第25話 第一章「返事のない二十二日」前編

道がないなら、最初の一歩になればいい。

けれど、一歩だけなら、それは足跡だ。

離れた誰かが「聞こえた」と返し、その先へ二歩目を重ねて、初めて道になる。

カナタは、自分が一歩を置けば、みんなも同じ先へ来ると思っていた。

カゲノハ村を出て、二十二日目。

飛空艇《第一歩号》は、順調に同じ港へ三度近づいていた。

「見ろ、ルゥ! 新しい島だ!」

船首に立ったカナタが、雲海の向こうを指さした。

右足だけが、船首板の継ぎ目を半歩越えている。怖いときも、待ち切れないときも、カナタの体は答えより先へ出た。白旗の中央ではなく端をつまんでいるのは、同じ景色を三度見たことへ、本人なりに迷いがある証拠だった。

けれど迷っているとは言わない。代わりに、冷めた朝茸へ一度息を吹きかけ、見つけた島の名を勝手につける。

「青靴下島!」

「地名を洗濯物で決めないで」

朝日に照らされた丸い島が浮かんでいる。

中央には白い塔。

塔を囲むように、赤い屋根の町が何重もの輪を作っている。

島の縁には、十二本の石桟橋。

一番手前の桟橋の横で、青い靴下が一足、風に揺れていた。

操舵輪を握るルゥの額に、青筋が一本増えた。

金髪へ挿した銀鋲は、危険度の低いものから右、高いものほど左に並ぶ。腹が立つと一本ずつ抜く癖があり、今は二本が指の間にあった。

操舵輪の脇へ置いた工具箱は、さっき蓋を三回叩いて閉じたばかりだ。閉めた。持った。忘れていない。そう手へ覚えさせるための三打だった。

ただし左手首は、二十二日ぶんの《継ぎ路》で朝から痺れている。痛みを隠す日は、技術用語がいつもより増えた。

「あれ、三時間前にも見た」

「似た島だろ」

「塔の右に、青い靴下」

「世界には同じ靴下を干す人が二人くらいいる」

「左の崖に、昨日あんたがつけた船首の跡」

「世界には同じ場所へぶつける俺が二人――」

「増えるな!」

ルゥが操舵輪を蹴った。

第一歩号が大きく傾く。

甲板へ積んだ木箱が一斉に滑り出した。

そのうち一箱を、灰色の外套を着た男が片手で止める。

「三度目だ」

ザンバは日除けの下へ置いた椅子から立ちもしなかった。

右腕は黒い包帯と銀の留め具で覆われている。

背中には、灰色の旗。

かつて夜より黒かった布を、ルゥが灰糸で縫い直したものだ。中央には小さな黒い点だけがあり、そこから先へ伸びる線はまだない。

木箱を止めたのは、黒い機巧の右腕だった。何かを切る、支える、壊す仕事は右。受け取るときだけ、ザンバは生身の左手を出す。

椅子は日除けの中央ではなく、背後に壁も帆柱も来ない位置へ半指ぶんずらしてある。逃げ道を塞がない癖だ。外套の内側には、完済したものまで捨てない弁償札と、干し蜜果が一つ。甘い物は食べる前に必ず匂いを嗅ぐため、カナタには毒見だと思われていた。

