第40話 第八章「三つ目の現在地」後編

石の行き先が消え、桟橋が塔の前へ折り畳まれる。

「鐘守!」

作業員が叫ぶ。

「今鳴らさなければ、島が潮へ呑まれる!」

ガルドはナギの鈴を思う。

七年前、返事を待たずに鳴らした。

今は返事がある。

けれど、何と答えるかを決められない。

帰ってこい。

それだけなら、また同じ輪を作る。

行ってこい。

娘を危険へ送り出す言葉。

「父さん」

紙から、声がした気がする。

イオラではない。

記憶の中。

出発の日。

『誰かが最初に行かなきゃ、二本目は立たない』

「最初でなくていい」

ガルドは当時答えた。

『じゃあ、誰の二歩目になる?』

その問いへ、七年返事をしていない。

「鐘守!」

白迷潮が二つ目の桟橋を呑む。

ガルドは綱から手を離した。

「永久帰鐘を中止する」

大広間が静まる。

「何を――」

「閉じる旗は、各自で閉じる。島全体の道を一つにしない」

「では、潮をどう防ぐ!」

ガルドは銀の始標旗を両手で持つ。

閉じた円。

七年前から、自分だけを中心にしてきた紋。

「二本目へ返す」

旗を塔の外へ向ける。

「出る道と、帰る道を分ける」

「次標旗は立っていない!」

「だから、立ててもらう」

ガルドの声が震える。

恐怖は消えない。

娘をまた失うかもしれない。

孫を。

島を。

それでも、返事の先を自分だけで決めない。

「鐘を二度鳴らす」

一度目の綱を握る。

「外へ行く者へ」

二度目。

「帰る者へ」

サイラが到着簿を開く。

レトが木槌を構える。

町の者たちが、自分の旗を自分の手へ戻す。

白迷潮の中。

空裂き岬で、ナギの鈴が大きく震えた。

「返事が来る」

イオラが青い旗を握る。

カナタは白旗を構える。

ザンバは灰旗の黒い点を見る。

ルゥは二本の銀糸を、同じ形に重ねず並べた。

始まりと、次。

呼び声と、返事。

二本目を待つ者たちは、それぞれの場所で息を止めた。

声を道へするには、まず瓶が要った。

「なんで瓶?」

カナタが訊いた。

「声を入れるから」

ルゥは第一歩号の食料庫から、干し茸の空瓶を持ってきた。

「もっと格好いいもの!」

「空いてるのがこれだけ」

「世界の果てへ行く船の通信機だぞ!」

「干し茸を食べきったの、誰?」

「俺!」

「役に立った」

「褒めてる?」

「瓶を」

岩島の中央へ、道具が並ぶ。

ナギの鈴。

第一歩号の返事の鐘。

現標板。

イオラの次標旗から抜いた青い糸一本。

コヨリが直した滑空翼の黄色い糸。

アカリから来た紙旗。

ルゥは空瓶の口へ銀鋲を四本打った。

一つ目は、ナギの鈴。

二つ目は、現標板の《今、ここ》

三つ目は、次標旗。

四つ目だけ、何にもつながない。

「空いてる」とカナタ。

「アカリの返事が入る場所」

「今つなげない?」

「返事は向こうがするもの」

「こっちで作れば早い!」

「それは残響!」

ルゥは瓶の底へ小さな鏡を置いた。

朝葉機関の試作鏡。

カゲノハ村の出航時、アカリが船へつけたもの。

光を返すだけの板だったが、今は遠い村の現在を覚えている。

「名前は?」

ナギが訊く。

「まだ」

《声瓶》!」とカナタ。

「そのまま」

《帰らずの声瓶》!」

「不吉」

《響瓶》

イオラが言った。

「音を閉じ込めるんじゃなく、向こうの返事で響く瓶」

「決まり!」

「船長が決めるの?」

「今、みんな同じ顔した!」

響瓶を現標板へ置く。

ナギは鈴を一度鳴らした。

ちりん。

「アカリ」

声は瓶の中へ入る。

外へは聞こえない。

干し茸の匂いだけが出る。

「本当に入った?」

「もう一回」とルゥ。

ナギが呼ぶ。

「アカリ。ナギです。今、白迷海。母さんといる。じいちゃんへ声を届けたい」

響瓶の内側へ、青い霧が溜まる。

言葉が色になったように揺れる。

「カナタ」

「おう!」

「未踏路は、カゲノハ村まで出さない」

「なんで!」

「最後の一歩はアカリの返事」

「俺の道なのに!」

「だから、あんたが全部作ると残響になる!」

「一歩手前?」

「一歩手前」

カナタは白旗を構えた。

行き先を考える。

カゲノハ村。

発着場。

南橋。

アカリの薬箱。

どれも自分が覚えている形。

今の形は、もう違うかもしれない。

「アカリの返事の手前!」

旗を突く。

「標術――《未踏路》!」

一歩分の光板が、響瓶の下に生まれた。

白い道はカゲノハ村へ伸びない。

瓶の底で止まる。

あと一歩。

向こうから踏まなければ届かない。

「ルゥ!」

《継ぎ路》!」

銀糸が光板と青い糸をつなぐ。

ナギの鈴。

次標旗。

響瓶。

現標板。

四つの間に線が張る。

ワダチの腹が反応した。

白い道を輪へ曲げようとする。

「ザンバ!」

ザンバは灰旗の黒い点を、光板の端へ置いた。

