第35話 第六章「昔の村からの返事」前編
「カナタ」
今度は、白迷海が父アステルの姿を借りた。
白い旗の隣。
五歳の頃に別れた姿。
口元が動く。
『たまには帰れ』
一呼吸後。
同じ速さ。
同じ息。
同じ声で、もう一度。
『たまには帰れ』
「父ちゃん」
呼びかけても、父の目は動かなかった。
胸が痛む。
一度でいい。
父と同じ家へ帰りたい。
自分が出た日の村へ戻りたい。
変わる前の机。
直す前の柵。
置いてきたものが、そのまま待っている場所。
「帰りたい?」
ナギが訊いた。
「帰りたい」
カナタは答えた。
初めて、迷いなく。
「でも、あれは今じゃない」
ルゥが横へ立つ。
彼女の目にも、作業小屋が見えている。
自分の机。
工具。
誰も触れていない引き出し。
「私も帰りたい」
ルゥは銀鋲を一本、現標板へ打った。
「でも、机はもう変わった」
「元へ戻せばいい!」
「戻すかどうか、見習いと一緒に決める」
「俺の柵は?」
「村の柵」
「俺が壊した!」
「だから村が直した」
霧のアカリが手を伸ばす。
「村の話は、帰ってから聞けばいい」
カナタの足が止まった。
出航前の約束。
帰ってからではなく、先に聞く。
このアカリは、約束を知らない。
「朝葉機関」
カナタは霧へ向かって叫ぶ。
「どんな音で鳴く!」
霧のアカリは笑う。
「いつもと同じ」
「違う!」
白旗を抜く。
「今の村は、いつもと同じじゃない!」
父の姿を借りた霧の口元が、また同じ形へ動く。
『たまには帰れ』
息の長さまで、さっきと同じ。
「父ちゃんの記録だ」
カナタは白旗を握り直した。
「今の俺を見て返してるんじゃない」
白旗を横薙ぎに振る。
一歩分の光板が、霧の村の手前へ立つ。
道ではなく、境目。
「今鳴った村の音を、勝手に昔へ戻すな!」
現標板の現在地を五回叩く。
「俺が帰る日を、お前が出航日に決めるな!」
朝葉機関の不揃いな音が、もう一度届く。
からん。
ころん。
音なし。
こん。
霧の村に亀裂が入る。
青い屋根。
古い手すり。
父の姿。
すべてが白へほどけた。
カナタは旗を下ろした。
「父ちゃんまで消した」
「残響を消した」とザンバ。
「同じじゃない」
「違う。だから、また思い出せる」
ザンバは船尾で、誰もいない霧を見ていた。
「お前には何が見えた?」
カナタが訊く。
「帰る前の道だ」
「どこ?」
「アステルと別れる前」
「帰りたい?」
「戻れん」
「戻る道を作れば!」
「戻りたい場所と、戻るべき場所は同じではない」
ザンバは灰旗の黒い点を押さえた。
霧の野営地では、過去の口元がいくつも動いた。
けれど言葉は聞き取れない。
戻りたいというザンバ自身の願いだけが、意味を足そうとしていた。
「以前なら、全部切っていた」
「今は?」
「聞くだけ聞く」
片目を開く。
「返事はしない」
「それも返事じゃない?」とナギ。
ザンバは一瞬だけ黙った。
「そうかもしれん」
ナギの前にも、トマリギ島が浮かんでいた。
帰鐘塔。
ガルド。
そして、母イオラ。
島の門を一歩も出ていない母。
毎朝家にいる。
毎夕帰る。
七年の空白がない。
「ナギ」
母が呼ぶ。
「外へ行かなくていい」
ナギは鈴を鳴らさなかった。
「返事は?」
カナタが訊く。
「この母さん、呼んでない」
「名前を呼んだぞ」
「私が聞きたい言葉を言ってるだけ」
ナギは一、三、一を鳴らす。
ナギです。
霧の母は同じ音を返した。
一、三、一。
間隔まで完全に同じ。
「残響」
ナギは涙を拭わず、もう一度鳴らした。
今度は二、二、一。
幼い頃に決めていない合図。
霧の母は答えられない。
「母さんは、生きてるなら変わってる」
黄色い半旗を振る。
霧の母が裂ける。
その向こうから、本当の鈴が鳴った。
ちりん。
ちりん、ちりん、ちりん。
ちりん。
一、三、一。
ただし、最後の一音が少し低い。
同じではない。
七年の風を通った返事。
「母さん」
ナギが霧の奥を指す。
「こっち!」
第一歩号が進路を変える。
カナタは現標板へ新しく書いた。
――現在地、白迷海。
――今回の誘導先、今返事がある場所。
字はルゥ。
最後の五つの印だけ、カナタが自分で描いた。
同じ形にはならない。
大きい丸。
小さい丸。
少し離れた丸。
不揃いだから、今の手で書いたと分かる。
第一歩号は、変わり続ける返事を追って白い海を進んだ。
昔のカゲノハ村の幻が消えてから、第一歩号は五回の音だけを頼りに進んだ。
白迷海では、距離を測れない。
代わりに、返事の変化を数える。
一度目は、木。
二度目は、金属。
三度目は、布を張る音が混じる。
