第38話 第七章「七日目と七年目」後編
カナタの声が少し硬くなる。
イオラは逃げずに頷いた。
「帰るつもりと、帰れる道を残すことは同じじゃなかった」
イオラは非利き手で次標旗の札を触った。娘をまた置いていく話になると、片足へ重心が偏る。
「私は被害に遭った。でも、それだけじゃない。帰る時期を言わず、分かってもらえると思って説明をやめた親でもある」
ナギはすぐ許さなかった。
「帰ってから、その順番で話して」
「うん」
母へ戻るのではなく、十四歳の娘へ初めて会う大人として話し直す約束だった。
「でも旗を持ってた」
「始標旗へ、私から『行ってきます』を言わなかった」
ナギが母を見る。
「じいちゃんだけじゃない?」
「私も、父さんが分かってくれると思って出た。説明を途中でやめた。ナギには『すぐ帰る』だけ」
「すぐじゃなかった」
「うん」
「戻ったら、最初から話して」
「うん」
イオラは岩島の奥を示した。
そこには、七日ぶんの作業跡がある。
風向きの記録。
ワダチの脈。
帰鐘塔から来る音。
失われた船の位置。
イオラも、一人で聞いた道を残していた。
「青燕号を見た?」
「三日目に。輪へ深く入った」
「ニノの家舟は?」
「五日目」
「俺たち、二人いる!」と赤。
「今はね」と青。
「ほかの港も記録した」
イオラの図と、ナギの冊子を重ねる。
青い扉の家。
三本柱の桟橋。
逆さ時計の駅。
同じ場所がいくつもある。
「帰り道を開いたら、全部一気に島へ流れる」
ルゥが図を見た。
「受け止めきれない」
「だから、私は旗を離せない」
イオラの腕から血が流れている。
「次標旗を抜けば、仮に固定してる道が全部ほどける。ワダチの腹の港が、トマリギ島へ一度に帰る」
「島が潰れる?」
「道の重さで」
遠くで鐘が鳴った。
ごおん――。
岩島全体が震える。
白い空に、トマリギ島の影が浮かぶ。
円路が縮み始めている。
家々が中央へ引かれ、外周の崖が内側へ折れる。
「永久帰鐘」
ナギが青ざめる。
「三日後じゃなかったの?」
「第一歩号が出たからだ」
ザンバが言った。
「ガルドは白迷潮より先に島を閉じるつもりだ」
銀旗から、何百本もの光糸が伸びる。
町の旗を吸い上げ、閉じた円を厚くする。
青い次標旗が強く引かれた。
イオラの両腕へ裂け目。
「母さん!」
「ナギ。島へ戻って」
「一緒に!」
「私は旗を離せない」
「じゃあ旗ごと!」
「今抜けば、島がもたない!」
「また私を置いてくの!?」
「今なら、あなたたちは帰れる」
イオラは娘の頬へ触れた。
「永久帰鐘が完成したら、外から島へ入れなくなる。その前に行って」
「嫌!」
「ナギ」
「七年待ったの! 会ってすぐ、また待てって言うの!?」
青い旗が軋む。
岩の裂け目が広がる。
カナタは白旗を構えた。
「俺が道を作る。みんなで帰る」
「無理よ」とイオラ。
「やってないのに決めるな!」
旗を空へ突く。
「トマリギ島へ!」
一歩分の光板が生まれる。
すぐ円を描いて岩島へ戻る。
「もう一回!」
「島はあなたたちを帰そうとしてる。でも私は、ここへ固定されてる」
イオラが言う。
「一つの道が、二つに引かれてるの」
「なら両方へ!」
「カナタ!」
ルゥが腕を掴んだ。
「また勝手に決めるの?」
「何が!」
「あんたは、道を作ればみんなが歩くと思ってる。でも、ナギは母親と帰りたい。イオラさんは旗を守りたい。ニノは自分が一人か二人か分からない。私は船と家舟をばらばらにしたくない。ザンバは輪だけ切りたい」
「全部やる!」
「それは行き先じゃない!」
ルゥはカナタの胸を指で押した。
「聞いて。あんたの旗は、命令する旗じゃない。みんなの行き先へ、一歩を置く旗」
カナタは白旗を見る。
天頂門で、村人たちの願いが集まった。
アカリ。
ルゥ。
村長。
トウヤ。
フィオ。
同じ上ではなかった。
カナタが一人で未来を決めたわけではない。
「ナギ」
カナタは訊いた。
「どこへ行きたい?」
ナギは母の手を握った。
「母さんと島へ帰りたい」
一度息を吸う。
「それから、今度は一緒に外へ出たい」
「イオラさんは?」
「娘の明日へ」
イオラは答えた。
「島へ帰って、父に謝って、次標旗を立て直す。それから、失われた船を探す」
「ルゥ」
「第一歩号で全員を運ぶ。船も家舟も置いていかない」
「ザンバ」
「閉じた輪を終わらせる」
男は灰旗の黒い布を握る。
「帰路は残す」
「ニノ」
赤と青が顔を見合わせた。
「家へ帰りたい」と赤。
「でも、どっちが家へ帰る?」と青。
「二人で帰る」
「一人しか寝台がない」
「広げる!」とカナタ。