「島を三周。食料は残り五日。朝火炉は七日。水は、船長が昨日、洗濯桶へ旗を落としたため一日ぶん減った」

「乾かせば戻る!」

「水は旗から搾れない」とルゥ。

「気合いで!」

「水に気合いを要求しない!」

第一歩号は、カゲノハ村中の余りものを集めて造った小型飛空艇だった。

船体はつぎはぎ。

左右の帆は色違い。

船首には、飛行性能にほとんど貢献しない鍋蓋が二枚。

船長は、道のない場所へ一歩ぶんの足場を作る《未踏路士》。ただし方向音痴。

航路機巧師は、切れたものを一時的につなぐ《継ぎ路》の使い手。ただし船長へ工具を投げる。

監視役兼護衛は、元黒旗の登枝士。ただし本人も監視されている。

世界の果てを目指す船として、足りないものを数えるほうが早い。

進む意志だけは、積み荷からはみ出すほどあった。

「私は東風路交換点へ向かってる」

ルゥは操舵輪の脇へ、航路図を広げた。

紙には、カゲノハ村から上層港へ続く細い線。

そこから東へ流れる交易風路。

そして、その先に小さな中継港の印。

「昨日も東だった」とカナタ。

「あんたが夕方に『星が左にあるから北だ』って舵を切った」

「星は北を教える!」

「一個しか見えてなかった!」

「迷ったときは、見えてるものを信じろって父ちゃんが!」

「見えてない地図も信じて!」

ザンバが船縁の外を見る。

「地図は間違っていない」

「ほら!」

「島が船を引いている」

カナタとルゥが同時に振り向いた。

島の中央で、大きな銀の旗がはためいている。

布には閉じた円の紋章。

風は第一歩号の後ろから吹いていた。

帆も外へ膨らんでいる。

それなのに船首は、ゆっくり島へ向き直っていた。

「帰り風だ」とザンバ。

「もっと分かりやすく!」とカナタ。

「港が、着けと言っている」

「礼儀正しい島だ!」

「三回目はしつこい!」

ルゥが朝火炉の調整輪を回す。

船尾から金色の火。

第一歩号は島へ引かれる力に逆らい、半歩だけ外へ進んだ。

中央塔の鐘が鳴る。

ごおん――。

音が雲海を渡り、船腹を震わせる。

船首はまた島へ向いた。

その振動へ、別の小さな音が混じった。

こん。

カナタが腰へ手を当てる。

薬箱の古い留め紐で結んだ、小さな鐘。

カゲノハ村を出る朝、アカリから渡された《返事の鐘》だった。

「今、鳴った!」

「島の鐘に共鳴しただけ」とルゥ。

「五回返す!」

カナタは指で鐘を叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「現在地!」

「同じ島の周り!」とルゥ。

「カゲノハ村へ送った!」

「二十二日、一度も届いてない」

「今日届く!」

「昨日も言った」

帆柱の横には、五つ穴の《現標板》が固定されている。

一つ目――場所。

二つ目――時刻。

三つ目――持ち主。

四つ目――行き先。

五つ目――返事。

カナタ、ルゥ、ザンバの小札は、毎日そこへ差し込んだ。

カゲノハ村では、アカリが同じ形式の板へ、村の現在地を残しているはずだった。

実際、アカリは左手で現在図を書き、右手で荷を渡していた。人名札だけ角を丸く切り、間違えた線は消さず赤糸で囲う。急な冷えで眩暈が来るたび、へこんだ薬箱を親指で三度なぞり、自分の体調だけは記録から外そうとした。

マツバ婆はそのたび、配達簿の最上段へ《配達人・休憩一回》と勝手に書き足した。届ける側も現在地に数えるためだった。

出航初日。

カナタは五回叩いた。

返事なし。

二日目。

十回叩いた。

ルゥに五回へ戻された。

三日目。

寝ながら叩き、七回になった。

アカリが言ったとおり、返せない日もある。

それでも二十二日、一度も返事がなければ、心配しないほうが難しい。

「村、落ちてないよな」

カナタの声が少しだけ低くなる。恐怖が強いほど、彼の声は大きくならず地面へ沈む。右足がさらに半歩出て、白旗の端を握る指だけが強くなった。

「出た朝には落ちてなかった」とルゥ。

「今は?」

「分からない」

「帰る?」

ザンバが訊いた。

カナタは島を見る。

その向こうに、来たはずの空。

目には見えない。

「返事がないだけで帰ったら、アカリに怒られる」

「なぜ」とザンバ。

「返事がないことと、いなくなったことを同じにするなって言われた」

「覚えていたのね」とルゥ。

「大事なことは覚える!」

「東がどっちかも大事!」

「今は島!」

「話をそらした!」

カナタは現標板へ新しい札を差した。

場所の欄には、丸い島の絵。

中央に塔。

右へ靴下。

左へ船首のへこみ。

「何て書いた?」

「同じ島、三回目!」

「字で書いて」

「絵のほうが分かる!」

「靴下で場所を識別しないで!」

そのとき、島の崖下から、小さな影が飛び出した。

「今度こそぉぉぉーっ!」

一人の少女だった。

短い青緑色の髪。

大きすぎる風眼鏡。

背中には、黄色い布を張った手製の滑空翼。

右手に細い旗竿。

旗は半分しかない。

閉じた円を途中で切ったような紋が、布の端まで続いている。

少女は島から外へ向かって飛んでいた。

正面には第一歩号。

島の鐘がもう一度鳴る。

ごおん――。

少女の滑空翼が見えない風へ捕まった。

外へ進んでいた体が、くるりと向きを変える。

「また戻るぅぅぅ――って、なんで船がいるの!?」

「こっちも戻されてる!」

カナタが船首へ走る。

二つの進路は完全に重なっていた。

「ルゥ、右!」

「右に崖!」

「左!」

「左も崖!」

「上!」

「鐘索!」

「下!」

「港!」

「じゃあ前!」

「それが少女!」

カナタは白旗を抜いた。

無数の道が手を取り合う金色の紋。

中央には大きな空白。

「標術――《未踏路》!」

何もない空へ旗を突く。

「あの子の手前!」

一歩分の光板が生まれた。

カナタは船首を蹴る。

一歩。

光板。

その先へ跳ぶ。

「来ないで!」

「取る!」

「何を!?」

「全部!」

「答えになってない!」

二人は空中で激突した。

滑空翼がばらばらになる。

カナタは少女の腰を抱え、白旗を振った。

「第一歩号の甲板!」

光板が生まれる。

ただし、第一歩号の甲板ではなかった。

島の石桟橋の上。

「なんで!?」

「この島では、全部の行き先が港へ戻る!」

少女が叫ぶ。

光板が坂になった。

二人は桟橋へ転がる。

第一歩号も見えない風路へ引かれ、頭上を通過した。

「避けろぉぉぉ!」

ルゥの絶叫。

船首の鍋蓋が、港の大看板をなぎ倒す。

第一歩号は魚屋の天幕を巻き込み。

干し布を十二枚さらい。

最後は巨大な綿雲の山へ船首から突っ込んだ。

ぼふん、と白い霧が舞う。

しばらくして、綿雲の中からカナタの腕だけが突き出た。

「到着……!」

「三回目よ!」

看板がゆっくり倒れる。

表には、大きな青い文字。

――おかえりなさい、トマリギ島へ。