第31話 第四章「残る者の港」前編
船を完成させ過ぎれば、持ち主が変更を怖がり出航できなくなる。だからバンロは、直せる余白と外せる補強を必ず一つ残す。鍋蓋の増設も、その一つだと本人だけは本気だった。
「拡張!」
「風を受ける面積が増える」
「揺れる!」
「回せば重錨にもなる」
「鍋蓋を錨にしないで!」
「翼にもなる」とカナタ。
「ならない!」
ナギは船腹の下へ潜り、島の風を聞いていた。
「右舷の二枚目、音が違う」
「どこ?」
「ここ」
板を三回叩く。
こん。
こん。
こん。
最後だけ低い。
ルゥが外すと、内側の留め具に亀裂があった。
「よく分かったね」
「鐘と同じ。壊れた場所は、返す音が少し違う」
「機巧を覚える気ある?」
「音でなら」
「工具は?」
「重い」
「慣れる」
「指、挟む」
「最初は全員」
「ルゥも?」
「三回」
「私は九回」とコヨリ。
「競う場所じゃない」
カナタは船縁から顔を出した。
「ナギ! 船の役目、決めたぞ!」
「まだ乗らない」
「乗ったとき!」
「何?」
「鐘を聞く!」
「そのまま」
「《鐘聞き》!」
「町の役職と同じ」
「《返事係》!」
「地味」
「《響路士》」
ルゥが言った。
ナギが顔を上げる。
「音で、道の向こうを読む。返事があるかを確かめる人」
「私、標術まだないよ」
「十五歳は来月?」
「あと二十七日」
「旗に何が出るかは、そのとき」
「出なかったら?」
「仕事の名前は自分で決めてもいい」とカナタ。
「お前が言うと規則を壊しただけに聞こえる」とザンバ。
「でも、村長が認めた!」
「仮証だ」
「証は証!」
ナギは船腹を、もう一度三回叩いた。
亀裂のあった場所は、ルゥが直したあと、同じ高さの音を返した。
「響路士」
小さく口にする。
「悪くない」
「決まり!」
「まだ乗らない!」
「役目は決まった!」
「順番!」
その日の夕方。
第一歩号の現標板へ、アカリから二通目の便りが届いた。
文字ではない。
小さな紙旗。
東風路交換点を出た交易船が、たまたまトマリギ島へ引き戻され、積んでいた荷の中から見つかった。
紙旗には、へこんだ薬箱の絵。
裏には短い文。
――返事が一度だけ来た。
――知らない鈴の音が混ざった。
――現在地を教えて。
――村の話も聞いて。
カナタは最後の一行を指で隠した。
「何してるの」
ルゥが横から覗く。
「全部読んだ!」
「最後」
「字が小さい!」
「大きく書いてある!」
「俺への注意だけ大きい!」
「伝わってないから!」
便りには、今のカゲノハ村の小さな絵もある。
旅人宿の緑の屋根。
南橋の新しい手すり。
ルゥの机へ増えた引き出し。
ザンバの弁償板を持つ子ども。
そして、発着場の柵。
第一歩号が折った場所だけ、板の色が違う。
「直った!」
カナタが喜ぶ。
「前と同じ?」
「色が違う」
「直っただろ!」
「同じには戻ってない」
「でも柵だ!」
「そう」
ルゥは机の絵を見つめた。
引き出しが一段増えた。
勝手に変えられた。
少し腹が立つ。
同じくらい、帰って見たい。
「返事、書く」
ルゥは紙を広げた。
「船はトマリギ島。出られない。白迷潮が三日後。知らない鈴はナギ」
「俺も書く!」
「村の質問を一つ入れて」
「旅人宿の屋根は緑!」
「答えじゃなくて質問」
「何を訊く!」
「自分で考えて」
カナタは紙の前で長く止まった。
世界の果ての話なら、いくらでも出る。
島を四回見つけた。
鍋蓋を褒める機巧師がいた。
三十八回脱出した少女がいる。
だが、自分がいない村で何が起きているかを、カナタはまだうまく想像できない。
「朝葉機関」
ようやく言った。
「鳴くって、どんな音だ?」
ルゥは何も褒めなかった。
ただ、その質問を最初の行へ書いた。
――朝葉機関は、どんな音で鳴く。
次に、船の話。
次に、ナギの名。
最後に、五つの印。
返事を待つ場所。
ナギは紙旗の端へ、小さな鈴の絵を描いた。
「アカリへ?」
「うん」
「何て書く?」
「今、ここ」
「同じ!」
「最初はそれでいい」
紙旗は、帰鐘塔の力で島から出ない。
交易船へ載せても、一刻後には戻る。
空へ投げても、塔の前へ落ちる。
「送れない」
ナギが唇を噛む。
「なら、持っていく」
カナタが紙旗を現標板へ挟んだ。
「白迷海へ出て、母さんを見つけて、帰って、それから次の交換点へ」
「順番が増えた」とルゥ。
「一つずつ!」
「珍しく合ってる」
ナギは返事の鐘を見た。
「帰ってから、外へ出る?」
「おう」
「また帰ってくる?」
「帰りたくなったら」
「帰りたくなくなったら?」
「それでも帰る場所はある」
カナタは簡単に言った。
