第41話 第九章「港を閉じる鐘」前編

イオラが隣へ来る。

「父さん」

声が重なる。

「ただいま、とはまだ言えない。まだ帰る道の途中だから」

青い波が、帰鐘塔へ進む。

一歩。

もう一歩。

最後の一歩手前で止まった。

ガルドの返事はない。

「聞こえてる?」

ナギが訊く。

島の鐘は《帰れ》を繰り返すだけ。

ごおん。

ごおん。

同じ音。

「残響」

ナギの顔が曇る。

アカリの声が響瓶から来る。

『待つ』

「でも永久帰鐘が!」

『返事が来るまで、一回だけ待つ』

「一回?」

『次に何をするか決めるまでの一回』

カナタが響瓶へ叫ぶ。

「俺も待つ!」

「声を入れるな!」

「入った!」

ルゥが瓶を取り上げる。

ザンバは、帰鐘塔へ向かう青い波を見た。

「返事がないことも答えだ」

「諦めろって?」

「違う。今は返していない、と残せ」

ナギは冊子へ書く。

――ガルド。呼び声、受信不明。

――返事、まだ。

「まだ、って書いた」

「次に変わる余地がある」とイオラ。

ワダチの腹が震える。

島の永久帰鐘は、返事を待たず進んでいる。

響瓶の中で、アカリが朝葉機関の四音を鳴らし続ける。

からん。

ころん。

音なし。

こん。

今のカゲノハ村。

同じではない音。

その変化が、二地点を閉じた輪へ戻させない。

「これ、道?」

ナギが訊いた。

「まだ声」とルゥ。

「返事が続けば?」

「道になる。でも、今の一往復は、三つがそろって初めてできた」

ルゥは響瓶へつながる三本の銀糸を指した。

「アカリの現標札が、今いる場所と宛先を残した」

「私の鈴が、呼び声を送って、返った音を聞いた」とナギ。

『ルゥの《継ぎ路》が、その一往復だけを混ぜずにつないだ』とアカリ。

「俺の一歩は!」とカナタ。

「瓶の手前」と三人。

「大事な手前!」

響瓶の青い霧が一度だけ揺れた。

『標を順番につないで、返事を運ぶ。連標、は?』

「試作《連標》

ルゥが言った。

「まだ一度、正しく往復しただけ。アカリだけでも、ナギだけでも、私だけでも成立しない」

《連標》

ナギが繰り返す。

「私、最初の外側?」

『正しく返せたら』

「じいちゃん!」

ナギは帰鐘塔へ向かって、もう一度呼ぶ。

「私たちを、今いる者として数えて!」

青い波が最後の一歩手前で揺れた。

今度は、島側から小さな音が返る。

こん。

一度。

誰かが、塔の根元を叩いた。

ガルドではない。

コヨリだった。

帰鐘塔の大広間には、島中の人々が集まっていた。

中央に銀の始標旗。

周囲に何百本もの道標旗。

住民たちは自分の旗から切った布を、一本ずつ銀旗へ結んでいく。

布を結ぶたび、町のどこかから色が消えた。

菓子屋の看板から、赤い果物の絵。

機巧師の図面から、まだ造られていない飛行具。

子どもの落書きから、島の外の青空。

旗織り場の棚から、コヨリが集めた外国の糸。

残るのは、閉じた円へ使える色だけ。

「鐘守よ」

雲漁師ソラトが口を開いた。

三十代半ば。

釣針の旗。

青燕号へ乗った弟を、五年待っている。

片眼鏡の枠には距離目盛りが刻まれ、見えるものを無意識に測る。左利きのため、共同の釣針は柄を逆向きに削ってある。眠りが浅く、鐘が鳴るたび体だけ先に起きるため、目の下の影は五年ぶん消えなかった。

