第33話 第五章「白迷海」前編

「俺たちも本気!」

カナタは大きな声で答えた。

見張り六人が同時に振り向く。

「静かに!」

ルゥが口を塞ぐ。

「作戦は?」とザンバ。

甲板の下。

レトが、予備の朝火炉を組んでいた。

小さい。

力は通常の半分。

島の修理舟用。

「主炉の鍵がなくても、一刻は飛ぶ」

「足りる!」とカナタ。

「白迷潮の中では、時間も距離も分からない」

「一刻で七年かもしれない!」

「悪いほうへ増やさないで」とルゥ。

サイラは、見張りの交代表を現標板へ置く。

「次の交代まで五十呼吸。出たあと、私は到着簿へ記録する」

「手伝ったって書く?」

「起きたことは消さない」

「怒られるぞ」

「弟の現在地を知りたい」

レトは船底から出る。

「僕は行かない」

言葉のあとに、木槌の句点が来なかった。ナギの名を呼べば引き止める声になる気がして、喉が一度鳴る。

レトは代わりに、最初の帰還桟橋へ使う板の裏へ小さな刻印を打った。表からは見えない。帰ってきた者が最初に踏んだ重さだけ、自分へ届く場所だった。

「分かってる」とナギ。

「五回返す」

「分かってる」

「返事が届かない日も」

「分かってる!」

ナギの声が少しだけ大きくなる。

レトはそれ以上言わず、木槌を渡した。

柄に小さな刻み。

五つ。

「音が分からなくなったら、これで叩いて」

「同じ音になる?」

「使うたび、へこみが増える」

「じゃあ、生きた返事」

「返せるうちは」

レトは見送りへ出ないつもりだった。船が離れる瞬間まで桟橋の下へ潜り、最後の留め具を締め続ける。去っていく背中を見れば、自分も乗りたいと言ってしまうからだ。

木槌を渡したあと、空になった手で桟橋板を五回叩く練習だけした。音が遠くても、手は迷わないように。

ザンバが封鎖索を確認する。

「物理索は俺が外す」

《終点》で一気に!」とカナタ。

「使わん」

「なんで!」

「帰鐘路と同じ結び目だ。索を道ごと終えれば、港へ戻れなくなる」

「じゃあ切らずに外す!」

「最初からそう言っている」

ザンバは機巧腕で太い留め具を持ち上げる。

ルゥが銀鋲を差し、張力を一時的に別の柱へ移す。

一つ目。

二つ目。

三つ目。

封鎖索が音なく緩む。

見張りが交代する。

サイラが遠くの鐘を一度鳴らす。

到着記録の確認音。

見張り全員が塔を見る。

「今!」

第一歩号が桟橋を離れた。

予備炉の小さな金火。

帆は半分。

船首の鍋蓋は二枚とも白布を巻いている。

「目立つ!」とルゥ。

「帰りの目印!」

「夜の脱出で白くしないで!」

見張りが気づく。

「船が出るぞ!」

「帰鐘塔へ!」

警鐘が鳴る。

ガルドの銀旗が塔の上で開いた。

《帰着》

夜空へ巨大な円。

第一歩号の前方が曲がる。

港が正面へ現れた。

「もう戻った!」

「まだ出てない!」

カナタは白旗を抜く。

「標術――《未踏路》! 母さんの音へ!」

一歩分の光板。

白迷潮へ向く。

すぐに島へ曲がる。

「もっと強く!」とナギ。

「ナギの母さんへ!」

二枚目。

右へ曲がる。

「カゲノハ村の反対!」

三枚目。

上へ曲がる。

「世界の果ての途中!」

四枚目。

ばらばらの方向へ裂ける。

「また全員の行き先をまとめた!」

ルゥが叫ぶ。

「じゃあ何て言う!」

ナギは鈴を五回鳴らす。

白迷潮から返る。

金属。

木。

鐘。

五つ。

「次の生きた返事!」

「それだ!」

カナタは旗を振り上げる。

「聞こえた五回の、その次へ!」

一歩分の光板が生まれた。

今度は曲がらない。

行き先は母そのものではない。

世界の果てでもない。

今、向こうで返事をした誰かへ。

ルゥが銀鋲を打つ。

「船体と光板を接続!」

ザンバが船尾へ立つ。

帰鐘の円が追ってくる。

灰旗の黒い点が光りかける。

男は旗を振らず、機巧腕で索の残りを外した。

「今は、切らん」

「何をする!」

「最後に決める」

第一歩号が光板へ飛び乗った。

一歩。

白迷潮が近づく。

二歩。

島の鐘が遠くなる。

三歩。

レトの木槌が五回。

ナギが返す。

四歩。

白い霧が船首を呑む。

ガルドの声が、帰鐘塔から届く。

「戻れ!」

ナギは振り返らなかった。

「帰る!」

叫び返す。

「でも、今は行く!」

第一歩号は白迷海へ入った。

世界から、島の位置が消えた。

白迷海には、上も下もなかった。

空は白い。

雲も白い。

風はあらゆる方向から吹き、帆を膨らませた次の瞬間には裏返す。

第一歩号の羅針盤は、入って十呼吸で回り始めた。

二十呼吸で針が軸から外れた。

三十呼吸で、カナタの額へ刺さった。

「俺の羅針盤!」

「最初から役に立ってなかったでしょ!」

「今は俺を指してる!」

「抜いて!」

「船長の位置が分かる!」

「見れば分かる!」

