第30話 第三章「二本で一つの旗」後編

「一枚にする!」

カナタは旗を振る。

「母さんの音まで!」

ナギの道が太くなる。

その瞬間、第一歩号の船尾が島へ引かれた。

「俺の行き先は!?」

ザンバが帆柱を掴む。

「安全な距離を越えた」

「じゃあ、もっと安全に!」

「安全を広げるな」

ルゥの道は、島の周囲へ円を描く。

帰鐘路を測るには、端を回る必要がある。

カナタの道は世界の果てへ向かおうとする。

ナギは母の鈴。

ザンバは船の現在地。

四本が別々に引き、第一歩号がきしんだ。

「船体が四つへ裂ける!」

ルゥが銀鋲を投げる。

《継ぎ路》! 船首、船尾、右舷、左舷を今の形へ!」

銀糸が船体を縫う。

「カナタ、でかい道を消して!」

「消したら落ちる!」

「一歩ずつ出す!」

「遅い!」

「違う行き先を、一枚へ押し込むほうが遅い!」

帰鐘塔の弱鐘が終わりかける。

ご……ん――。

銀旗の円が閉じる。

島へ向かう風が強くなる。

カナタの巨大な光板が曲がった。

先端がトマリギ島へ戻る。

「また輪!」

第一歩号は自分の道へ乗ったまま、島を一周し始めた。

一周目。

港の人々が見える。

二周目。

レトが桟橋で木槌を五回叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

「今、ここ!」

ナギが鈴を返す。

五回。

音の間に、わずかな違い。

レトの二回目は、風で遅れる。

四回目は、隣の板も鳴る。

「生きた返事!」

「そこへ行く!」とカナタ。

「全員の今の行き先を言って!」

ルゥが叫ぶ。

「俺は、島へ戻る!」

「試験中だから?」

「レトがいるから!」

「私は、鐘路を測って船へ戻す!」

ルゥ。

「俺は、船を壊さず桟橋へ」

ザンバ。

「私は、母さんの音を忘れず、レトの返事へ戻る!」

ナギ。

行き先は同じ桟橋。

理由は違う。

「今度は一つ!」

カナタは巨大な道を消した。

一歩分だけ。

「レトの手前!」

光板が生まれる。

第一歩号が踏む。

二歩目。

ルゥの銀糸が、一歩目と船体をつなぐ。

三歩目。

ザンバが船尾へ迫る帰鐘の渦を、旗竿で物理的に逸らす。

「標術は?」

「使わん」

「なんで!」

「今切れば、島への道まで終わる」

四歩目。

ナギの鈴が、レトの木槌を追う。

生きた返事は、同じ音を繰り返さない。

風で揺れ。

手が疲れ。

それでも、今いる誰かが鳴らす。

第一歩号は第十二桟橋へ向かう。

「着くぞ!」

「終路鐘はまだない!」とルゥ。

「声で止まる!」

「船は声で止まらない!」

「レト、どけ!」

「止める気ない!」

レトが桟橋の端へ、大きな綿雲袋を三つ積んでいた。

第一歩号が突っ込む。

ぼふん。

白い霧。

船体が三回跳ね。

桟橋の半分を滑り。

修理台の手前で止まった。

「帰港成功!」

「袋一つ、破れた」とレト。

「弁償!」とナギ。

「お前まで!?」

ガルドは始標旗の下から、試験を見ていた。

銀旗の円へ、一呼吸だけ切れ目が残っている。

第一歩号が戻った道。

カナタ一人の巨大な一歩ではない。

四人の違う目的が、今だけ同じ桟橋へ重なった道。

「じいちゃん」

ナギが駆け寄る。

「出られた」

「五百歩にも届いていない」

「戻れた」

「鐘が戻した」

「レトの返事を聞いた」

「島にいた者の音だ」

「母さんの音も同じだった!」

ガルドの顔は動かない。

サイラが到着簿へ一行を書く。

――第一歩号、弱鐘出航試験。

――島外、二百三十七歩。

――帰港、乗員の選択による。

「鐘による、ではないの?」

ガルドが訊く。

「船の者は、戻る理由を一人ずつ言った」

サイラは筆を置く。

「帰鐘に引かれただけなら、同じ言葉は要らない」

「記録は、判断ではない」

「だから、起きたことだけ」

ガルドは到着簿を閉じた。

「永久帰鐘は予定どおり行う」

ガルドは公用帳へそう記した。私用帳には、別の一行を書いている。

――二百三十七歩。ナギ、帰港時に笑った。

二つの記録を同じ頁へ書けないことが、老人の分断そのものだった。公の判断では危険。祖父の目には成功。どちらかを消せず、それでも公用帳を先に閉じた。

ナギの顔が固まる。

「どうして!」

「二百歩の外で、船は四つに裂けかけた」

「次はうまくやる!」

「白迷海では、行き先そのものが消える」

「鈴がある!」

「残響だ」

「聞いたでしょ!」

「聞いていない」

ガルドは鈴へ手を伸ばさなかった。

「明日の日暮れ、島中の旗を塔へ集める」

「じいちゃん!」

「それまで、外来船は修理を終えよ。永久帰鐘のあとなら、白迷潮が去るまで安全に停泊できる」

「出られない!」

「生きていられる」

「同じじゃない!」

