第36話 第六章「昔の村からの返事」後編
ばらばらだから、何隻いるか分かる。
「母さんの音、聞いたことある?」
ナギは一、三、一を鳴らした。
ユアンの顔が変わる。
「二日前――こっちでは二日前だ――同じ合図が北の深い層から来た」
「北は?」
「今は下」
「どっち!」
「この縄の七つ目を右へ。三回返るところで、結び目のない側」
「分かりにくい!」とカナタ。
「白迷海では、分かりやすいほうだ」とザンバ。
第一歩号は綱泊の外へ向く。
「一緒に来る?」
カナタがユアンへ手を伸ばした。
ユアンは手を取る前に、第一歩号の入口、船尾、乗員三人、ナギの席を順に見た。配置を決める癖が出たところで、自分が今乗る気になっていたと気づく。
右眉も左眉も動かさず、代わりに切れた灯索をカナタへ柄側から渡した。
「綱泊の返事が途切れたら、これを鳴らして」
「今は残る」
「姉ちゃん待ってる!」
「知ってる」
「青燕号も探してる!」
「ここにいる船を、いきなり全部引くなって教える人が要る」
「それが終わったら?」
「朝雲市場。それから帰る」
「絶対?」
「返せるとき、返す」
ナギが答えを引き取った。
ユアンは笑う。
「島で、その言い方が増えたのか」
「今、増やしてる」
第一歩号が縄を離れる。
ルゥは綱泊の結び目を図へ写す。
ザンバは中央の空白を見る。
カナタは何度も振り返る。
「連れていけるのに」
「連れていくことと、帰ることは違う」
ナギが言った。
「帰る人が、自分で最後の一歩を踏む」
「最後まで道を作る!」
「一歩手前まで」
「また手前!」
「返事をする場所」
綱泊から五回。
今、ここ。
第一歩号も五回返す。
白い霧に見えなくなっても、網のどこかに生きた音が残った。
母の返事へ近づくほど、白迷海の鐘は増えた。
一つの音が二つへ。
二つが四つへ。
四つが八つへ。
どれも少しずつ違い、どれも同じ場所へ戻ろうとしている。
「母さんの音が、何人もいる」
ナギは鈴を耳へ押し当てた。
「何人?」
「今、六人」
「増えた!」
「喜ばないで!」
ルゥが操舵輪を細かく切る。
霧の中では、同じ返事が別の時間から届く。
七年前の一音。
三年前の一音。
昨日の一音。
まだ鳴っていない明日の残響まで、白い海が先回りして返す。
「どれが今だ?」
カナタが訊く。
「分からない」
「変わってる音!」
「全部、少しずつ変わってる」
「じゃあ全部!」
「またそれ!」
白旗を構えたカナタの前へ、ザンバの灰旗が出た。
「道を増やすな」
「母さんが六人いる!」
「一人だ」
「音は六つ!」
「過ぎた返事へ行けば、今から離れる」
「どう見分ける!」
「今いる者へ訊け」
ナギが一、三、一を鳴らす。
六つの返事。
全部が同じ合図。
「違う質問」
ルゥが言った。
「昔決めた合図なら、昔の残響も答えられる。今しか知らないことを訊く」
「何を?」
ナギは考えた。
母が知らない今。
自分が十四歳と十一か月になったこと。
三十八回、島の外へ出ようとしたこと。
コヨリが旗織り見習いになったこと。
ガルドの髭が前より長くなったこと。
第一歩号という変な船。
「鍋蓋」
ナギが言った。
「何?」
「母さんは、船首に鍋蓋が二枚ある船を知らない」
「翼!」
「今は鍋蓋でいい!」
「今だけ!?」
ナギは鈴を二度、四度、二度鳴らした。
決めたことのない合図。
二、四、二。
鍋蓋が二枚。
六つの返事のうち、五つは沈黙した。
最後の一つだけ、遅れて鳴る。
二度。
しばらく迷い。
三度。
また迷い。
二度。
「数が違う」とカナタ。
「知らないから考えた」
ナギの顔が明るくなる。
「これが今!」
返事は右下。
ルゥが舵を切る。
第一歩号は白い海を斜めに落ちた。
その進路へ、別の船が飛び込んできた。
小さな家舟。
丸い屋根。
船尾に洗濯物。
船首へ、同じ家舟がもう一隻つながっている。
よく見ると、二隻ではない。
一隻目の船尾が二隻目の船首へ入り、二隻目の船尾が一隻目の船首へ戻っている。
二つで一つの輪になっていた。
屋根の窓から、子どもが顔を出す。
「港、知りませんか!」
反対側の窓から、同じ子どもが顔を出す。
「港、知りませんか!」
同じ顔。
同じ声。
どちらが先か分からない。
「助ける!」
カナタが白旗を突く。
「第一歩号まで!」
一歩分の光板。
家舟の窓の手前。
子どもが足を伸ばす。
反対側の子どもも、同じ足を伸ばす。
二つの輪が同時に光板へ乗り、板を両側から引いた。
「一歩が二つに!」
光板が中央で折れる。
第一歩号の船首と船尾へ別々につながった。
船体が輪へ曲げられる。