ルゥは船縁へ銀鋲を打ち込んでいた。

帆柱。

操舵輪。

朝火炉。

船首。

船尾。

五つを光糸でつなぐ。

《継ぎ路》! 第一歩号の今を固定!」

霧の中では、距離まで曖昧になる。

音も同じだった。近い声が何年も遅れ、遠い板音が耳のすぐ裏で鳴る。ナギは片目を閉じ、片耳栓を厚いものへ替えた。

それでも三方向から五打音が重なった瞬間、金属味が強くなる。吐き気を隠し、「道具のほうが疲れた」と言う。

「座って」とルゥ。

「私の番」

「今使ってるのは誰の耳?」

カゲノハ村でハルガに言われた言葉を、ルゥが別の形で返す。ナギは反論せず、音の少ない船底へ一呼吸だけ下がった。

船首が船尾より先に進み。

帆だけが別の風へ流され。

甲板の左端が、右端より昨日へ戻ろうとする。

銀糸が張り、つぎはぎの船体を一つの現在へ縫い止めた。

「船が時間にほどける!」

カナタが喜ぶ。

「面白がるな!」

「昨日の朝火炉を持ってくれば燃料が増える!」

「昨日に戻ったら、使った燃料も戻る!」

「じゃあ同じ!」

「だから意味がない!」

現標板の文字が、一つずつ薄くなっていた。

船名。

第一歩号。

これは残る。

乗っている者。

カナタ。

ルゥ。

ザンバ。

ナギ。

ナギの名だけ、島へ置いてきた記録と船に乗っている現在が引き合い、二重に見える。

「私、二人いる?」

「一人は島へ帰したい鐘の記録」とルゥ。

「もう一人は?」

「今、船にいるあなた」

「どっちが本物?」

「返事をするほう」

ナギは現標板を五回叩いた。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

船にいる名だけが少し濃くなる。

現在地の欄は、何度書いても白く消えた。

カナタが《冒険中》と書く。

消える。

ルゥが《白迷海》と書く。

半分だけ残る。

ザンバが《不明》と書く。

くっきり残った。

「なんでお前の字だけ!」

「正しいからだ」

「迷子じゃない!」

「不明だ」

「広く探してる!」

「何を」

「母さん!」とナギ。

「次の鐘!」とルゥ。

「輪の切れ目」とザンバ。

「世界の果て!」

「一人だけ広すぎる!」

ナギは船の中央へ座り、鈴を掌へ載せた。

風眼鏡を外す。

目を閉じる。

見えるものを減らし、音を増やす。

ちりん。

右。

「右!」

ルゥが舵を切る。

第一歩号は右へ向いた。

次の瞬間、右が上になった。

船体が九十度傾く。

「上!」

「今の右は上!」

「どっち!」

「音の右!」

「音に右があるの!?」

「ある!」

「俺にはない!」

「聞いて!」

ちりん、ちりん。

少し下。

ルゥが帆を絞る。

朝火炉を半分。

銀枝機関はまだない。

第一歩号は、カゲノハ村とトマリギ島の木材、古い風羽根、朝火炉だけで白い海を進む。

白い霧の中から、鐘の音がいくつも返った。

遠い。

近い。

同じ音が後ろから。

前からも。

「全部、母さん?」

カナタが訊く。

「違う」

ナギは即答した。

「一つは島。二つは残響。三つは知らない船」

「知らない船?」

「鐘を鳴らしてる」

霧の左から、小さな音。

からん。

三回。

右から五回。

下から七回。

誰かが帰る場所を探している。

誰かが、自分の位置を知らせている。

誰かは、同じ音を何年も繰り返している。

「全部助ける!」

カナタが白旗を構えた。

「待って!」

ナギが腕を掴む。

「母さんの音を見失う!」

「ほかの船もいる!」

「今追ったら、私たちも戻れない!」

「道を作る!」

「行き先が分からない!」

カナタの旗は、行き先がなければ一歩を置けない。

音はある。

けれど、誰がどこにいるかは分からない。

「呼べば返る!」

「返らない音もある!」

「じゃあ返るまで!」

「その間に母さんの音が消える!」

二人の声がぶつかる。

ルゥは操舵輪から目を離さず言った。

「現標板へ書く」

「何を?」

「今聞こえた音。回数と方向」

「あとで戻る?」

「戻れるとは言わない」

「じゃあ助けないのか!」

「助けるために、今は場所を失わない」

ザンバが灰旗の石突を甲板へついた。

「進むことと、見捨てることを同じにするな」

「でも離れる!」

「離れた距離を残せ」

「どうやって!」

「数えろ」

ナギは現標板へ小さな札を並べた。

左、三回。

右、五回。

下、七回。

時刻は分からない。

船の鐘を一度鳴らした直後。

コヨリの冊子と同じように、聞こえたことと聞こえなかったことを残す。

「戻ってこられる?」

カナタがまだ訊く。

「分からない」とナギ。

「分からないのに進む?」

「母さんの返事がある」

「ほかの船も返した!」

「だから残した」

ナギは鈴を強く握った。

「全部の声へ同時に行くのは、全部を聞いたことにならない」

カナタは白旗を下ろした。