ナギの声が桟橋へ響く。

ガルドは振り返らない。

塔へ向かって歩く。

レトが壊れた綿雲袋を拾う。

「止める?」

「止める」とナギ。

「どうやって」

「鐘を壊す」

「島も壊れる」

「じゃあ旗を盗む」

「帰る場所がなくなる」

「じゃあ――」

言葉が出ない。

カナタは白旗を握る。

「母さんを見つけて連れてくる」

「明日までに?」とルゥ。

「できるまで!」

「潮は待たない」

「じゃあ、間に合わせる!」

「方法」

「鈴を追う!」

「船は修理途中」

「直す!」

「ガルドは出さない」

「頼む!」

「聞かなかった」

「もっと大きく――」

「怒鳴っても変わらない!」

ルゥの声が、カナタより大きくなった。

桟橋の人々が振り向く。

ルゥは深く息を吸う。

「一つずつ。船を直す。白迷海の地図を集める。残響と返事を見分ける。島側に、五回を返す人を残す。そのうえで、行くか決める」

「明日まで」

「だから分ける」

レトが工具箱を開く。

「船」

サイラが到着簿を持ち上げる。

「失踪船の音印」

ナギが鈴を握る。

「母さんの返事」

ザンバが灰旗を肩へ担ぐ。

「出口」

カナタを見る。

「お前は」

「最初の一歩!」

「それだけにしろ」

「少ない!」

「一歩しか出ないだろ」と四人。

「今はな!」

役割が分かれた。

誰も同じことをしない。

それでも、今の行き先は同じだった。

永久帰鐘が鳴る前に。

次の生きた返事へ、道を作る。

出航試験の翌日、永久帰鐘の準備は島中で始まっていた。

レトの師匠である機巧師バンロと、幼なじみの旗織り見習いコヨリも、朝から帰鐘塔へ呼ばれていた。

帰鐘塔の前へ、長い机が十二台並ぶ。

住民たちは自分の道標旗を持ち、列を作った。

鍛冶師の炎。

菓子屋の麦。

雲漁師の釣針。

医師の雫。

子どもたちの、まだ形の定まらない小さな紋。

旗の端から、一指ぶんの布を切る。

銀旗へ縫いつける。

布を渡した者の道は、少しだけ塔へ向きを変える。

「全部結んだら、どうなる?」

カナタが訊いた。

コヨリは大きな鋏を止めた。

「外へ向く力を、塔へ預ける」

「返してもらえる?」

「永久帰鐘が終わったら、返す必要がなくなる」

「永久なのに終わる?」

「言葉の終わりじゃない!」

列の先頭にいた菓子屋が、麦の旗を差し出す。

コヨリは布を切ろうとして、手を止めた。

旗の端には、赤い実の絵が小さく描かれている。

「これ、何?」

「朝雲市場で一度だけ見た果物」

「島にない色」

「もう作らん菓子の飾りだ」

「切る場所を変える?」

「どこでも同じだ」

菓子屋は笑おうとした。

失敗した。

「外へ行かないなら、描いておく意味もない」

コヨリは鋏を下ろした。

「私は切れない」

「仕事だろ」

「旗を直す仕事。道をなくす仕事じゃない」

コヨリの左手だけが先に動き、鋏を机の外へ落とした。緊張すると非利き手が感情より早く動く。

拾おうとして脚の高さが合わず一度よろける。それでも「一呼吸だけ借りる」と言って、自分の痛みではなく旗のために休んだような顔をした。

床へ置いた糸巻きは、怒りの円を作る前に一か所空けられた。閉じない怒りだった。

後ろの列がざわめく。

ガルドの補佐をする鐘番たちは、別の鋏を持ってきた。

菓子屋はそちらへ移る。

コヨリは机の前へ残った。

「怒られるぞ」とカナタ。

「もう怒られてる」

「外へ出たい?」

「出たくない」

カナタが目を瞬く。

「なんで切らない!」

「残ることと、閉じることは違うから」

コヨリは旗糸を巻き直した。

「私は島の旗を作りたい。出ていく船が、戻る場所を見つけられる旗。外へ行くのはナギに任せる」

「自分で見たくない?」

「話は聞きたい。布も欲しい。外の色を織りたい。でも、船に乗ると酔う」

「気合い!」

「吐く」

「強い!」

コヨリは弁償板をカナタの額へ当てた。

「残る人を、怖くて動けない人と同じにしないで」

「分かった」

「早い」

「まだ全部は分からん!」

「そっちは正直」

港では、バンロが第一歩号の船首を修理していた。

外套の内側では温石が二つ、ごとりと鳴った。過去の栄養不足で体温が下がりやすく、本人は寒くない顔をして道具だけ先に温める。左利き用に削った工具の柄は、共同工房のものと逆向きだ。

バンロは外した部品を、次に使う音が静かな順へ並べた。道具を渡すときは、敵へでも柄を相手側へ向ける。レトには言葉より先に、刃を伏せた鑿を渡した。

鍋蓋は、ルゥが目を離した半刻の間に一指ぶん大きくなっている。

「何してるのぉぉぉ!」

「補強」とバンロ。

「補強、ね」

相手の最後の語を一度返し、否定しないときだけ語尾を小さく伸ばす。無音で歯を見せ、笑い終えてから「面白い」と言うので、カナタは毎回褒められたと勘違いした。