希望から残響を生者と決めつけることを恐れるほど、声量が落ち、同じ質問を語順まで変えず繰り返す。今も釣針旗の青燕を、左の爪で五つ数えていた。

「青燕号の連中は、本当にもう帰らんのか」

ソラトの声は一段低い。

「青燕号の連中は、本当にもう帰らんのか」

語順まで同じに、もう一度。

「帰らぬ」

ガルドは鐘の綱を握った。

「弟が乗ってた」

「知っている」

「道を閉じたら、あいつが帰る場所も消えるんだな」

「待ち続ければ、お前の人生まで失う」

「忘れれば、失ってないことになるのか?」

ソラトは自分の旗を見た。

釣針の横に、小さな青燕が描いてある。

「分からん」

別の老女が呟く。

「外は怖い。でも、孫が一度くらい朝雲の上を走りたいと言ってた」

「島の中にも空はある」

「同じ空しかないよ」

若い母親が、子どもの鳥旗を抱えている。

「出ていって帰らなかったら?」

「閉じれば出ていかない」とガルド。

「帰ってくることもない」

大広間が静まる。

ガルドは目を閉じた。

杖が床を三度叩いた。娘。孫。島。守りたいものの数だ。四度目を打てず、外へいる者を数え損ねた。

昼から掌に握ったままだった甘い島果を一切れ口へ入れ、いつものように半分残す。失う前に自分から途中で止める癖が、食事にも政策にも同じ形で出ていた。

七年前。

イオラが次標旗を背負い、塔を出ていった朝。

『行かせない』

『行かなきゃ、島が閉じる』

『お前でなくていい』

『誰かが最初に行かなきゃ、誰も行けない』

『ナギを置いていくのか!』

『帰ってくる!』

『その言葉は聞き飽きた!』

ガルドは、出ていく娘の背へ一度も「行ってこい」と言わなかった。

鐘を鳴らした。

帰れ。

帰れ。

帰れ。

七年間。

帰ってこない娘へ。

外へ行きたがる孫へ。

自分へ。

「始める」

綱を引こうとした。

銀旗の根元で、小さな音が鳴った。

こん。

コヨリが、塔の床を拳で叩いていた。

「何をしている」

「返事」

「誰に」

「ナギ」

コヨリは床を五回叩く。

今、ここ。

銀旗が音を吸う。

同じ五回を塔へ戻そうとする。

コヨリは六回目を加えた。

こん。

決めたことのない音。

今日の自分が足した一回。

残響にはできない。

銀旗の布へ、小さな波紋が広がった。

『コヨリ?』

ナギの声。

大広間の全員が顔を上げる。

「ナギ!」

コヨリが響瓶のない床へ叫ぶ。

「聞こえてる!」

『母さんを見つけた!』

ガルドの手が止まる。

「どこにいる!」

『次標旗のところ!』

「戻れ!」

『戻りたい!』

ナギの声が大広間へ響く。

『でも、じいちゃんの旗が帰らせてくれない!』

「何を言う。私はずっと帰る鐘を――」

『帰れとしか言ってない!』

ガルドは言葉を失う。

別の声が重なる。

『父さん』

イオラ。

七年前と変わらない声。

ガルドの杖が床へ落ちた。

「イオラ」

『ただいま、とはまだ言えないけど』

娘の声。

『遅くなって、ごめん』

「七年だ」

『私には七日だった』

「ナギは七年待った」

『知った』

「私は」

ガルドの声が掠れる。

「私は、お前が死んだと思うことでしか、鐘を鳴らせなかった」

近い娘の顔がぼやけ、ガルドは一歩下がった。親密な会話ほど距離を取る癖が、また拒絶に見える。

それに気づいたイオラは追わず、「遠くても聞こえる」とだけ返した。父娘が初めて、距離の意味を同じにしなかった。

『それでも鳴らしてた』

「帰る場所を残すためだ」

『帰る道を閉じながら?』

ガルドは銀旗を見る。

閉じた円。

守るための輪。

いつの間にか、内側の者しか数えない檻。

「出せば、失う」

老人は呟く。

「お前の母も、兄も、旅に出て帰らなかった。お前まで同じだった。ナギまで失えと言うのか」

『失わないために閉じ込めるの?』

ナギの声。

『じいちゃん。港って、船を縛る場所じゃないよ』

「子どもに何が分かる」

『待つことなら分かる!』

鐘が震えた。

『七年待った。毎日、帰鐘塔を見た。鐘が鳴るたび母さんかと思った。でも、じいちゃんは私に外を見るなって言った。母さんを待つなって言った』

声が震える。

『帰る場所を守ることと、帰ってくる人を諦めることは違う!』

大広間の旗が一枚、外へ向いた。

コヨリの旗。

紋は、針と開いた布。

「私は島に残る」

コヨリは言った。

「だから閉じないで」

「残るなら、外の道は要らん」

「ナギが帰る」

「帰らなければ」

「待つ」

「また傷つく」

「傷つくかどうかを、私の代わりに決めないで」

ソラトが釣針の旗を上げる。

「弟が帰る港を残したい」

「五年だぞ」

「五年だから、閉じる日を俺が決める」

菓子屋が麦の旗を上げる。

「外の果物で菓子を作りたい」

「お前は島を出ないと言った」

「出た人から買う」

老女が杖へ布を結ぶ。

「孫の話を、ここで聞いて待ちたい」

子どもが鳥旗を上げる。

「空鯨を見る!」

「帰ってくる?」と母親。

「見るまで分からない」

「そこは帰るって言って!」

「帰る!」

「今決めた!」

笑いが一度だけ起きる。

すぐ、泣く者もいる。

外へ向いていた願いが、銀旗から戻り始めた。

閉じた円に、小さな切れ目が入る。

そのとき、別の声が響瓶から割り込んだ。

『ガルド!』

カナタ。

『あんた、帰ってくるって信じるのが怖いんだろ!』

「黙れ、小僧」

『俺も父ちゃんを十年待った!』

銀旗に、白い光が走る。

『帰ってこなかった。でも、待ったことが無駄だったとは思わねえ。待ってたから、父ちゃんが残した道を見つけられた』

「お前の父は死んだのだろう」

『ああ!』

迷いなく答える。

『だから、帰るってのは同じ形で戻ることだけじゃない。でも、生きて帰ろうとしてる人まで閉め出すな!』

「小僧に何が分かる」

『分からん!』

大広間が静まる。

『でも、分からないまま閉じるな!』

ガルドの目から、涙が落ちた。

「怖いのだ」

老人は初めて言った。

「また扉を開けば、誰かが出ていく。帰らぬかもしれぬ。待つ者は、何度でも傷つく」

『当たり前だ』

今度はザンバの声。