第37話 第七章「七日目と七年目」前編
ザンバの機巧腕が灰旗を握り込み、金属指が一度軋んだ。最適な一本を切れば、目の前の危機だけは早く終わる。その誘惑を、本人が誰よりよく知っている。
生身の左手で機巧腕を押さえた。切る手を、受け取る手が止める。
ワダチの尾が第一歩号へ巻きつく。
進んだ距離が吸い戻される。
現標板から、青燕号の記録が一枚剥がれた。
霧へ戻る。
「記録まで食べる!」
ナギが札へ飛びつく。
母の音。
三回の船。
五回の船。
七回の船。
全部が島の《帰れ》へ書き換えられようとする。
「返さない!」
ナギは札を自分の半旗へ縫いつけた。
針はコヨリのもの。
一枚。
二枚。
聞いた声を、自分の記録へ残す。
ワダチが身をよじる。
第一歩号の船体が軋む。
「ザンバ!」
ルゥが叫ぶ。
「後ろの道じゃない! 蛇が作った輪だけ切れる?」
「できる」
「今!」
「まだだ」
「何を待つの!」
「切った先を道へ戻す者」
ザンバは黒布の残る灰旗を握った。
「俺の《終点》は、切るだけだ。輪を断てば、家舟も第一歩号も白迷海へ散る」
「私がつなぐ!」
「今の継ぎ路では足りん」
「じゃあ!」
「中心へ行く」
ワダチの口。
閉じた円の紋。
そこから、ナギの母の返事が聞こえる。
二、三、二。
考えながら返した、今の音。
「母さん、蛇の中?」
「蛇が、次標旗までの道を食ってる」
ルゥは操舵輪をワダチへ向けた。
「外から逃げるほど輪が大きくなる。なら、中心を通る」
「口へ?」
「ほかに入口ある?」
「尻尾!」
「出口!」
「分かりやすい!」
「入るほうを考えて!」
カナタの顔が明るくなる。
「蛇の腹まで道を作る!」
「待ってましたって顔しないで!」
白旗を突く。
「標術――《未踏路》! ワダチの中心!」
口の前へ一歩分の光板。
さらに一歩。
蛇の顎へ。
第一歩号が光路へ乗る。
家舟はまだ尾に絡まれている。
「ニノは!」
カナタが叫ぶ。
「連れていく!」
ルゥは銀糸を家舟へつないだ。
「船首と船尾を別々に固定したまま!」
「二隻になってる!」
「今は二つ!」
第一歩号が家舟を曳く。
二人のニノが窓から顔を出す。
「港へ帰れる?」
「帰る道を探しに行く!」
カナタが答える。
ワダチは待ち受けるように顎を開いた。
白い牙。
牙の一本一本が、戻り損ねた道標旗。
「全員、つかまって!」
ルゥが操舵輪を蹴る。
第一歩号は蛇の口へ飛び込んだ。
家舟が続く。
世界が鐘の音へ変わった。
ごおおおおん――。
ワダチの腹の中には、無数の港があった。
第一歩号は光る川の上を滑っている。
左右には、失われた船着き場が浮かぶ。
誰も帰らなかった家の玄関。
閉鎖された駅のホーム。
崩れた橋のたもと。
待つ者が立てた旗だけが、時間の止まった景色の中ではためいている。
「全部、帰り道を失った場所」
ナギは半旗へ縫った札を押さえた。
「ワダチは帰りたい願いを食う」とザンバ。
「食われた願いは、腹の中で同じ場所を待ち続ける」
「蛇を倒せば帰る?」
「道が残っていればな」
「残ってなかったら?」
「新しく作る!」
カナタが即答する。
ザンバは否定しない。
「そのために、今の場所を残せ」
家舟は第一歩号の後ろへつながれていた。
二つに分かれた船体。
二人のニノ。
右の子には赤い布。
左の子には青い布。
ルゥが首へ結んだ。
「名前は同じでも、今の位置を分ける」
「赤い俺と青い俺?」
「輪がほどけるまで」
「ほどけたら一人?」
「本人が決める」とザンバ。
「一人になるのを決められるの?」
「分からん」
「分からないの多い!」
「白迷海だ」
光る川が何本にも分かれた。
ナギの鈴が鳴る。
ちりん。
「左!」
「左が三本ある!」
「一番、返事が遅い道!」
「感覚で言わないで!」
「真ん中!」
第一歩号が中央へ入る。
背後の道が閉じ、別の道へつながる。
港の景色が流れる。
ある家では、老女が毎日同じ椅子を玄関へ出していた。
ある桟橋では、子どもが父の船へ振る旗を上げたまま眠っている。
ある駅では、到着を告げる鐘が鳴る直前へ戻り続けていた。
「助けられない?」
カナタが何度も訊く。
ルゥは現標板へ場所を書き続けた。
――青い扉の家。
――三本柱の桟橋。
――逆さ時計の駅。
「出口を開けたら、戻る先が要る」
「全部覚えられる?」
「板が足りない」
「船体へ書く!」
「やめて!」
「帆!」
「破れたら消える!」
「俺の上着!」
「洗う!」
ナギが自分の冊子を広げた。
コヨリが七年ぶんの音を残した冊子。
余白へ、新しい場所を一つずつ記す。
「私が書く」
「字、書ける?」
「カナタより」
