第29話 第三章「二本で一つの旗」前編

「始点と終点ではないのだな」

「終点?」とコヨリ。

「昔の俺は、道には必ず一つの終わりが要ると思っていた」

「帰る道の終わりは?」

ザンバは答えかけて止まる。

カゲノハ村。

アステルの帰還路。

第一歩号の甲板。

終わりと呼べる場所は、今の自分には一つではない。

「返事を受け取った場所だ」

ようやく言った。

「たぶんな」

「分からないって言った!」

カナタが嬉しそうに指をさす。

「お前にうつされた」

「いいこと!」

「判断はまだだ」

ルゥは次標旗の切れ端と、ナギの鈴を銀糸でつないだ。

さらに、アカリから届いた紙札の端へ一本。

三つの点。

島。

白迷海のどこか。

カゲノハ村。

「二本の旗だけだと、片方へ戻りすぎたとき輪になる」

ルゥは図へ三つ目の小さな印を置いた。

「外から『今、ここ』を返す場所があれば、同じ音が戻ったのか、別の場所へ届いたのか比べられる」

「アカリを三本目の旗にする?」

「人を旗にしない」

「じゃあ四本目!」

「数を増やす話じゃない!」

ナギは紙札を見た。

会ったことのない少女。

自分が呼ぶ前から、村の現在地を残していた者。

「アカリは、待ってるだけじゃないんだね」

「配達してる」とカナタ。

「村を出なかったのに」

「残ることと、動かないことは違う」

ナギは小さく頷いた。

コヨリが黄色い半旗を持ち上げる。

「この切れ目、直す?」

「直さない」

「母さんの旗と同じ形へ戻せるよ」

「これは、私が七年持った形」

コヨリは針を置いた。怒ったときの癖で、糸巻きを床へ正円に並べかける。三つ置いたところで、自分たちが閉じた輪をほどこうとしていることに気づき、一か所だけ空けた。

「裂けた場所も、今の形」

その夜いっぱい、半旗は縫わずに壁へ掛けた。ナギが翌朝も同じ答えを返してから、初めて青い一針を入れた。

ナギはほつれた縁へ触れる。

「青い糸を一本だけ足して。母さんの旗へつながるけど、同じにはならないように」

コヨリは青い糸を選んだ。

一針。

二針。

切れ目の片側だけへ、細い線を縫う。

「もう片側は?」とカナタ。

「母さんが返したら」

「先に作れば早い!」

「それが残響」と四人。

「分かってる!」

「今言われた」とルゥ。

ナギは半旗を背負い直した。

「母さんを見つけたら、帰りたいか聞く」

「帰るに決まってるだろ」

「決めないで」

ナギの声は強かった。

「七年前の母さんは帰るって言った。でも、今の母さんが何を選ぶかは、返事を聞く」

カナタは口を閉じる。

父アステルの最後を、ザンバから聞いた日のことを思い出した。

自分が信じていた父と、最後に選んだ父は、同じ人でも同じ形ではなかった。

「分かった」

「本当に?」

「帰るか聞く。そのあと、帰る道を作る!」

「半分」

「残りは?」

「返事を待つ」

カナタは難しい顔をした。

それでも、白旗を出さなかった。

二本で一つの旗は、二つの端を一人で決める道具ではない。

離れた二人が、それぞれの場所から返事をするための約束だった。

翌朝の弱鐘は、普通の鐘より小さかった。

ごん――。

帰鐘塔の銀旗が、半分だけ風を起こす。

町の道は塔へ曲がったままだが、足を強く踏ん張れば外へ向ける。

一日に一刻だけ訪れる、島の帰る力が弱まる時間。

「三十八回、全部この刻?」

カナタが訊く。

「最初の十回は違った」とナギ。

「いつ?」

「強鐘」

「一番戻る時間?」

「知らなかった」

「十一回目から賢い!」

「三十八回目まで失敗してる」とルゥ。

「途中から賢くても、着かなきゃだめ?」

ナギが少しだけ笑った。

第一歩号は第十二到着桟橋へつながれていた。

レトが船底へ新しい板を当て。

ルゥが銀鋲で船体の今を固定し。

ザンバが左右の索を確かめる。

カナタは船首で、二枚の鍋蓋へ白い布を巻いていた。

「何してるの」

「翼を見やすくしてる!」

「見えなくていい」

「島の外から帰ってくるとき、目印になる!」

レトが鍋蓋を一度叩く。

「目印なら、船名板を大きくする」

「鍋蓋のほうが丸い!」

「帰鐘塔も丸い。間違えて塔へ突っ込む」

「分かりやすい!」

「分かってない!」

桟橋には、ガルドのほかに島の役人が三人来ていた。

帰鐘塔の書記。

風路の測り手。

そして、港の到着簿を持つ女。

二十七歳。

黒い髪を耳の下で切り揃え、腰に何十本もの細い札を下げている。

背中の旗には、港へ入る十二本の線。

人差し指の第一関節だけが外へ曲がっている。筆を持つ右手の親指を痛めてから、札の結び目は左手で作るようになった。

遠くの船影は霞むのに、近くの紙では水染みの境目まで見える。相手の顔を観察しすぎて圧を与えるため、話すときは床板の継ぎ目だけを踏もうとする癖があった。熱くなると、その規則を忘れる。

