第26話 第一章「返事のない二十二日」後編
裏にも同じ言葉が書かれていた。
カナタの下敷きになった少女が、石畳へ拳を叩きつける。
「また戻ったぁぁぁ!」
その腰で、小さな鈴が五回鳴った。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
カナタの返事の鐘が、一呼吸遅れて震えた。
こん。
島の鐘とは違う。
遠い誰かが、今いる場所を知らせる音だった。
トマリギ島には、出航口がなかった。
到着口が十二か所あるだけだった。
「出る船がないから」
少女は壊れた滑空翼を抱え、港の修理台へ腰かけた。
名をナギという。
十四歳。
帰鐘塔の鐘守見習い。
左右の耳には、違うものがついていた。右へ欠けた青銅鈴。左へ、外の音を減らす薄い耳栓。鈴を鳴らすのは右手、返った音を青い帳面へ書くのは左手と決めている。問いと答えを、同じ手へ持たないためだった。
音へ集中すると目の焦点が外れ、人の顔より靴音を先に覚える。今もカナタの顔を見ず、苔を踏み抜く足音と、ルゥが工具箱を三回叩く音と、ザンバの椅子が半指ずれる音を順に聞いていた。
腰には小石袋もある。初めて聞いた声の場所で一つ拾い、名ではなく音の形を刻む。第一歩号の三人ぶんを入れるには、少なくとも三つ必要だと、もう見積もっていた。
そして今の衝突が、三十八回目の島外脱出失敗だった。
「三十八回!?」
カナタの目が輝く。
「すげえ! 三十七回も諦めなかったのか!」
「そこ褒める?」
ナギは風眼鏡を額へ上げた。
「普通は、三十八回も失敗したところを心配しない?」
「俺なら三十九回目を手伝う」
「今それを待ってた」
「話を進めないで」
ルゥが二人の間へ工具箱を置いた。
「まず、第一歩号の修理。港の弁償。食料と水。島の鐘の調査。そのあと出航」
「五番目に私の脱出」とナギ。
「入れてない」
「今入った」
「勝手に予定へ入らない!」
「船長がいいって」
「船長は何も考えずに言う!」
「考えてる!」
「三十九って数字だけ!」
ザンバは倒れた看板を起こしていた。
港の作業員が近づくたび、人々は一歩ずつ距離を取る。
灰色の旗。
黒い機巧腕。
顔の傷。
下層枝まで名の知れた元黒旗の登枝士だと気づく者もいた。
ザンバは何も説明しない。
看板を元の穴へ差し込み。
外れた石板を一枚ずつ拾う。
「監視役」
カナタが呼ぶ。
「何だ」
「俺たちの弁償、どれくらい?」
「看板一。天幕三。干し布十二。荷車二。滑空翼一。綿雲は元へ戻せば数に入らん」
「少ない!」
「前の二周で増えている」
「いつ数えた!」
「監視役だからな」
ザンバは外套の内側から、カゲノハ村でもらった弁償板を出した。
南橋。
苔玉。
家。
泣いた子ども。
その下へ、トマリギ島の欄を増やす。
「村へ報告する?」とナギ。
「返事が来れば」とルゥ。
カナタは腰の鐘を見る。
先ほど一度だけ震えたきり、静かだった。
「ナギの鈴、五回鳴った」
「私、鳴らしてない」
ナギは腰から小さな青銅鈴を外す。
小指の先ほど。
縁が一か所欠けている。
「島の外へ出ようとすると、ときどき勝手に鳴る」
「返事?」
「じいちゃんは、残響だって言う」
「誰の?」
「母さん」
ナギはそれ以上説明せず、修理台から立った。
「町を見れば分かる」
トマリギ島の町は、帰鐘塔を中心にした輪だった。
一つ目の環は港と倉庫。
二つ目は市場。
三つ目は家々。
その外側へ畑。
さらに外へ、十二本の到着桟橋。
道はどれも塔を中心に曲がっている。
外へ向かって歩いても、気づけば横道へ入り。
横道は緩い坂になり。
最後は塔の前へ戻る。
「さっきの魚屋、またあるぞ!」
カナタが指さす。
「同じ店」とルゥ。
「でも反対側から来た!」
「町を一周したの」
「早い!」
「道が短くされてる」
ルゥは石畳へ銀鋲を当てた。
「《継ぎ路》」
細い光糸が石の下へ潜る。
右へ。
左へ。
どちらも帰鐘塔の根元へ続いていた。
「島全体を一枚の布みたいに折って、端を塔へ縫いつけてる」
「便利だな!」とカナタ。
「どこへ行っても帰れる」
「どこへも行けない」
ナギが言った。
道端の配達人が、塔から外へ向かって走っている。
腕には青い小包。
「十一環の家へ!」
一刻後。
同じ配達人が反対側から塔へ戻ってきた。
小包は腕の中。
「また塔だ!」
もう一度走る。
市場では、外海の果物を描いた看板が色褪せていた。
店には島で育つ赤い実だけ。
靴屋の棚には、塔へ歩くための内向き靴。
外向きの靴は、片方だけ飾られている。
「揃いがないのか?」
カナタが訊く。
「外へ歩く人がいないから」と靴屋。
「俺が履く!」
「帰ってきたとき、足が逆になるよ」
「じゃあ二足買う!」
「弁償代から出さない」とルゥ。
町の子どもたちは、塔の絵を描いていた。