「また船が自分を追いかけてる!」
「《継ぎ路》!」
ルゥは銀鋲を船首と船尾へ打つ。
つなぐのではない。
二つの位置を、それぞれ今の場所へ縫い止める。
銀糸が張った。
「カナタ、行き先を一つにして!」
「二人いる!」
「同じ子!」
「どっちを!」
「本人に訊く!」
ナギが家舟へ鈴を五回鳴らす。
「今、どっちにいる!」
二人の子どもは同時に自分を指した。
「こっち!」
同じ答え。
「名前!」
「ニノ!」
「何歳!」
「十二歳!」
赤い布のニノも、青い布のニノも、答えた直後に一度だけしゃっくりをした。笑うと出る癖だが、今は怖さと見栄が半分ずつだった。二人とも階段を上るときだけ段数を逆から数え、同じ七段目で言い間違えた。
片方だけを本物と呼ばれそうになると、どちらも非利き手で首の布を触る。大人の言葉を借りて強がる一方、目は第一歩号の食料箱にある星形の菓子を追っていた。二つの自己像を持っていても、十二歳の腹は一つずつ空く。
「最後に食べたもの!」
「朝のパン!」
全部同じ。
白迷海が、一人の現在を二つへ写している。
「どっちも今だ」
ナギが青ざめる。
分類を守るナギにも、すぐ答えは出ない。片方を「写し」と呼べば、もう片方へ本物の席を独占させることになる。
「二人とも、遊びたいものは?」
危機の中で、役目ではない問いを選んだ。
「秘密基地」と右。
「迷路」と左。
同時ではなかった。ニノは恐怖だけでできた存在ではなく、別々に遊びたがる十二歳だった。
「どうする?」
カナタが訊く。
ザンバが灰旗の黒い点を二つの家舟の中央へ向けた。
「輪が一つなら、中心は一つだ」
「中心?」
「二つの現在が戻る場所」
輪の中央。
何もない白い空。
そこから、低い鐘の音が鳴った。
ごおおん――。
家舟が中央へ引かれる。
第一歩号も。
霧が盛り上がる。
最初に現れたのは、巨大な白い鱗だった。
一枚の中に、閉じた風路が何百本も走っている。
次の鱗。
その次。
白迷海そのものが長い胴へ変わる。
頭は雲島ほど大きい。
目は二つ。
ただし、どちらも自分の尾を見ている。
口の中には、帰鐘塔と同じ閉じた円の紋章。
「《環路蛇》――ワダチ」
ザンバの声が低くなる。
古い港録では、同種の中でもこの個体だけを《環路蛇ワダチ》と呼び分けていた。尾の輪を完全には閉じず、一指ぶんの欠け目へ抜け殻を置く。閉じた道を巣としながら、自分の眠る輪だけには小さな出口を残す個体だった。
「知ってるのか?」
「古い港の記録で読んだ。帰りたいという願いを食い、道を輪へ変える標災」
「標災って何?」とナギ。
「標術が、人の願いを一つへ歪めすぎたときに生まれる災い」
「じいちゃんの旗から?」
「ガルド一人ではない」
ワダチの鱗の中に、無数の顔が見える。
鱗の輪紋は一枚ごとに閉じているが、今は幾つかがずれ、舌が四つに分かれて外向きの音へ震えていた。往きと帰りが別々に鳴り始めたため、巣の形を決められずにいる。
ワダチは怒りで船を選んでいるのではない。戻る音を持つものへ巻きつき、中心へ押し返す。島の制度が《帰れ》だけを強くするほど、餌と巣の区別を失って巨大化してきた。
帰ってこない家族を待つ者。
外へ出るのが怖い者。
同じ港へ戻りたい船。
帰れと言われ続けた子ども。
「島中の帰りたいが餌になってる」
蛇が口を開いた。
鐘の音が轟く。
ごおおおん――。
第一歩号の進路がねじ曲がる。
船首が船尾へ向く。
家舟は完全な輪へ閉じた。
二人のニノが一人へ重なりかける。
赤い側は作業眼鏡を額へ押し上げ、青い側は片足で床を小さく踏んだ。二つとも同じ癖ではない。片方は手元の裂け目を見て、片方は足音で床の位置を確かめていた。
白迷海が写したのは同じ答えではなく、一人の中にあった違う対処までだった。
「痛い!」
同時に叫ぶ。
「助けろ!」
カナタは白旗を振った。
「家舟から第一歩号!」
一歩。
二つのニノへ同じ光板。
また両側から引かれる。
「一人ずつ!」
ルゥが銀糸を二本へ分ける。
「右の今と左の今を、別々に!」
「どっちが本物!」
「今は両方!」
二本の銀糸が、それぞれのニノを違う位置へ縫い止めた。
カナタは光板を二枚出す。
右。
左。
同じ行き先。
第一歩号の甲板。
「二人とも踏め!」
ニノが一歩を上げる。
ワダチの尾が家舟へ巻きつく。
道が丸まる。
右の光板が左へ。
左が右へ。
二つのニノがまた同じ場所へ戻される。
「輪を切れ!」
カナタがザンバへ叫ぶ。
ザンバは灰旗を構えない。
「断る」
「なんでだ!」
「切れば家舟と港のつながりも消える」
「今は助けるんだ!」
「だから切らん」