第34話 第五章「白迷海」後編
納得はしていない。
それでも、今はナギの音を行き先にすると決めた。
「次の鐘」
「うん」
「そのあと、三回の船」
「まだ返事があれば」
「五回も!」
「返事があれば」
「七回!」
「書いた」
現標板の脇へ三枚の札。
救えなかった者ではない。
まだ会っていない者。
第一歩号は霧の奥へ進んだ。
しばらくして、白い壁の中から黒い船影が現れた。
古びた大型船。
帆は裂け、甲板には苔が生えている。
船首の看板には《青燕号》。
「知ってる」
ナギの顔が青ざめた。
「五年前に島を出た船。朝雲市場へ行って、三日で帰るはずだった」
青燕号の甲板には、人影があった。
何十人もの乗組員が、同じ場所を歩いている。
三歩進む。
振り返る。
三歩戻る。
荷物を運び。
元の棚へ戻す。
帆を上げ。
同じ帆を下ろす。
食事を一口食べ。
皿へ戻す。
誰も第一歩号に気づかない。
「時間まで輪になってる」
ルゥが銀鋲を投げる。
青燕号の船縁へ刺さる。
「《継ぎ路》!」
銀糸が第一歩号と青燕号をつなぐ。
次の瞬間、銀鋲はルゥの手元へ戻った。
投げる前の位置。
「つながりまで巻き戻された」
「俺が行く!」
カナタは船縁へ足をかける。
ナギが止める前に、白旗を突いた。
「青燕号の甲板!」
一歩分の光板。
カナタが踏む。
二歩目を自分で跳ぶ。
青燕号へ着地した。
「おーい!」
船長らしい男がこちらを向く。
深い皺。
白くなった髪。
五年前の出航時は四十代だったはずが、七十を越えて見える。
「港はどちらだ?」
男は訊いた。
「トマリギ島は向こうだ!」
「向こうとは、どちらだ?」
「俺たちの船の後ろ!」
男が第一歩号を見る。
次の瞬間、視線を失う。
「港はどちらだ?」
同じ問い。
「今言った!」
「向こうとは、どちらだ?」
カナタは男の肩を掴んだ。
「返事しろ! 今どこだ!」
「港はどちらだ?」
「名前!」
「港は」
男の足が三歩進む。
カナタの手から離れ。
三歩戻る。
最初の位置へ。
「船長!」
ナギが第一歩号から叫ぶ。
「五つ叩いて!」
カナタは青燕号の甲板を五回叩いた。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
男の足が一瞬止まる。
唇が動く。
「……ここ」
輪の外へ、初めて違う言葉が出た。
「そうだ!」
カナタはもう一度五回。
「今、ここ!」
青燕号の乗組員たちが、一人ずつ顔を上げた。
だが、白い霧の奥で鐘が鳴る。
ごおん――。
全員の足が元へ戻った。
三歩。
振り返る。
三歩。
「港はどちらだ?」
男の問いも戻る。
青燕号の船体が霧へ沈み始めた。
「待て!」
カナタは白旗を甲板へ突く。
「第一歩号まで!」
一歩分の光板。
青燕号から第一歩号へ。
次の一歩を船員へ空ける。
「踏め!」
男は光板を見る。
一歩上げる。
足が進む前へ戻る。
同じ三歩へ。
「自分で踏んで!」
ナギが鈴を鳴らす。
五回。
乗組員の一人。
若い女が、光板へ足を向けた。
あと半歩。
霧の鐘。
ごおん――。
青燕号が消えた。
カナタの足元も白くなる。
第一歩号が遠い。
「カナタ!」
ルゥの銀鋲が飛ぶ。
腰へ絡む。
「《継ぎ路》!」
今のカナタと、今の第一歩号をつなぐ。
青燕号の時間へ巻き戻される前に、銀糸を引く。
カナタは光板を蹴た。
最後の一歩を跳ぶ。
第一歩号の甲板へ転がった。
背後には白い霧だけ。
「助けられなかった」
カナタは起き上がらない。
「今は」とルゥ。
「また今だ」
「今を残さないと、次がない」
ナギは現標板へ書く。
――青燕号。
――五年前に出航。
――船長、五回に一度だけ《ここ》と返事。
――若い女、一歩を踏みかけた。
――霧鐘のあと消失。
「これで助かる?」
カナタが訊く。
「分からない」
「紙だぞ」
「今の青燕号を、私たちが忘れない」
「忘れなければ帰る?」
「帰る道を作るとき、誰を待つか分かる」
ナギは札を、母の音の記録の隣へ置いた。
「母さんだけ見つけて終わりにしない」
カナタはようやく立った。
青燕号が消えた場所へ、白旗を一度向ける。
道は出さない。
行き先がまだ分からないから。
代わりに、現標板を五回叩いた。
今、ここ。
返事はない。
それでも、今度は待てた。
同じ頃。
カゲノハ村では、返事の鐘が一日に四度鳴っていた。
正確には、同じ五回が四度戻っていた。
「一回目!」
アカリが南橋の白杭へ手を当てる。
こん。
こん。
こん。
こん。
こん。
三つ目と四つ目の間が少し長い。
天頂門へ向かう三本目の杭が緩んでいる、今のカゲノハ村の返事。
「二回目!」
トウヤが逆さ滝の中腹で、足場を五回叩く。
同じ音が、ほとんど間を置かず戻る。
三つ目と四つ目の間も同じ長さ。
