第28話 第二章「五回鳴る鈴」後編
文字は半分、水に滲んでいる。
「『カナタへ。村は――』」
「何だ!」
「読めない」
「つなげろ!」
「意味は勝手につながない!」
カナタは紙を明かりへかざす。
消えた部分のあとに、残った文字。
――変わってる。
「村は変わってる?」
カナタは首を傾げた。
「屋根ができて、階段が増えて、机を使う人も増えた」とルゥ。
「でも村だろ」
「そうね」
「帰れば同じ場所!」
ルゥは返事をしなかった。
「この札、私たちへ返したもの?」
ナギが紙へ顔を近づける。
「まだ分からない」とルゥ。
「アカリが決まった時刻に外へ放った現在札が、古い道の重なりへ流れ込んだだけかもしれない。向こうは、ここへ届いたことを知らない」
「じゃあ一方通行?」とカナタ。
「今は」
ナギは青い帳面へ書いた。
――カゲノハ村の現在札、到着。
――こちらの呼び声を受けたか、未確認。
「待ってるだけじゃないんだ」
「アカリは配達してる!」
「外へ?」
「村の外の最初をやるって」
「残ったのに」
「残ることと、動かないことは違う」
ナギは自分の鈴を見る。
七年間。
自分は塔の周りを走り続けた。
母は白迷海のどこか。
祖父は同じ鐘を鳴らした。
誰が残り。
誰が進んでいたのか。
「今度は、こっちから返す」
ナギは鈴を持つ。
「何て?」とカナタ。
「トマリギ島。帰鐘塔の裏。ナギ」
「行き先は?」
「母さんの声」
「返事は?」
「向こうが入れる」
五つ穴の現標板へ、小さな札を差す。
場所。
時刻。
持ち主。
行き先。
最後を空ける。
ナギは鈴を五回鳴らした。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
銀糸が白迷潮へ伸びる。
長い沈黙。
カナタは口を開きかける。
ルゥが手で塞いだ。
「むぐ!」
返事が来る。
最初は、金属を擦る音。
ぎ、と。
次に、木を二度。
こつ。
こつ。
最後に、小さな鐘を二度。
ちりん。
ちりん。
合わせて五つ。
ナギの両手が震えた。
「母さんの合図」
言い切った直後、ナギの視界が横へ流れた。椅子から落ちかけ、ザンバの左手が肩を受ける。
「今の音は?」とカナタ。
「母さんだと思う」
いつもなら「まだ分からない」と言うところで、願いが一歩先へ出た。ナギ自身がそれに気づき、唇を噛む。
「……母さんが使っていた合図。今の母さんかは、次の問いで確かめる」
希望を消さないためにこそ、言葉を一つ戻した。
「本当に?」
「私が小さいころ、鐘の練習で使ってた」
ナギは一度。
三度。
一度。
鈴を鳴らす。
「『ナギです』」
遠くから、同じ一、三、一。
「『聞こえてる』」
ナギの頬を涙が流れた。
笑っているのか。
怒っているのか。
どちらもだった。
「生きてる」
カナタは拳を握る。
「行こう!」
「待って」
ルゥが銀糸を見る。
「音は白迷潮の中心から来てる。距離が安定しない。一呼吸前は近く、今は何百枝里も遠い」
「聞こえるなら行き先はある!」
「道は?」
「作る!」
「誰が二歩目を踏むの?」
カナタの声が止まる。
アカリの返事が来たのは、カナタが一歩を作ったからではない。
村側でアカリが鐘を鳴らし。
トマリギ島の鈴が途中を拾い。
ルゥが糸をつなぎ。
ナギが違いを聞き分けた。
一人の力では、届かなかった。
「ナギ」
カナタが言う。
「どこへ行きたい?」
「母さんのいる場所」
「そのあと」
ナギは鈴を握る。
「母さんと、ここへ帰る」
「島へ?」
「帰る。でも、前と同じ島にはしない」
「どうする?」
「出る鐘を作る」
小屋の外。
帰鐘塔の銀旗は、閉じた円のまま風を受けている。
「帰ってこいだけじゃなく、行ってこいって鳴る鐘」
カナタは笑った。
「行き先、一つ!」
「二つ」とルゥ。
「母さんの場所と、帰る島」
「同じ道!」
「往きと帰りは別!」
ザンバが戸口から言う。
「ガルドは船を出さん」
「頼む!」とカナタ。
「聞かなかったら?」とナギ。
「もっと大きく頼む!」
「それ、怒鳴るって言うの」とルゥ。
小屋の屋根で、何かが小さく鳴った。
五回。
レトが木槌で板を叩いている。
「船、直すなら今」
「脱出は手伝わないんじゃ?」
「出る船じゃない」
レトは第一歩号の船腹を指す。
「帰ってくる船を直す」
ナギはしばらく友人を見る。
「絶対、帰る」
「返事が来ない日もある」
「来なくても、生きてる」
「でも、返せるときは返して」
「五回」
「五回」
二人の木槌と鈴が、同じ間隔で鳴った。
鳴らし終えたレトは、桟橋の縁から小石を一つ拾い、ナギへ投げた。
「僕の声はもう知ってる」
