第32話 第四章「残る者の港」後編
「今は《鐘聞き》」
「地味!」
「十五歳になったら、旗に聞く」
「それまで席を空ける!」
「荷物置くでしょ」
「置かない!」
「カナタの石がもう三個」とルゥ。
「世界の果てで使う!」
「普通の石!」
ザンバは生成りの旗を持つ老女の前へ立っていた。
老女の道標旗には、雲鳥の紋。
渡り鳥の翼だけを、永久帰鐘へ結ぶため切ろうとしている。
「閉じるのか」
「私はね」
「ほかの者も閉じる術になる」
「だから、私の布は塔へ渡さない」
老女は自分の家の門へ、小さな銀糸を結ぶ。
「私の道だけ、今日はここまで」
「明日は」
「孫が外の話を持ってきたら、また考える」
ザンバは灰旗を抜かなかった。
「終点を置かないの?」
カナタが横から訊く。
「本人が置いた」
「でも明日変わる!」
「今日の終わりだ」
「終点なのに続く?」
「日が変われば、次の道になる」
ザンバは老女の銀糸を見た。
切ることだけが、終わらせることではない。
自分の手で、今日の扉を閉める。
明日、また開けられるように。
夕暮れ。
十二本の桟橋で、十二の返事が鳴った。
出る。
出ない。
待つ。
まだ決めない。
音は一つにそろわない。
帰鐘塔の銀旗だけが、それらを同じ《帰れ》へ集めようとしている。
ナギは第一歩号の甲板から、塔を見た。
「じいちゃん、聞いてるかな」
「聞こえてる」とコヨリ。
「返事は?」
「まだ」
ナギは五回鳴らす。
今、ここ。
島の十二か所から、違う間隔の五回が返る。
ガルドの鐘だけは鳴らなかった。
代わりに塔の窓で、老人の影が一度動いた。
聞いている。
返してはいない。
その違いを、ナギは記録した。
永久帰鐘の準備は、町の色を少しずつ減らした。
帰鐘塔の大広間へ、島中の人々が自分の道標旗を持ってくる。
鍛冶師の炎。
雲漁師の釣針。
パン屋の麦。
子どもの芽。
旗の端から、小さな布片を切る。
銀の始標旗へ結ぶ。
一枚、増える。
町のどこかから、一つの行き先が消える。
飛行具屋の壁に貼られた、外海用の翼図。
切り取られた布が塔へ結ばれると、翼の先が白くなる。
書店の棚にある旅日記。
表紙から遠い島の絵が消える。
市場の果物看板。
見たことのない紫の実が、島で育つ赤い実へ変わる。
「これ、守る準備じゃない」
ルゥは大広間の外で、銀糸の流れを見ていた。
「選ばなかった道を、一つずつ始標旗へ戻してる」
「閉じたら戻る?」とカナタ。
「何が」
「絵」
「戻らないかもしれない。旗が『外へ行かない生き方』を覚えたら、それが新しい原図になる」
「分かりやすく!」
「島の人が、外を思いつけなくなる」
カナタは大広間を見る。
人々は嫌がっているだけではない。
布を切ったあと、ほっと息を吐く者もいる。
もう待たなくていい。
もう外の嵐を心配しなくていい。
帰らない者のため、毎夕港へ行かなくていい。
「全部、止めればいいのに」
「誰が決める?」とザンバ。
「島の人」
「決めている者もいる」
ザンバは、布を結ぶ老女を見る。
旗には雲鳥。
外へ渡る渡り鳥の紋。
布を切る前、老女は長く目を閉じた。
切ったあと、肩の力が抜ける。
「怖い道へ行かないと選ぶことも、選択だ」
「でも、ナギの道まで閉じる」
「そこが問題だ」
「切る?」
「俺に聞くな」
灰旗の黒い点を見る。
「以前の俺なら、迷う者の旗を先に切った」
「今は?」
「まだ決めない」
「急げ!」
「お前が急ぐから、俺が待つ」
ザンバは椅子を半指ぶんずらした。怖いときほど動かない男が、動いたこと自体が答えだった。機巧腕の接続部へ幻肢痛が走り、「風向きのせいだ」と誰にも訊かれず言う。
以前なら最も危険な一枚を切り、全体を守った。今は、切らない時間を他人のために作ることが、本人には戦闘より難しい。
「役割が逆!」
「適切だ」とルゥ。
第一歩号では、レトが船腹を直していた。
板を外し。
カゲノハ村の古い木材を残し。
トマリギ島の白雲材を、隣へ継ぐ。
「全部、新しい板にしないの?」
ナギが訊く。
「同じ重さにしたら、風が変わったとき全部一緒に割れる」
「違う板のほうが強い?」
「違う場所で曲がる」
レトはルゥの銀鋲を受け取る。
「つなぎ目が仕事をする」
「分かってる人」とルゥ。
「鍋蓋以外は」
「そこだけ分かってない!」とカナタ。
船首の鍋蓋は、前より大きくなっていた。
レトが港の廃蓋を一枚重ねたからだ。
「増えてる!」
「緩衝板」
「翼!」
「ぶつかったときに働く」
「飛ぶ前提じゃない!」
「この船には必要」
ルゥは反論しようとし、船体のへこみを見て黙った。
ナギは白迷海の地図を甲板へ広げる。
