第39話 第八章「三つ目の現在地」前編

「父は七年老いた。ナギは十四歳。コヨリは旗織り見習い。港の船も人も変わった」

「場所は同じ!」

「場所も変わる」

イオラはカナタを見る。

「あなたの村は?」

「カゲノハ村!」

「今の村」

「同じ!」

「旅人宿の屋根は?」とルゥ。

「緑!」

「紙札では、建ててる途中」

「今はできた!」

「色は?」

「緑!」

「アカリは書いてない」

「俺なら緑にする!」

「村が決めるの」とナギ。

カナタはむっとする。

自分の頭の中には、出航の日の村がある。

苔灯り。

南橋。

父の椅子。

アカリの薬箱。

そこへ、新しい屋根や見習いの机を置こうとすると、どれも借り物のように浮く。

「帰れば分かる」

「帰る前にも聞ける」とナギ。

「話したいことが多い!」

「先に一つ聞く」

「難しい!」

「練習」

ナギは響瓶になる前の空瓶を持ち上げた。

「次にアカリから返事が来たら、村の質問を一つ」

「世界の果ての話を三つ!」

「一つ」

「二つ!」

「質問が先」

「分かった!」

「今の顔は分かってない」とザンバ。

男は岩島の端へ座っていた。

灰旗の黒い点を、指で何度も押さえている。

終点を使えば、ワダチの輪を切れる。

同時に、帰る道まで失うかもしれない。

「ザンバ」

イオラが呼ぶ。

「黒旗の?」

「今は灰だ」

「アステルの仲間」

「そうだ」

「帰還路を切ろうとした人」

ナギとルゥがザンバを見る。

カナタだけは、すでに知っていた。

「切ろうとした」

ザンバは逃げずに答える。

「なぜ」

「返事を聞く前に、アステルの選択を敗北と決めた」

「今は?」

「返事を聞いた」

「本人は死んでる」

「残った道からな」

イオラは少し考える。

「道が返事をすることもある」

「それで許されるとは思っていない」

「許す話をしてない」

イオラの声は静かだった。

「次に、返事を聞くかを聞いてる」

ザンバはワダチの腹へ耳を向ける。

無数の帰れ。

待て。

戻れ。

その中に、まだ意味の決まっていない音がある。

「聞く」

短く答えた。

「切るのは、そのあとだ」

家舟のニノが、赤と青の布を首へ巻いたまま第一歩号から降りてきた。

「俺、二人のまま帰ったら、家の人はどっちを『おかえり』って言う?」

「二回言ってもらう!」とカナタ。

「一人になったら?」

「一回!」

「減る」

「回数じゃない」とルゥ。

ニノは左右の自分の手を見る。

二つの家舟へ同時にいた記憶。

同じ朝のパン。

違う窓から見た第一歩号。

「片方が消える?」

イオラは首を振る。

「道が一つになっても、歩いた足跡は二つ残るかもしれない」

「かもしれない?」

「白迷海だから」

「分からないの多い」

「今いることは分かる」

ナギが五回、岩を叩く。

赤いニノが返す。

青いニノも。

少しずれた十回。

今は二人。

それを先に残す。

遠くから、朝葉機関の不揃いな音が来た。

からん。

ころん。

一度、音が抜け。

最後に短い、こん。

カゲノハ村の今。

「アカリ!」

カナタが空瓶へ顔を近づける。

「質問!」とナギ。

「旅人宿の屋根は何色!」

返事はすぐ来ない。

何十呼吸か後。

アカリの五回。

さらに、紙を擦る音。

文字はまだ届かない。

「調べてる」とルゥ。

「色くらい見れば分かる!」

「今、発着場にいないかもしれない」

「返事できるのに?」

「誰かへ聞いてる」

しばらくして、木片を三回。

苔灯りを一回。

最後に薬箱。

ナギが聞き分ける。

「半分、緑。半分、まだ下地」

「半分!」

「今は途中」

カナタは頭の中の屋根を、完成した緑一色から塗り替える。

半分だけ緑。

残りは木の色。

少し不格好。

でも、今の村。

「帰ったら、続き塗る!」

「誰が頼んだ?」とルゥ。

「聞く!」

「少し進歩」

岩島を、永久帰鐘の振動が揺らした。

休める時間は終わる。

ルゥは空瓶へ銀鋲を四本並べた。

「次は、声を三つの現在地へ渡す」

「島、第一歩号、カゲノハ村」

ナギが数える。

「二本の旗だけで閉じた輪にならないように」

カナタは白旗を持つ。

「最後まで作る?」

「一歩手前」

「また!」

「最後は、向こうの返事」

イオラは次標旗へ手を戻した。

「帰る道は、一人で完成させない」

白い夜の中で、干し茸の空瓶が小さく光った。

トマリギ島で、永久帰鐘の一つ鐘が鳴った。

ごおん――。

日暮れには早い。

白迷潮が予定より速く近づき、塔が準備を急がせている。

帰鐘塔の大広間では、銀の始標旗へ島中の布片が結ばれていた。

閉じた円は、以前より太い。

外へ向く線は一本もない。

ガルドが鐘の綱を握る。

「残りの旗を」

作業員が町へ走る。

そのとき、始標旗の根元から小さな音がした。

ちりん。

一度。

間。