同じ場所で同じ物を叩いているなら、音は変わらない。変わるということは、向こうも動き、直し、今を続けている。
「近づいてる?」
カナタが訊いた。
「私たちが近づいてるか、向こうが近づいてる」とナギ。
「同じ!」
「違う。向こうが動いてるなら、行き先を勝手に置けない」
「止まってもらう!」
「声、届かない」
「大きく――」
「距離じゃない!」
ルゥがいつものところで遮った。
霧の中から、太い縄が一本現れた。
船の綱ほど。
表面には、何十種類もの結び目がある。
大きい輪。
小さい輪。
途中で切れ、別の色の糸でつないだ箇所。
縄の端は見えない。
「青燕号で見た縄」
ナギが手を伸ばす。
「引くな」とザンバ。
「分かってる」
ナギは縄を五回叩いた。
返事はすぐ来た。
右から五回。
左からも。
上から三回。
下から二、二、一。
霧が薄くなる。
最初に見えたのは、帆柱だった。
次に、丸い船腹。
さらに奥へ、何十隻もの船。
船と船は縄でゆるく結ばれ、一つの大きな輪にならず、網の目のように広がっていた。
中央は空いている。
どの船も、必要なら外へ抜けられる。
「港だ!」
「港じゃない」
隣の舟から男の声が返った。
年は三十ほどに見える。
けれど髪の半分は白い。
青燕号の青い上着。
腰には、二、二、一の打音札。
「ここは《綱泊》だ。帰鐘に捕まった船が、互いを現在へつないでる」
「青燕号の人!」
男は第一歩号を見て目を細める。
「トマリギ島の船じゃないな」
「世界の果てへ行く第一歩号!」
「ここで世界の果てを名乗る船は十六隻目だ」
「先客!」
「主に迷子」
「仲間!」
「喜ぶな!」
男の名はユアン。
港録師サイラの弟だった。
暦の上では二十四歳。小指が短く、指笛は普通の船員より半音高い。白い霧と白帆の境目が見えにくいため、船縁には炭で太い線を足してある。片肩は昔の脱臼で、長く上へ伸ばせない。縄を渡すときは、敵であっても必ず柄や輪を相手側へ向けた。
人数を数えるときだけ左の小指から逆順に折る。入口、出口、今いる者。三つを確かめ終える前には、自分の行き先を口にしなかった。
トマリギ島を出てから、本人の時間では四十日。
島では五年。
「姉ちゃん、まだ到着簿つけてる?」
「つけてる」とナギ。
「怒ってる?」
「たぶん」
「帰りたくなくなった?」
カナタが訊く。
ユアンは少し考えた。
「帰りたい」
「じゃあ道を作る!」
「その前に、朝雲市場へ行く」
ユアンは「帰りたい」と言ったあと、肩の古傷を親指で押さえた。帰ることで、綱泊で生きた四十日を無かったことにされるのが怖い。
「私が帰るのは、ここを忘れるためじゃない」
決断のときだけ主語を省かなかった。
「帰らないのか!?」
「荷を届ける途中だった」
青燕号の船倉には、紫色の乾燥果実が積まれている。
五年前の島にはなかった品。
白迷海の時間では、まだ腐っていない。
「待ってる人がいるぞ!」
「だから帰る」
「先に!」
「俺が出た道を終えてから」
「同じだろ!」
「違う」
ユアンは二、二、一を甲板へ打つ。
「姉ちゃんに『三日で帰る』と言った。でも、朝雲市場へ届けるとも言った。片方だけにすると、俺が出た道じゃなくなる」
カナタは言い返しかけた。
ザンバの旗竿が肩へ当たる。
「本人の道だ」
「分かってる!」
「顔に出せ」
「顔は帰れって言ってる!」
「それを命令にするな」
綱泊には、帰りたくても帰る場所を思い出せない船があった。
港の名だけを忘れた者。
家は覚えているが、誰が待つか分からない者。
帰鐘に何度も引かれ、トマリギ島を自分の故郷だと思い始めた者。
逆に、島へ戻らず、この網を守ると決めた者もいる。
「白迷海へ次の船が来たとき、五回を返す者が要る」
ユアンは中央の空白を指す。
「全員が帰ったら、ここがなくなる」
「帰らない場所を、帰るために残す?」
ナギが訊く。
「一度も帰らなくていい場所だ」
「分かりやすく!」とカナタ。
「どの港へ行くか決めるまで、今いる船をつなぐ場所」
「途中!」
「そうだ」
カナタの顔が明るくなる。
「途中にも旗を立てる!」
「旗を立てたら、帰鐘が港だと思う」とユアン。
「じゃあ、立てない旗!」
「何それ」とルゥ。
ナギは現標板から、小さな空白札を一枚外した。
名も。
行き先も書かない。
五つ穴のうち、現在地だけ。
――綱泊。
――返事あり。
それを中央の縄へ結ぶ。
「旗じゃなく、返事」
「地味!」
「見つけた人には十分」
ユアンが縄を五回叩く。
綱泊中の船が順番に返す。
近い船から。
遠い船へ。
音が網を渡る。
一つの巨大な鐘にはならない。
それぞれの船体。
違う高さ。
違う間。