
「弁償する人」
子どもは灰旗の端を一度だけつまむ。
黒い布ではなく、ルゥが縫った灰色の糸のところ。
「切らない旗にして」
「できるとは言わん」
「じゃあ、選んで」
ザンバは返事をしなかった。
代わりに、弁償板を外套の内側へ入れた。
置いていかないことだけを、答えにした。
アカリは最後に、三枚の小さな白札を船へ渡した。
一枚目には、カナタの名。
二枚目には、ルゥ。
三枚目には、ザンバ。
裏はすべて空白。
「何を書く?」とカナタ。
「その日にいる場所」
「毎日?」
「できる日」
「返事が来なかったら?」
「来てないって残す」
「心配する?」
「する」
「じゃあ、絶対返す!」
「返せない日もある」
「ない!」
「ある」
ルゥが割って入る。
「炉が止まる。嵐へ入る。鐘が壊れる。寝る」
「寝ながら叩く!」
「間違った回数になる!」
アカリは三枚を現標板の棚へ入れた。
「返事がないことと、いなくなったことを同じにしない。でも、次に返せるときは返す」
「五回!」
「五回」
カナタは小さな鐘を腰へ結び直した。
紐は、薬箱の古い留め紐から作られている。
出発する者と、残る者を、持ち運べる細さでつないでいた。
ダンは船腹を最後に一度叩き、ネルカは救護棚の患者札が一人分ずつ分かれているか確かめた。トノ爺は干し茸袋を渡しながら、出口に近い足へ重心を掛けたままぼやく。
「あー、屋根を削るなら、今度は茸代も払え」
「帰ったら!」
「日付を言え。父親みたいにするな」
カナタは口を開き、冗談へ逃げかける。
「……次に帰った日」
「まだ曖昧だが、前よりましだ」
笑い声の中、マツバ婆が前へ来る。
「たまには帰るんだよ」
「父ちゃんと同じこと言う!」
「親より年上だからね」
ハルガはルゥへ工具を一つ渡す。
「古い型だ。使わなきゃ捨てろ」
「捨てない。作り替える」
「そうしろ」
セルクはザンバへ新しい弁償板を渡す。
「外で稼いだ分は村へ送れ」
「監視役なのか徴収役なのか分からんな」
「両方だ」
トウヤとフィオは、発着場の索を外す。
「次は俺が先に天頂門へ行く!」とトウヤ。
「競争じゃない」とフィオ。
「でも行く!」
「私は先に迷子を減らす」
「地味!」
「今の村には必要」
それぞれが、自分の次を口にする。
第一歩号の帆が膨らむ。
朝火炉へ金色の火。
船体が少し浮く。
「船長!」
ルゥが操舵輪の前から叫ぶ。
「出航の言葉!」
カナタは船首へ立ち、自分が生まれ、父が道となって守り、自分がいなくても変わっていく村を見る。
右膝が寒い朝の一歩だけ遅れた。今度は「助走」と呼んでごまかさず、船縁を一度掴んでから立ち直る。ルゥは見ていたが、代わりに歩かない。アカリも薬箱を差し出さない。カナタが自分で申告し、補う余地を空ける。
「膝、痛い!」
「今言えた」とルゥ。
「出航後に診る」とアカリ。
「今止めないのか!」
「歩ける範囲は本人が決める」
今は、出発の言葉を選ぶ。
「行ってきます!」
村中から返る。
「行ってこい!」
「帰ってこい!」
「船を壊すな!」
「それは無理!」
「努力しろ!」
第一歩号が発着場を離れる。
カナタは船首の最後の段を跳び、小さく言った。
「到着」
「今は出航!」
「船首へ到着!」
一歩。
空へ。
白旗が風を受ける。
カナタは腰の鐘を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
今、ここ。
アカリが村側の鐘を五回返す。
音は届かない。
それでも、カナタの掌へ小さな震え。
次の瞬間。
「カナタ、前!」
ルゥが叫ぶ。
「見えてる!」
「発着場の新しい柵!」
「避ける!」
「右!」
「右に鐘塔!」
「左!」
「旅人宿!」
「上!」
「枝!」
「じゃあ前!」
「柵!」
第一歩号の船首が、新設したばかりの柵を真ん中から折った。
鍋蓋は無事だった。
「出航成功!」
「失敗!」
「浮いてる!」
「弁償が増えた!」
アカリは板へ一行書き足す。
――発着場の柵、一基。
その下に、別の行。
――第一歩号、現在地、村の外。
――次の行き先、未定。
薬箱を閉じる。
空へ小さくなる船を見送ったあと、アカリは村へ背を向けなかった。
南橋へ向かう。
今日の最初の配達がある。
宛先は、天頂門の保守所。
今までは村の誰も届けたことのない場所。
橋の途中は、まだ道が切れている。
アカリは紙の白旗を立てた。
へこんだ薬箱の角を親指で三度なぞり、左手で最初の宛先札を書く。角を丸く切り、誤るかもしれない余白を赤糸で囲う。
「道がないなら」
へこんだ薬箱を背負い直す。
「最初の一歩になればいい」
一歩を踏む。
世界の果てへ向かう船と。
故郷から新しい道を始める少女。
二つの足跡が、別々の方角へ伸びていく。
そのどちらが最初だったのかを、決める必要はなかった。
誰かが返事をし、二歩目を重ねたとき。
足跡は、道になる。
了