「港録師サイラ」

ナギが小声で言った。

「島へ着いた船を全部書いてる」

「俺たちも?」

「三回」

「同じ船だぞ!」

サイラは到着簿を開いた。

「到着した時刻が違う」

「二回消して!」

「起きたことは消さない」

カゲノハ村のアカリと似た答えだった。

サイラは第一歩号の現標板を見る。

「その五つ穴、どこで?」

「父ちゃんの途中!」とカナタ。

「説明を短くしすぎ」とルゥ。

アステルの帰還路。

カゲノハ村の現在地。

五回の返事。

昨日届いたアカリの紙札。

ルゥが順に説明する。

サイラは紙札を、声に出さず二度読んだ。

一度目は文字。二度目は書かなかったこと。頁の右下を折らず、指で何度も押す。空欄があると、誰かが後から都合のよい言葉を入れるのが怖かった。

だから到着簿には《帰る》《残る》のほか、《相談中》《返事待ち》《現在地のみ確認》という欄まである。決めていない人を、いない人にしないためだった。

「生きた返事が、帰鐘路へ混じった」

「証拠だ!」とナギ。

「向こう側がある証拠。誰の声かは、まだ分からない」

サイラは慎重だった。

それでも、紙を返す手が少し震えている。

「待ってる人がいる?」

カナタが訊く。

「青燕号」

到着簿の古い頁を開く。

五年前。

出航船、青燕号。

乗員二十六人。

目的地、朝雲市場。

帰港予定、三日後。

到着欄は空白。

「弟が乗っていた」

「探す!」

「頼んでいない」

「頼まれなくても!」

「船長」

ザンバの声が低くなる。

カナタは口を閉じる。

誰の行き先か。

カゲノハ村で覚えたばかりの問い。

「……探してほしい?」

サイラは白迷潮を見る。

「生きているなら、現在地を知りたい」

「連れて帰らない?」

「弟が帰りたいかを先に聞く」

ナギがサイラを見る。

「帰りたくないって言うと思う?」

「五年で、何が変わったか分からない」

「ここは変わってない」

「だからこそ」

サイラは到着簿を閉じた。

「同じ場所へ戻ることが、帰ることとは限らない」

ガルドの杖が桟橋を叩く。

「出航試験を始める」

第一歩号へ乗るのは四人。

カナタ。

ルゥ。

ザンバ。

ナギ。

ただし島から五百歩以上離れない。

白迷潮へ入らない。

弱鐘が終わる前に戻る。

「戻る道は勝手に来る」とナギ。

「帰るための試験じゃない」とガルド。

「出られないことを確かめる試験だ」

「出る!」

「出たら?」

「母さんへ!」

「その答えが、お前を戻す」

ガルドは始標旗へ手を置いた。

「帰りたい場所を思う者ほど、鐘は強く引く」

「じゃあ帰りたいと思わない!」

「母を連れて戻ると言った口でか」

ナギの言葉が止まる。

カナタが白旗を担ぐ。

「外へ出て、母さんを見つけて、島へ帰る。順番にやればいい!」

「お前は何を思う」とガルド。

「世界の果て!」

「カゲノハ村は」

「帰る!」

「二つだ」

「両方!」

ガルドは小さく息を吐く。

「帰鐘は、欲張りを最もよく捕まえる」

ルゥが現標板へ四人の札を入れた。

「長い行き先じゃなく、今の行き先を決める」

一つ目。

カナタ。

「島の外」

二つ目。

ルゥ。

「帰鐘路の端を測れる場所」

三つ目。

ザンバ。

「船を守れる距離」

四つ目。

ナギ。

「母さんの音が近くなる場所」

ルゥが全員を見た。

「全部違う」

四人の行き先を一度に聞いたナギの舌へ、薄い金属味が戻った。風と鐘と朝火炉の音が重なり、片目を閉じる。距離感が崩れ、響路の端を一度だけ島側と外側で取り違えた。

「ナギ、左」とルゥ。

「私の左?」

「船の左。声へ合わせて」

ナギは一人で判定し直そうとせず、ルゥの声を奥行きの基準へ借りた。聞こえる力は、聞き間違えない力とは同じではない。

「島の外で同じ!」とカナタ。

「外は広い」

「一枚のでかい道を作る!」

「それを試す」

ルゥは操舵輪へ立つ。

桟橋の索が外された。

朝火炉が金色に燃える。

第一歩号が浮く。

一歩。

港から離れる。

二歩。

帰鐘塔の風が弱い。

三歩。

島の縁を越える。

「出た!」

ナギが叫ぶ。

「まだ三十歩!」

「三十八回で一番遠い!」

カナタは白旗を船首へ突く。

「標術――《未踏路》! 島の外へ!」

巨大な光板が一枚、生まれる。

第一歩号を載せられる幅。

外へまっすぐ。

「乗る!」

ルゥが舵を切る。

船首が光板へ上がる。

最初の十歩は順調だった。

十一歩目。

道の先が四つに分かれた。

一つは白迷潮。

一つは帰鐘路の端。

一つは安全な雲溜まり。

一つは、島の中央。

「分かれた!」

「みんなの今の行き先が違うから!」