ナギは簡単には受け取らない。
「場所があるだけじゃ、帰れないよ」
「道を作る!」
「帰るって決めないと、道へ乗らない」
「じゃあ決める!」
「今?」
「世界の果てへ行ってから!」
「遠い」
「遠くまで行くために、帰る場所が要るんだろ!」
言いながら、カナタ自身が少し驚いた。
アカリの地図。
今のカゲノハ村。
変わり続ける場所。
帰るときには、覚えている形と違うかもしれない。
それでも、返事をする誰かがいる。
「俺は帰る」
紙旗へ一行書く。
字はルゥに教えてもらった。
カ。
エ。
ル。
二文字目が裏返っている。
「間違ってる」とナギ。
「読めた!」
「意味は合ってる」
「じゃあいい!」
「直して」とルゥ。
返事の紙旗を送り返したあと、港の十二本の桟橋には、十二通りの札が置かれた。
一番桟橋。
――外へ出ない。
二番桟橋。
――白迷潮が去るまで待つ。
三番。
――家族と相談中。
四番。
――船を直してから決める。
十二番。
――ナギたちの返事を待つ。
「全部、出航札じゃないぞ」
カナタが一枚ずつ見た。
「出ない札まで港に置くのか?」
「置く」とサイラ。
到着簿の隣へ、新しい《出航前簿》を作っている。
「出ないと選んだ人も、今どこにいるか数える。永久帰鐘へ旗を渡したかどうかだけで、島の気持ちは分からない」
「決めてない人は?」
「決めていない、と書く」
「空白じゃないのか」
「空白は、あとで誰かが勝手に埋める」
サイラは言葉が増えた自分に気づき、旗竿の石突を親指で磨いた。空欄が人を消す話になると、質問されていない細部まで説明してしまう。
「だから未定も、相談中も、返事なしも書く。弟の欄を五年、ただの空白へしたままにしたことを、私は正確さだと思っていた」
感情だけ抜けた数字へ逃げないため、青燕号の欄へ初めて《姉、現在地を知りたい》と書いた。
サイラは第三桟橋の欄へ、はっきり《相談中》と書いた。
コヨリは三種類の小旗を織った。
外へ向く青。
内へ向く銀。
そして、どちらにも染めていない生成り。
「生成りは何の旗?」
「まだ決めない旗」
「何も描いてない!」
「カナタの最初と同じ」
「仲間!」
「持ち主が決めるまでは、ね」
生成りの旗は、一番多く使われた。
外が怖い者。
島を閉じたくない者。
帰らない家族を待ちたい者。
待つことをやめたいが、門まで消したくない者。
同じ《未定》でも、理由は一つではない。
カナタは旗を見ながら首を傾げた。
「同じ色だと分からない」
「裏に本人の言葉を縫う」
コヨリは小さな糸で、短い文を入れる。
――今日は出ない。
――娘の返事を待つ。
――閉じるのは自分の家路だけ。
――いつか朝雲市場へ。
「表は同じでも、裏が違う」
「向こうから読めない!」
「帰ってきた人が見る」
「六番目みたい!」
「まだ二番目もない」とルゥ。
「先に思いついた!」
「あとで忘れるから数えないで」
修理台では、レトとバンロが第一歩号の船腹を開いていた。
カゲノハ村の古い板。
島の白雲材。
同じ厚さへ削らず、少しずつ違うまま並べる。
「師匠、ここまで残す?」
レトは木槌で板を一度叩いた。句点。右眉だけが上がる。外の材を見たい気持ちは、隠すほど顔へ出た。
「僕なら全部見たい。でも、僕が出たらこの板を誰が戻る形へする」
初めて、残る理由の前に出たい欲望を置いた。バンロは褒めず、鑿の柄をレト側へ向けて渡す。師弟の返事はそれで足りた。
レトが、焦げた板の端を指す。
「残す」とバンロ。
「強度は落ちる」
「隣を厚くする」
「全部交換したほうが早い」
「この板だけ、帰鐘の音を一度通ってる。白迷海で目印になる」
ルゥが船底から顔を出した。
「分かってる人!」
「鍋蓋も一枚増やす」とバンロ。
「そこだけ分かってない!」
「緩衝板」
「翼!」とカナタ。
「二人とも黙って!」
ナギは板を順に叩いた。
こん。
こん。
こ、ん。
三枚目だけ、返る音が二つに割れる。
「ここ、裏の留め具が浮いてる」
レトが板を外す。
本当に、銀留めが半分抜けていた。
「見えないのに分かる?」
「返事が二つ来た。板と留め具が、別の場所にいる音」
ルゥはナギへ、小さな機巧槌を渡した。
「船に乗るなら、毎朝これで船体を聞く」
「まだ乗るって決めてない」
「白迷海へは乗る」
「そのあと」
「そのあとも、使える」
ナギは槌を受け取った。
船の役目が、一つ増える。
カナタがすぐ木札を用意した。
――響路士、ナギ。
「まだ早い!」
「予定!」
「標術もない!」
「仕事は先にある!」
「本人が決める!」
「決める?」
ナギは札を見る。
第一歩号。
母を探す一度きりの船ではなく、その先へ続く席。