サイラの到着簿から写した失踪記録。
青燕号。
風渡り丸。
三日月灯船。
七年間で四十一隻。
どれも島を出て、一度は帰鐘に捕まった。
戻る途中で白迷潮へ消えた船もある。
「音印」
サイラが小さな金属札を並べる。
船ごとに、緊急時の打音が違う。
青燕号は、二、二、一。
風渡り丸は、一、四。
三日月灯船は、五つを均等に。
「白迷海では声が曲がる。船腹を叩く音だけは、近くの道へ残りやすい」
「全部覚える!」とカナタ。
「文字も覚えて」とルゥ。
「音なら得意!」
サイラが二、二、一を叩く。
こん、こん。
間。
こん、こん。
間。
こん。
「青燕号!」
「今のは一、二、二」とナギ。
「同じ五回!」
「順番が違う!」
「難しい!」
「だから私が乗る」
ナギは音印札を自分の腰へ結ぶ。
「船長、反対?」
「一緒に行く!」
「本人に聞く前に決めた」とルゥ。
「ナギ、乗る?」
「乗る」
「決まり!」
「聞くのが半呼吸遅い」
サイラは到着簿の一頁を破り、ナギへ渡す。
失踪船の名。
出航した者の名。
待つ者の名。
「全員を連れて帰る、と約束しないで」
「なんで」とカナタ。
「帰れない者がいるかもしれない」
「道を作る」
「帰りたくない者も」
「そんなやついる?」
サイラはアカリの紙札を見る。
「村は変わっている、と書いた人がいた」
「でも帰る場所!」
「帰る人も変わる」
カナタは反論しようとした。
父の椅子。
以前ほど大きくなかった。
自分が変わったから。
「……聞く」
「誰に」
「見つけた人に」
「それでいい」
サイラは到着簿へ、新しい頁を挟む。
――白迷海捜索、未出航。
帰港欄は空けた。
夕方。
ナギはガルドを、帰鐘塔の最上階で見つけた。
銀の始標旗の根元。
老人は一人で、布片を整理している。
島の人々が切った道。
一つずつ名札をつけ。
誰のものだったかを残していた。
「捨ててないんだ」
ナギが言う。
「閉じることと、忘れることは違う」
「でも、使えなくする」
「ああ」
「母さんの旗も?」
「ここにはない」
「帰る場所を消す?」
「島は残る」
「母さんが覚えてる島は?」
ガルドの手が止まる。
七年前。
イオラが出た朝。
ナギは八歳だった。
帰鐘塔の窓から、母の青い旗を見ていた。
白迷潮は、遠い雲の向こうにあった。
『次標旗を、朝雲市場へ立てる』
『潮が近い』
『だから、その前に新しい港が要る』
『お前でなくていい』
『誰かが最初に行かなきゃ、二本目は立たない』
ガルドは始標旗を握った。
『三日で戻れ』
『帰る』
『約束しろ』
『帰る道を作る』
同じ言葉ではなかった。
イオラの船が白迷潮へ近づいた日。
島では嵐が起きた。
ガルドは帰鐘を鳴らした。
一度。
二度。
本来なら、始標旗が外の次標旗から返事を受けてから鳴らす鐘。
返事はなかった。
それでも、娘を失う恐怖に耐えられず、鳴らした。
外へ伸びかけた道が、始点へ折れた。
白迷潮と帰鐘がぶつかり。
空に、最初の大きな輪ができた。
「じいちゃんが戻したの?」
ナギの声が震える。
「戻せなかった」
「でも、鐘を鳴らした」
「ああ」
「母さんが返事する前に」
「ああ」
「それで、道が閉じた?」
「分からん」
「分からないって、七年言わなかった!」
ナギの鈴が激しく鳴る。
「母さんが帰らなかったって言った!」
「そう言わなければ、毎日鐘を鳴らした」
「鳴らせばよかった!」
「さらに閉じたかもしれん!」
「じゃあ聞けばよかった!」
「聞こえなかった!」
「今、聞こえた!」
ナギは鈴を差し出す。
「聞いて」
ガルドは手を伸ばさない。
「怖いの?」
「残響だったとき、お前が壊れる」
「返事だったとき、じいちゃんが壊れる?」
老人の顔が歪む。
ナギは鈴を床へ置いた。
「私、母さんを連れて帰る」
「行かせん」
「許可を聞きに来たんじゃない」
「船を封じる」
「鐘を壊す」
「島が落ちる」
「だから壊さない」
ナギは涙を拭った。
「母さんも。島も。じいちゃんも。全部残る道を探す」
「全部は選べん」
「カナタみたいなこと言う」
「逆だ」
「同じ。二つしか並べてない」
ナギは塔を下りる。
扉の前で、一度だけ振り返った。
「返事、来てたよ」
「何と」
「聞こえてる、って」
扉が閉まる。
ガルドは始標旗の下に一人残る。
銀の布片へ、島中の行き先が結ばれている。
安全。
記憶。
待つ痛みを終わらせる道。
その外で、小さな鈴が一度鳴った。
ちりん。
老人は、今度も手を伸ばさなかった。
夜。
第一歩号の桟橋には、帰鐘塔の封鎖索が三重に張られた。
見張りが六人。
朝火炉の鍵は塔へ運ばれた。
「じいちゃん、本気」
ナギが物陰から見る。