「切らないの?」

「まだ道ではない」

「何する?」

「境目を覚えさせる」

黒い点が、一歩手前へ小さな印を残す。

ここから先は、カナタの道ではない。

「ナギ!」

ナギは鈴を五回鳴らした。

今、ここ。

響瓶の青い霧が、光板へ乗る。

一歩。

瓶の底まで。

そこで止まった。

沈黙。

五呼吸。

十。

ワダチの鐘が遠く鳴る。

帰鐘塔の《帰れ》が、青い霧を島へ引こうとする。

イオラが次標旗を押さえる。

「まだ」

ナギは鈴を握った。

「アカリは返す」

「どうして分かる?」

「一度返した」

「今もいる?」

「返事が来るまで、いなくなったことにしない」

カゲノハ村で、アカリは朝葉機関の音を数えていた。

からん。

ころん。

音なし。

こん。

その直後。

発着場の現標板から、干し茸の匂いがした。

「何?」

アカリが顔を近づける。

小さな鏡が青く曇っている。

第一歩号へ渡した試作鏡と、同じ傷。

南橋の白杭が一度震えた。

ちりん。

知らない鈴。

ナギ。

アカリは薬箱を背負う。

「トウヤ!」

「何!」

「逆さ滝、中継!」

「今、朝食!」

「持って走って!」

「汁が!」

「飲んで!」

トウヤは椀を一息で空にし、昇標を掲げた。

フィオは発着場の風を集める。

セリは天頂門の保守籠を下ろす。

オウギは門の白杭へ耳を当てた。

「声が来る」

「聞こえる?」

「まだ瓶の中だ」

アカリは現標板の返事欄へ、自分の札を差した。

――アカリ。

――カゲノハ村、発着場。

――今、ここ。

五回叩く。

こん。

こん。

こん。

こん。

こん。

三つ目と四つ目の間が少し長い。

今の杭を通った音。

天頂門の外で、一歩分の光が現れた。

誰かがこちら側へ作りきらず残した道。

「最後の一歩」

アカリが言った。

紙の白旗を抜く。

標術はない。

未踏路も。

継ぎ路も。

普通の足で、光の手前へ一歩を置く。

白杭を踏む。

薬箱を五回叩く。

「返事!」

光板がつながった。

響瓶の青い霧が、カゲノハ村へ飛び出す。

瓶の中から声。

『アカリ。ナギです』

アカリが目を見開く。

トウヤも。

フィオも。

オウギも。

声は小さい。

干し茸の匂いが強い。

『今、白迷海。母さんといる。じいちゃんへ声を届けたい』

「聞こえてる!」

アカリは響瓶へ返事をする。

「カゲノハ村。発着場。アカリ。朝葉機関、二枚目が低い。旅人宿の屋根、緑。聞こえてる!」

アカリは左手で記録しながら、右手で響瓶を次の白杭へ渡した。名を書いた札だけ、角が丸い。大事な返事の前には薬箱のへこみを親指で三度なぞり、眩暈が来ると同じ角へもう一度指を置く。

ナギはその間の長さまで聞いた。返事が遅れたのではない。向こうで現在地を確かめ、別の手へ仕事を渡した時間だと分かった。

言葉が白杭へ入る。

天頂門。

白迷海。

ワダチの腹。

響瓶の空いていた四本目の銀鋲が、金色に光った。

「来た!」

ルゥが叫ぶ。

瓶の中から、アカリの声。

『聞こえてる!』

先に流れ着いた紙札は、一方通行の偶然だった。

今度は、ナギが呼び、アカリが聞き、その日の自分の現在地を、村の外へ意図して返した。

アカリが初めて成功させた、村外への返事だった。

カナタが瓶へ顔を突っ込む。

「アカリ!」

「まだこっちの声は入れない!」

「俺も話す!」

「今は中継!」

「村の屋根は緑!」

「知ってる!」

ナギは笑いながら泣いた。

「アカリ」

『ナギ』

「会ったことないのに」

『返事した』

ナギは小石袋から、まだ傷のない一粒を出した。響瓶の縁へ当て、アカリの五回を刻む。

「顔は知らない」

『私も』

「でも、返事の間は知ってる」

『今度、顔も更新する』

会う前から、二人は相手を理想像へしなかった。音と札で知った現在へ、あとから顔を足すつもりだった。

「うん」

『今、どこ』

「ワダチの腹」

少し沈黙。

『分かりやすく』

「白迷海の中!」

『そっちも分からない!』

ルゥが響瓶へ現標板を見せる。

「位置は正確に送れない。でも、三点がつながった」

カゲノハ村。

第一歩号。

トマリギ島。

三つが一つの輪ではなく、開いた三角形になる。

「アカリ。返事を続けて」

『五回?』

「五回。今の村の音も混ぜて。残響と区別する」

『分かった』

「じいちゃんへ声を送る」

ナギは響瓶を両手で持った。

次標旗から伸びる青い糸を、帰鐘塔へ向ける。

島の《帰れ》が押し返す。

アカリの五回が、横から現在地を支える。

カナタの光板は一歩手前。

最後は、ガルドが返さなければ届かない。

「じいちゃん」

ナギは話し始めた。

「母さんを見つけた」

響瓶の中で、声が青い波になる。

「生きてた。七年じゃなくて七日しか経ってないって。だから帰らなかったんじゃなくて、帰れなかった」