紙の中央へ白い塔。
その周囲に、閉じた円。
一人だけ、円の外へ小さな星を描いている少年がいた。
隣の子が消しゴムで星を消す。
「先生に直される」
「見たことないから?」とカナタ。
「帰ってこないものは、絵にしないって」
少年は紙の端を折り、星を内側へ隠した。
ナギが立ち止まる。
「レト」
少年が顔を上げる。
ナギと同じ年くらい。
茶色い髪を短く刈り、腰には船大工の木槌。
背中の旗には、小さな錨と開いた工具箱。
右眉の中央だけ、幼いころの火傷で毛が生えていない。そのため、出航の話を聞くと右眉だけ上がり、本人の意志より先に「行きたい」が顔へ出た。
腰の木槌は、話の句点代わりでもある。言い切るたび、こつ、と一度。考えるときは釘を長さではなく、曲がり方の順へ並べた。隠した星の絵の横にも、まっすぐな釘より先に曲がった釘が三本置かれている。
「三十八回目?」
「船が邪魔した」
「主にあんたが突っ込んだ」とルゥ。
「船は直す」とレト。
第一歩号を遠くから見て、目を細める。
「でも、次の翼は俺に相談して」
「分かってる人!」
カナタが両手を握る。
「鍋蓋は増やさない」とレト。
「分かってない!」
「一枚でも多い」
「今二枚!」
「だから」
ルゥとレトが同時にため息をついた。
「似てる!」とカナタ。
「全然」と二人。
ナギはレトの紙から、隠された星を見つける。
「外へ行きたい?」
「僕は港を作りたい」
こつ。木槌が紙の端へ句点を打つ。
「島の外に?」
「ここに」
今度の一打は、少しだけ強かった。外へ行きたい気持ちまで否定した音ではない。行きたいからこそ、戻る一枚目の板を誰かへ任せたくない音だった。
レトは帰鐘塔を見た。
「外から来た船が、帰るだけじゃなく休める港。今の桟橋は全部、着いた瞬間に塔へ荷を戻す」
「じゃあ一緒に出よう」
「出たら誰が直す」
「帰ってから」
「帰れたら」
ナギの口が止まる。
レトは優しくは言わなかった。
責めてもいない。
自分が残る理由を、そのまま置いただけだった。
中央塔から、低い鐘が一つ鳴る。
ごおん――。
町中の旗が、同時に塔へ向いた。
カナタの白旗まで、背中から引かれる。
帰鐘塔の扉が開く。
大柄な老人が、杖をついて現れた。
白い髭は胸まで。
紺色の外套。
肩には閉じた円の紋章。
六十七歳。外套の内側には帳面が二冊あった。島の決定を書く公用と、ナギの三十八回ぶんの失敗や、イオラの出航日の風を記す私用。急いで出てきたせいで、いつもの左右が逆になっている。
ガルドは近くの顔ほどぼやける。孫へ声をかけるとき、一歩下がった。その距離が拒絶に見えることを、本人だけが知らない。杖は石畳を二度叩いた。怒りと、安堵。感情の数だけ打つ癖だった。
「ナギ」
老人の声は、鐘の余韻に似ていた。
「三十八回目だな」
「数えてたの、じいちゃん」
「毎回、港を直すのは誰だと思っている」
言い終えると、ガルドは鐘の余韻が完全に消えるまで続けなかった。三十八回すべての傷を覚えているからこそ、三十九回目を軽く扱えない。
ナギの壊れた翼へ目を向けかけ、外向きに反った靴だけは正面から見なかった。
「今回は船」
「主にあなた」とルゥ。
老人は第一歩号を見る。
船首から鍋蓋が一枚、遅れて落ちる。
からん、と石畳へ転がった。
「私はガルド。トマリギ島の鐘守だ」
カナタたちへ向き直る。
「外来船よ。船の損傷はこちらで直そう。食料と水も用意する。明日の弱鐘に出航を試せ」
「出られるのか?」
「出ることはできる」
ガルドは淡々と答えた。
「そして戻る」
「意味ねえ!」
「島の外へ進むことは諦めよ」
杖が遠い空を示す。
雲海の一角に、白い壁が立っていた。
普通の霧ではない。
空の色も。
風の向きも。
遠くの島の輪郭も、触れた端から白く消していく。
「《白迷潮》」
ザンバの声が低くなる。
「入った船は、どこから来たかを失う」
「三日後には島へ届く」とガルド。
「その前に《永久帰鐘》を行う。島中の道標旗を始標旗へ結び、外へ向かう道を閉じる」
「永久?」とルゥ。
「白迷潮が去ったあとも、出られなくなる?」
「ああ」
町の人々は驚かなかった。
知っていたらしい。
顔に浮かぶのは、恐怖と安堵。
外へ出られない。
外から来ない。
その代わり、誰も迷わない。
「嫌だ」
ナギの声だけが、はっきり響いた。
「島を閉じたら、母さんが帰れない」
「イオラは七年前に帰らなかった」
「帰れなかった!」
「同じだ」
「違う!」
腰の鈴が震える。
ちりん。
ガルドは目を閉じた。
「残響だ」
「今、鳴り方が変わった」
「七年、聞き続ければ、望む音を見つける」
「じいちゃんは聞かないことにしただけ!」
ナギは半分の旗を握る。
「母さんは《次標旗》を持って出た。二本目を立てたら帰るって言った!」