第27話 第二章「五回鳴る鈴」前編
「立たなかった」
「探す!」
「白迷海へ入れば、お前も帰れん」
「帰れないから探すんでしょ!」
ガルドの杖が石畳を強く叩いた。
「外へ行くことだけが、明日ではない!」
「同じ道を回ることを、明日って呼ばないで!」
塔の鐘が低く唸る。
閉じた円の旗が、強くはためいた。
カナタは二人の間へ一歩出る。
「鈴を調べる」
ガルドが見る。
「旅人。孫に余計な希望を与えるな」
ガルドは笑おうとし、「いや」と一度否定した。結局、笑いにはならない。代わりに始標旗の留め具を点検し始め、視線を手元へ固定した。希望を認めた瞬間に、孫も島も失う気がするときの逃げ方だった。
「余計かどうかは、返事を聞いてから決める」
「白迷潮まで三日だ」
「三日あれば三回寝られる!」
「時間の使い方が雑!」とルゥ。
「できるまでやる!」
「潮は待たん」
ガルドの言葉に、カナタは一度口を閉じた。
以前なら、同じ言葉をもう一度大きく言っていた。
今は、アカリの声を思い出す。
返事がないことと、いなくなったことを同じにしない。
けれど、返事を待つだけで潮は止まらない。
「明日の弱鐘まで」
ルゥが代わりに言った。
「船の修理をしながら、鈴と塔を調べる。出航試験もする。それで向こう側があると分かったら、もう一度話す」
「分からなければ」
ガルドが訊く。
「分からなかったと残す」
カナタが答えた。
老人の目が、少しだけ動く。
「永久帰鐘の準備は止めぬ」
「止めさせる」とナギ。
「今は調べる」とルゥ。
「今から止める!」
「順番!」
ガルドは塔へ戻る。
扉が閉まる前、ザンバを見た。
「黒旗」
「今は灰だ」
「道を切る者が、帰路を語るか」
「切ったから、語る」
ガルドは返事をしなかった。
塔の扉が閉じる。
ナギは踵を返した。
「こっち」
「どこへ?」とカナタ。
「島で一つだけ、塔へ戻らない行き止まり」
「行き止まりなのに?」
「だから、道具を隠せる」
レトが木槌を肩へ担ぐ。
「僕も船を直す。脱出は手伝わない」
「なんで!」とナギ。
「帰ってくる場所を先に作る」
レトの喉が一度鳴った。ナギの名を呼べなくなるほど寂しいときの反応だった。
それでも「行くな」とは言わない。木槌を持たないほうの手を開き、掌を見せる。引き止める手ではなく、戻った荷を受け取る手だ。
「まだ出てもない!」
「だからだよ」
カナタはレトを見る。
残る者。
出る者。
同じ島にいても、行き先は違う。
「両方、やるぞ」
「何を?」とルゥ。
「船を直して、鈴を調べて、港を作って、ナギの母さんを探す!」
「予定が増えた!」
「三日ある!」
「三日しかない!」
ザンバは弁償板へ新しい欄を作った。
――帰る道しかない島。
その横へ、小さく書き足す。
――出る道、未確認。
まだ何もない場所を、ないと決めないための空白だった。
帰鐘塔の裏には、島で唯一の行き止まりがあった。
道の先は崖。
崖の先は雲海。
塔へ戻る横道もない。
そこへ、小さな作業小屋が建っている。
壁には、三十八回ぶんの失敗が吊られていた。
紙の翼。
樽へ帆をつけた舟。
巨大な傘。
羽根の生えた自転車。
雲魚へ引かせる籠。
鐘の反動で飛ぶ椅子。
「三十八個ないぞ」
カナタが数える。
「二十九個。残りは海へ落ちた」とナギ。
「回収しよう!」
「母さんが先」
「全部回収する!」
「白迷海へごみ拾いに行かないで」とルゥ。
小屋の中央へ、二枚の設計図が広げられた。
一枚目。
島の中心に銀の旗。
円の外に青い旗。
二本の間を、往復する二本の線が結んでいる。
二枚目。
小さな鈴が二つ。
片方の音を、もう片方が返している。
「島にあるのが《始標旗》」
ナギは一枚目の中心を指す。
「帰る場所を決める旗」
次に、円の外。
「母さんが持っていったのが《次標旗》。次に行く場所を決める旗」
「二本で一つ?」とカナタ。
「始標旗が『帰ってこい』。次標旗が『ここまで来た』。両方が返事をして、初めて風路が張る」
ルゥは二本の線を指でなぞる。
「出る道と、帰る道を別々に保つ。片方だけなら?」
「始標旗だけ残ると、出た道まで帰り道にされる」
「だから全部、島へ戻る」
「うん」
「次標旗だけなら?」
ナギは少し考えた。
「帰れない」
「母さんは今、それ?」
「分からない」
答えを急がず、分からないと言う。
カナタはナギを見た。
三十八回、飛び出す少女。
自分と似ていると思った。
けれど、待つことの長さを、彼女は自分より知っている。
「鈴は?」
ルゥが二枚目を見る。
「旗と同じ。母さんの鈴と、私の鈴で一組」
ナギは欠けた青銅鈴を机へ置く。