「早すぎる」
アカリは薬箱の蓋へ記録した。
「第一歩号まで行って帰ったなら、もっと時間がかかる」
「風が速い?」とトウヤ。
「道が短い」
「近くにいる?」
「同じ場所を回ってる」
三回目。
四回目。
どれも一回目の返事を、そのまま写した音だった。
セリが天頂門の白杭を調べる。
「外から来た音じゃない。門を越える前に曲がってる」
「島?」
アカリは第一歩号から来た便りを広げた。
交易船が東風路交換点へ持ち帰った短い報告。
――トマリギ島。
――同じ港へ四回。
――ナギという鈴の人。
――白迷潮。
――朝葉機関は、どんな音で鳴く。
最後の一行だけ、カナタが自分で考えた質問。
アカリはそこへ丸をつけた。
「初めて、村のこと聞いた」
「屋根の色は?」とフィオ。
「便りに書いた」
「読んでないかもしれない」
「読んでも忘れる」
「じゃあもう一回」
発着場の現標板には、第一歩号の欄がある。
現在地。
返事なし。
次の行き先。
トマリギ島から先、不明。
その下へ、アカリは新しい紙を貼った。
――朝葉機関の音。
朝葉機関は、朝の光を集めるたび、薄い羽根を震わせる。
最初の一枚は高い。
二枚目だけ、少し低い。
三枚目は音がない。
四枚目が最後に短く鳴る。
からん。
ころん。
――。
こん。
「文字じゃ届かない」
トウヤが言った。
「音なら?」
アカリは朝葉機関の前へ、返事の鐘を持っていった。
一枚目。
からん。
二枚目。
ころん。
三枚目。
音なし。
四枚目。
こん。
そのあと、五回。
今、ここ。
「これを返す?」
「今の村の音」
「昔は鳴かなかった」とフィオ。
「だから残響にできない」
アカリは鐘を叩いた。
朝葉機関の不揃いな四音。
五回の現在地。
白杭へ振動が入り、南橋へ。
トウヤの足場へ。
セリの保守籠へ。
天頂門へ。
門の外へ出る直前、音が強く引かれた。
遠い島の鐘。
こちらへ来るのではない。
島の中心へ戻ろうとする力。
「持っていかれる!」
セリが白杭を押さえる。
「切る?」
「切らない!」
アカリは薬箱から新しい紙札を出す。
――送り先、第一歩号。
――帰す先、カゲノハ村。
二つを別に書き、白杭の左右へ結ぶ。
「同じ道へ入れたら、島へ丸ごと持っていかれる」
「一本増やす?」
「返る道を先に残す」
ルゥがいない。
継ぎ路は使えない。
カナタの未踏路もない。
アカリは普通の縄で、杭と杭を結んだ。
一つの音が外へ。
一つの印が村へ残る。
「物理」とトウヤ。
「最後は気合い」
「カナタみたい」
「不吉」
音を送る。
島の力が引く。
縄が張る。
一本目が切れる。
二本目。
三本目。
最後に、天頂門のアステルの旗が一度だけ揺れた。
帰還路の細い光が、村へ向く。
送った音そのものではない。
村側の印だけを、今使っている白杭へ残す。
「父ちゃんの道」
トウヤが言う。
「カナタに返す?」
「返すんじゃない」
アカリは白杭を五回叩く。
「ここにいるって言う」
音が門を越えた。
今度は、すぐには戻らない。
長い沈黙。
十呼吸。
二十。
三十。
白杭が、一度だけ震えた。
遠くの鈴。
ちりん。
知らない音。
ナギ。
アカリは一度返す。
こん。
呼び声と返事。
それだけで、白杭の先に細い線が残った。
「届いた?」
「今は」
「次も?」
「杭を増やす」
アカリは村図の外へ、一本の線を描いた。
カゲノハ村。
天頂門。
東風路交換点。
その先に、まだ正確な位置の分からない丸。
トマリギ島。
「道じゃない」
フィオが言う。
「まだ音だけ」
「返事が続けば道になる」
アカリは丸の横へ書く。
――村外へ置く最初の返事札候補。
カナタたちが帰ってこなくても、村から届く道を増やす。
出航前に決めた、自分の最初。
今、その一歩が島の鐘へ届きかけていた。
白迷海の第一歩号では、朝葉機関の音が霧の中から聞こえた。
からん。
ころん。
音なし。
こん。
そのあと五回。
今、ここ。
「村!」
カナタが船縁へ走る。
霧の中に、カゲノハ村が現れた。
苔灯り。
広場。
南橋。
発着場。
朝葉機関。
ただし、機関の羽根は四枚とも同じ音を鳴らしている。
からん。
からん。
からん。
からん。
「違う」
ナギが言った。
「今の返事は、二つ目が低かった。三つ目は鳴らなかった」
「村が見えるぞ!」
「見えるものが今とは限らない」
霧の村では、発着場の柵が折れたままだった。
旅人宿の屋根は青い。
南橋の手すりは、出航前の数。
ルゥの古い作業机に、新しい引き出しはない。
「俺が出た日の村」
カナタは呟いた。
発着場に、アカリが立っている。
へこんだ薬箱。
出航の日と同じ服。
同じ位置。
「おかえり」
霧のアカリが言った。
「早かったね」
カナタの足が船縁へ向く。