「今日の音は初めて」
ナギは石へ五つの短い傷を刻み、小石袋へ入れた。名札ではない。明日、レトの手が疲れて間隔が変わっても、同じ人の違う返事として聞くための印だった。
帰鐘塔の鐘は答えない。
それでも、道の二歩目は、すでに島の端へ置かれ始めていた。
その夜、四人は作業小屋で冷えた丸パンを分けた。ナギは片耳に栓、片耳に鈴をつけたまま食べる。カナタは冷たいパンにも息を吹き、ルゥは工具箱を椅子代わりにせず、音の少ない壁際へナギの席を置いた。
ザンバだけが戸口近くの椅子を、背後に壁が来ない角度へ半指ずらす。
「みんな、座る場所が変」とナギ。
「お前は音で選んだだろ」とカナタ。
「うん。カナタの隣は噛む音が大きい」
「生きた返事!」
「食事」
笑ったナギは、普段より背筋が伸びた。ひと息遅れて片側の犬歯が見える。七年待った話の合間にも、十四歳の笑い方は残っていた。
ナギの作業小屋へ、旗織り見習いのコヨリが来たのは、アカリの紙札が届いた半刻後だった。
栗色の髪を二本の三つ編みにし、肩から何十色もの糸巻きを下げている。背負う旗には、針と、途中までしか開いていない布の紋。
三つ編みの糸色は左右で違う。右は島の銀、左は外海の青。古い骨折で脚の長さが僅かに違うため、左靴の底だけ一枚厚い。歩くたび音が二種類になるが、コヨリは直そうとしない。違いを消さず、同じ速度へ合わせるための靴だった。
話しながら、ナギの袖のほつれを勝手に一針直す。けれど半旗の裂け目には手を出さない。持ち主が「直す」と返す前に、きれいな形へ戻すことを嫌っていた。
「外から返事が来たって、本当?」
「本当!」
ナギが濡れた紙札を見せる。
コヨリは最初に文字を読み、次に紙の繊維を見た。最後に、端へ残った焦げと水染みを指で確かめる。
「帰鐘路を三回通ってる」
「分かるの?」とカナタ。
「糸が同じ向きへ三度寝てる。最初は外へ。二度目は島へ。三度目は外へ」
「紙にも行ったり帰ったりが残るんだな!」
「人にも残るよ」
コヨリはナギを見た。
「三十八回ぶん、髪の右側だけ焼けてる」
「左から飛べばよかった」
「四回目に試した」
「覚えてるの!?」
「記録したから」
小屋の棚には、細い冊子が七年ぶん並んでいた。
日付。
時刻。
風向き。
帰鐘塔が鳴った回数。
ナギの鈴が返した間隔。
何も聞こえなかった日には、何も聞こえなかった、と書いてある。
「音がない日まで書くのか」
カナタが一冊をめくる。
「ないものは書けないだろ」
「聞こえなかったことは、あったことだから」
コヨリは答えた。
「あとで返事が来たとき、いつから届かなかったか分かる」
ザンバが棚の背表紙を見る。
「残響と返事の違いも、この記録で見つけたか」
「ナギが聞いた。私が比べた」
コヨリは三年前の冊子を開いた。
同じ一、三、一の合図。
けれど、返るまでの間は毎回違う。
風が強い日は、二音目が低い。
白迷潮が近づいた日は、最後の一音だけ何度も遅れた。
「生きている音は、きれいに同じにならない」
ナギが言う。
「手が疲れる。風が変わる。聞こえたか迷って、少し待つ。残響は、昔の一回をそのまま返す」
「じゃあ、俺の返事はいつも生きてる!」
「毎回数を間違えるから」とルゥ。
「今度から五回!」
「昨日は七回」
「寝てた!」
「寝ながら二回足した」
ルゥは笑いをこらえ、古い航路図を机へ広げた。
トマリギ島の中心に、銀の始標旗。
島の外に、青い次標旗。
さらに古い図には、外側の青旗が十二本描かれていた。
「昔は十二本あったの?」
ナギが訊く。
「旗そのものは一本」とコヨリ。
「港へ着くたび、旗織りが仮の布を分けた。船が戻ればほどいて、次の船へ渡した」
「十二か所へ同時に立てれば早い!」
カナタが言う。
「一本を十二枚に切る?」とルゥ。
「つなげばいい!」
「切る前の形へ戻したら、十二の港が一か所になる」
「じゃあ十二本作る!」
「誰が持つの」
「俺!」
「十二方向へ引かれて船長が裂ける」とザンバ。
「ルゥがつなぐ!」
「人を補修部品にしないで!」
コヨリは、古い図の二本の線をなぞった。
「始標旗は、島が一方的に船を呼ぶ旗じゃない。次標旗も、着いた人が勝手に港を名乗る旗じゃない」
「二本で決める?」とナギ。
「島が『行ってこい』と送る。向こうが『ここに着いた』と返す。帰るときは、向こうが『帰る』と言って、島が『おかえり』と受ける」
「四回も返事が要る!」とカナタ。
「だから道になる」
コヨリは短く言った。
「一人の命令なら、線。二人が返し合えば、往復できる道」
ザンバの灰旗にある黒い点が、風もないのに揺れた。