「今は二人で帰る」とルゥ。
「そのあと、決める」
全員がカナタを見る。
「俺は」
カナタは遠く、縮んでいく島を見る。
その向こうには、まだ見ぬ世界。
今は戻りたい。
戻ったあと、また出たい。
「世界の果てへ行く」
笑う。
「帰って、みんなに自慢するために」
「先に村の話を聞くんでしょ」とナギ。
「それも!」
白旗の紋章が輝く。
無数の道の中に、二本の線が浮かぶ。
行く線。
帰る線。
ただし、まだつながらない。
「行き先は一つね」とルゥ。
「どこだ?」
ナギが訊く。
カナタは旗を掲げた。
「みんなが、帰ってから次へ行ける場所!」
「長い!」
「でも同じ!」
ナギが笑った。
イオラも、泣いた顔のまま笑う。
ザンバはため息をつく。
「相変わらず雑な船長だ」
「褒めてる?」
「一度も褒めたことはない」
ナギの鈴が鳴った。
ちりん。
音は、遠く帰鐘塔へ伸びている。
「じいちゃんへ話す」
ナギは鈴を両手で握る。
「七年ぶん」
「届く?」
「今はワダチの腹」
「分かりやすく!」
「島の鐘へつながってる。でも、声を送れば残響になる」
「返事を区別する場所が要る」とルゥ。
全員の目が、現標板へ向く。
カゲノハ村。
アカリ。
島の外にある第三の現在地。
「二本の旗だけだと、輪になる」
ルゥは設計図へ三つ目の点を描いた。
「始標旗と次標旗。その間の声が、どちらかへ引かれる。外から『今、ここ』を返す人がいれば、声が同じ場所へ戻ったのか、向こうへ届いたのか分かる」
「アカリに手伝ってもらう!」
「声は届かない」
「大きく!」
「だから距離じゃない!」
ナギは朝葉機関の不揃いな音を思い出した。
今の村だけが返せる音。
「アカリへ呼ぶ。アカリが返す。その返事を道にして、じいちゃんへ声を送る」
「三角?」とカナタ。
「三点」とルゥ。
「同じ!」
「違う!」
ワダチの腹が大きく揺れた。
永久帰鐘が進んでいる。
時間は少ない。
それでも、今度は誰か一人が答えを決めなかった。
イオラが次標旗を支える。
ルゥが線を読む。
ナギが呼ぶ。
カナタが声の一歩を置く。
ザンバが輪の境目を見張る。
遠いカゲノハ村で、アカリが返事をする。
道はまだない。
二歩目を置く者は、すでに何人もいた。
ワダチの腹には、夜がなかった。
それでも第一歩号の朝火炉を落とし、白い岩島の灯を一つだけ残すと、乗員たちはその時間を夜と呼んだ。
イオラは次標旗から手を離せない。
七冊の短冊帳は、旗竿の根元へ紐で結ばれていた。一日一冊ではない。同じ一日を何度も通るたび、送れなかった言葉を別の冊へ書き直したものだ。
――ナギへ。朝の鈴を忘れた。
――ナギへ。忘れていない。音が届かない。
――ナギへ。帰ったら、今好きなものを聞く。
矛盾する文を消さず残していた。故人の記録ではなく、変わり続けた生者の迷いだった。
ルゥが銀糸で旗竿と岩を一時的につなぎ、両腕へ包帯を巻くあいだだけ、ナギが代わりに支えた。
「重い」
「七日ずっと持ってた」
「七年待った」
「……うん」
「そこで黙らないで」
「何て言えばいいか分からない」
「分からないって言って」
「分からない」
「今のは正しい」
休憩に、イオラは荷袋から赤い蜜菓子を三つ出した。八歳のナギが一番好きだったものだ。白迷海へ入る前、帰った日のために買い、七日間ずっと持っていた。
「今は好きじゃない」
ナギの返事に、イオラの手が止まる。怒らず、菓子を自分で一つ食べた。乾いて歯へ張りつき、昔より甘過ぎた。
「今、好きなものは?」
「焦げた丸パンの端。低い鐘。雨の遠い音」
「食べ物、一つしかない」
「母さんの質問が広い」
イオラは短冊帳の最初の頁へ、娘の現在の好みを一から書いた。昔の好物を買い足すより、知らない今を聞くほうを選んだ。
ナギは次標旗を押しながら、母を横目で見る。
顔は、記憶より少し痩せている。
髪は長くなり。
左の眉に、小さな傷が増えている。
七年前と同じではない。
でも、自分ほどは変わっていない。
「私の誕生日、何回忘れた?」
「忘れてない」
「何歳になったと思ってた?」
「八歳の次」
「それが何歳?」
「九歳」
「今は十四」
「聞いた」
「十五歳の儀式、来月」
「帰る」
「今度は私が決める」
イオラはすぐ頷いた。
「そうして」
謝られるより、反対されると思っていたナギのほうが困る。
「母さんは、帰りたい?」
カナタが横から訊いた。
「本人に聞いた!」
「今は良い聞き方」とルゥ。
イオラはトマリギ島の影を見る。
「帰りたい」
「決まり!」
「でも、出た日の家へ戻れるとは思ってない」
「家は同じだろ」