「母さんが出る朝、半分の旗と一緒にくれた」
「何て言った?」
「『返事ができるところまで行く』」
「帰る、じゃないのか」
「帰るとも言った」
ナギの指が、鈴の欠けた縁をなぞる。
「だから、じいちゃんは怒ってる」
「ナギは?」
「七年ぶん怒ってる」
「会ったら?」
「最初に殴る」
「そのあと?」
「抱きつく」
「順番が逆じゃない?」とルゥ。
「両方する」
カナタが笑う。
「俺と同じ!」
「一緒にしないで」
ナギとルゥの声が重なった。
ザンバは小屋の戸口へ立ち、外を見張っている。
「始めろ」
「何を?」とカナタ。
「鈴を調べるのだろう」
「お前も聞きたい?」
「残響と返事の違いを知る」
「母さんを探すため?」
「俺が切るべきものを間違えないためだ」
灰色の旗の黒い点が、小さく揺れた。
ルゥは工具帯から銀鋲を三本抜く。
一本目をナギの鈴へ。
二本目をカナタの返事の鐘へ。
三本目を、現標板の五つ目の穴へ。
「《継ぎ路》」
細い銀糸が三つを結ぶ。
糸はすぐに枝分かれした。
一つは帰鐘塔。
一つは白迷潮。
一つは、第一歩号の後ろ――カゲノハ村へ続いているはずの、見えない空。
「向こう側が三つある」とルゥ。
「全部つなぐ!」
「だめ」
「なんで!」
「どれが今の返事か分からない。昔の音も、願いも、塔の鐘も混ざってる」
ナギが椅子へ座り、目を閉じる。
重要な問いの前、舌先で前歯の裏を五回押す。一、二、三、四、五。右耳には鈴、左耳には栓。右手で呼び、左手で記録する。
六つ以上の音が重なると、舌へ金属の味が出る。それが偏頭痛の前触れだった。ナギは耳栓を一段深く押し込み、「道具のほうが疲れた」と呟いた。
ルゥはそれを道具の話として受け取らず、椅子の背へ手を置いた。倒れたときのためだ。
「一回ずつ鳴らして」
「何が分かる?」
「聞く」
「俺も!」
「カナタは黙って」
「聞くのに?」
「大声が邪魔」
カナタは口を両手で押さえた。
ルゥが帰鐘塔側の糸を軽く弾く。
ごおん――。
小屋の中に、低い鐘。
同じ音が三度返る。
一度目は大きく。
二度目は少し遠く。
三度目は一度目とまったく同じ間隔。
「塔の残響」
ナギが言う。
「同じ形で返る。向こうで誰も聞いてない」
ルゥが白迷潮側を弾く。
ちりん。
ち……りん。
間隔が揺れる。
一度は近く。
次は何百枝里も遠い。
三度目は、鈴ではなく木を叩く音。
「これは?」
「誰かいる」
ナギは目を閉じたまま答えた。
「毎回、返し方が違う。聞こえた場所にあるものを使ってる」
「母さん?」
「まだ分からない」
最後。
ルゥがカゲノハ村側の糸を弾く。
何も返らない。
カナタの肩が落ちる。
一呼吸。
二呼吸。
銀糸の先で、小さな何かが引っかかった。
こん。
一度。
止まる。
「来た!」
「黙って!」と三人。
こん。
二度。
少し間。
こん。
三度。
今度は二つ重なる。
こん。
四度。
最後。
こん。
五度。
ナギが目を開いた。
「今、誰かが叩いた音」
「返事か!」
「まだ分からない。同じ五回を写した残響じゃない。一回目のあと、向こうで持ち替えた。三回目は、別の鐘が一緒に鳴った。でも、私たちの呼び声を聞いて返した証拠はない」
「アカリだ!」
「まだ名前は分からない」
「薬箱を持ち替えたんだ!」
「どうして分かるのよ」とルゥ。
「いつも重いって言ってた!」
現標板の五つ目が白く光る。
返事の穴へ、細い紙片が一枚押し出された。
どこから来たのか分からない。
アステルの帰還路。
上層港の風路。
トマリギ島の鐘路。
三つが一呼吸だけ重なり、遠い場所の札を運んだらしい。
紙は濡れ。
端が焦げ。
文字の半分が消えている。
「読んで!」
カナタがルゥへ渡す。
「自分で」
「字が増えてる!」
「村を出てから一文字も覚えてない!」
「一は読める!」
「ここに一はない!」
ルゥは紙を伸ばした。
アカリの字。
大きさが揃っていない。
けれど、出航前より線がまっすぐになっている。
「『カゲノハ村、現在地、南橋の外』」
「村の外!?」
「アカリの現在地。次――『天頂門へ二回目の配達。旅人宿、屋根できた。発着場の階段、三段増えた』」
「村、無事!」
カナタが飛び上がる。
頭を小屋の梁へぶつけた。
「痛っ!」
「続きがある」とルゥ。
「『ルゥの机、ハルガの新しい見習いが使ってる。横の作業台、空けてある』」
「空けなくていいのに」
ルゥは言いながら、紙を少し強く持った。
「『ザンバの弁償、南橋二歩ぶん減った。泣いた子ども、十七人』」
「二人減った」
ザンバが低く言う。
「覚えてたのか?」とカナタ。
「数えられているからな」
最後の行。