「比べる相手が低い!」
「読める字で頼む」とザンバ。
光る川の先に、逆さまの灯台が現れた。
細長い岩島が、天井から吊られるように浮かんでいる。
先端に青い旗。
いや、立ってはいない。
一人の女が、両手で旗竿を岩の裂け目へ押し込んでいた。
長い青緑色の髪。
風焼けした頬。
外套はぼろぼろ。
片方の靴はなく、足へ旗布を巻いている。
三十五歳。残った左靴だけは、自分で何度も縫い直した跡がある。左手の薬指は最後まで曲がらず、結び目を人と逆の順で締めていた。鍔の深い帽子は失くしているため、青い光を受けるたび目から涙が出る。泣いているのか、眩しいのか、本人にも区別がつかなかった。
腰には七冊の薄い短冊帳。一日一冊ではない。同じ七日が折り返すたび、届かなかった言葉を別の冊へ書き直したため、七年ぶんではなく七通りの迷いが膨らんでいた。
それでも瞳だけは強く光っていた。
足元の小鐘が、風もないのに揺れる。
「母さん!」
ナギが船縁から身を乗り出す。
女が顔を上げる。
「……ナギ?」
第一歩号が岩島へ横づけする。
止まる前に、ナギは飛び降りた。
「母さん!」
「待って、危な――」
ナギの拳が、女の腹へ入った。
「ぐふっ」
「七年!」
「な、なな?」
「七年も帰ってこなかった!」
「七日よ!」
「七年!」
「嘘!」
「本当!」
もう一発殴ろうとした腕が止まる。
ナギは女へ抱きついた。
「ばか……!」
女――イオラは、旗竿から片手を離した。
ナギの背へ触れる。
「大きく、なった」
「七年だから!」
「私には七日だったの」
「知らない!」
「ごめん」
「帰るって言った!」
「うん」
「ずっと待ってた!」
「うん」
「じいちゃん、もう母さんは死んだって……!」
「うん」
「会いたかった!」
最後は泣き声になった。
イオラは片手で娘を抱きしめる。
もう片方の手は、青い旗から離せない。
カナタたちが岩島へ降りる。
赤いニノと青いニノも、家舟の窓から見ている。
「殴ってから抱くんだ」と赤。
「順番が大事」と青。
「真似するな!」とルゥ。
イオラは三人と一隻を見回した。
「この船は?」
「第一歩号!」
「鍋蓋号?」
イオラは地図の端を考えながら噛む癖で、第一歩号の航路図へ歯を立てかけた。ナギが即座に引き抜く。
「それ、私の今の記録」
「昔から地図は噛んで考えるの」
「昔を理由に今の紙を噛まないで」
再会して最初に起きた生活の食い違いは、涙より小さく、だからこそ七年の長さをはっきり見せた。
「母さんも分かる人!」とナギ。
「違う!」
カナタは胸を張った。
「《未踏路士》カナタ!」
「航路機巧師ルゥ」
「監視役のザンバ」
「響路士になる予定のナギ!」
「予定?」
「あと二十七日で十五歳」
イオラの顔が止まる。
「十五歳?」
「七年!」
「私、出たとき八歳のナギを置いてきた」
「今は十四!」
「誕生日、七回……」
「祝ってない!」
「父さんは?」
「じいちゃん!」
「コヨリは?」
「旗織り見習い!」
「バンロさんは?」
「鍋師!」
「機巧師!」とルゥ。
イオラは笑いかけ、途中で泣いた。
ナギも泣きながら怒る。
「勝手に七日で済ませないで」
「済ませない」
「帰ったら七年ぶん話す」
「聞く」
「母さんの話も七日ぶん」
「少ない」
「同じ一日を何度も通ったから、長い」
「ずるい」
「ごめん」
ルゥは青い旗の根元へ銀鋲を当てた。
「これが《次標旗》?」
「そう」
イオラは頷く。
「白迷潮の外へ出る風路を作るため、固定点を探して空裂き岬まで来た」
「ここが空裂き岬?」
「本当は白迷海の中で位置が変わらない岩島。ワダチに食われてから、腹の中へ固定された」
「旗は立ってない」
「始標旗が受け入れない」
カナタが旗竿を一緒に押す。
先端は岩の裂け目へ入る。
手を離すと浮き上がる。
「力が戻る!」
「帰る道が強すぎるの」
イオラは旗を握り直した。
「二本の旗は、置くだけじゃ道にならない。始標旗が『行け』と送り、次標旗が『来い』と受ける。その二つがそろって、初めて往きの道ができる」
「帰る道は?」
「次標旗が『帰れ』と送り、始標旗が『おかえり』と受ける」
「四つも言うのか!」
「二本の旗が二回ずつ」
「難しい!」
「だから港には鐘守がいる」
ナギが青い旗へ手を添える。
「じいちゃんは、ずっと『帰れ』しか言ってない」
「私が出るとき、『行ってこい』を言わなかった」
イオラは寂しそうに笑った。
「喧嘩したの。白迷潮が近づいてると話しても、外へ出るなと言われた。私は勝手に次標旗を持ち出した」
「ナギを置いて?」とカナタ。
「帰ってくるつもりだった」
「父ちゃんも言った」