ちりん。

二度。

次は、木。

こん。

金属。

きん。

最後に、二つの鈴が重なる。

ちりん。

五回。

同じ音ではない。

今いる場所にあるものを使い、誰かが返している。

ガルドの手が綱から離れた。

「残響です」

若い鐘守が言う。

「違う」

答えたのはガルド自身だった。

大広間が静まる。

老人は始標旗の根元へ膝をつく。

音のあとに、短い景色。

白い岩。

青い次標旗。

長い青緑の髪。

大きくなったナギ。

二人が並んでいる。

声はない。

現在地だけ。

「イオラ」

ガルドの唇が震える。

景色は消えた。

返事の穴が空いている。

サイラが大広間へ入る。

到着簿を抱え。

レトと、何人もの港の者を連れている。

「青燕号からも音が来ました」

板を叩く。

二、二、一。

途中で一度間違え。

やり直す。

「生きた音です」

「白迷潮の残照だ」

「さっき、違うと言った」とレト。

ガルドが少年を見る。

「聞いていたのか」

「塔の壁は音を通す」

「仕事へ戻れ」

「港を作る仕事」

レトは自分の錨旗を広げた。

「この布は結ばない」

大広間の空気が変わる。

永久帰鐘へ旗を渡すことは、島の決定だった。

拒む者は今までいなかった。

「白迷潮が来る」とガルド。

「知ってる」

「外へ向く道を残せば、町が引かれる」

「全部の道を一つへ結ぶから」

レトは始標旗を見る。

「僕は島に残る。でも、帰ってくる船のために、外へ開く港を作る」

「矛盾している」

「出ない人にも、出る道は要る」

「なぜ」

「帰ってくる人が使う」

サイラも自分の旗を出す。

十二本の到着線。

そのうち一本の先へ、空白の欄。

「私も結びません」

「弟のためか」

「弟がどこへ行くかは、弟が決める」

「では何のため」

「帰ると選んだとき、港を残すため」

大広間の隅で、雲漁師のダイラが立つ。

弟を青燕号へ乗せた男。

彼も釣針旗を塔から外した。

「俺は外へ行かん」

「なら結べ」とガルド。

「息子が朝雲を見たいと言ってる」

「白迷潮で死なせる気か」

「今は行かせない」

「なら同じだ」

「今は、だ」

島のあちこちから、旗を持つ者が集まる。

永久帰鐘へ結びたい者。

結びたくない者。

まだ決められない者。

声が重なる。

「外は怖い」

「娘が帰ってくるかもしれない」

「もう待ちたくない」

「待つことをやめても、門は閉じないで」

「島を守れ」

「島だけ守るな」

ガルドは鐘の綱を握る。

一人一人へ答える時間はない。

白迷潮の壁は、島の外周を白く染め始めている。

永遠に閉じれば、安全になる。

自分が決めれば、誰も迷わない。

七年前も、同じだった。

返事を待つ時間に耐えられず、鐘を鳴らした。

「始める」

ガルドは言った。

ナギの景色を見たあとでも。

「永久帰鐘を――」

始標旗の根元から、別の音が来た。

こん。

一度。

次は遠い鐘。

こん、こん。

三度目。

金属。

きん。

最後に、薬箱のへこんだ音。

ごつ。

五回。

始標旗の横へ、一枚の濡れた紙が押し出された。

サイラが拾う。

「カゲノハ村」

「どこだ」とガルド。

「第一歩号の故郷」

紙には、アカリの字。

――トマリギ島へ。

――返事、届いた。

――カゲノハ村、今、朝葉機関の鏡を二枚増設。

――旅人宿、三人到着。

――第一歩号、そちらにいる?

最後。

――いないなら、返せる人が返して。

「第一歩号は白迷海」とサイラ。

「返せる人」

レトが木槌を持つ。

「俺」

ガルドは紙を見る。

カゲノハ村。

会ったこともない場所。

トマリギ島を帰る場所にしていない人々。

それでも、島の鐘を中継にし、現在地を送ってきた。

トマリギ島へ届く返事は、一つの円の内側だけから来るものではなかった。

遠い場所同士が、返事を渡し合う網。

「勝手に島の鐘を使った」と若い鐘守。

「返す?」とレト。

ガルドは答えない。

レトは木槌を五回叩いた。

今、ここ。

サイラが紙へ書く。

――トマリギ島、白迷潮接近。

――第一歩号、島外。

――ナギ、イオラの現在地を確認。

――返事を待つ。

紙を始標旗の五つ目へ入れる。

銀の布が、一度だけ外へはためいた。

閉じた円に、小さな切れ目。

永久帰鐘へ結ばれた布片の一つが、ほどける。

旗の持ち主であるパン屋が、拾った。

「俺、決めてない」

呟く。

「怖いから結んだ。閉じたいかは、決めてない」

別の布片。

老女が取る。

「私は閉じる」

自分の旗へ戻す。

「外へ行かない。でも、ほかの人まで閉じない」

銀旗から、布片が一枚ずつ戻り始めた。

全員ではない。

残す者もいる。

閉じた道を選ぶ者もいる。

始標旗は、島中の生き方を一つの円へ押し込められなくなる。

ガルドは綱を握ったまま、動けない。

白迷潮が外周の一つ目の桟橋へ触れた。